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ご   縁   の   あ   る   地

福 島 県 と の“ご 縁”

殉難者については、こちら
白河市  / 中通り

徳一大師の所縁については、こちら

殺生石 (常在院)

 永和2/天授2(1376)年、白河城主の招聘を受け、源翁禅師が開基。 法石山、曹洞宗。
 後に、九尾の狐の宿る殺生石を諫めて成仏させた時、幾片にも砕け全国各地に飛散した1つとされる「法石稲荷」が本堂裏に祀られている。
殺生石(常在院)  矢印板があり、すぐ分かる。


 源翁和尚三十三回忌に制作の「紙本著色源翁和尚縁起三巻、源翁和尚行状記一巻」を所蔵とのこと。
 ▲(白河市表郷中寺字屋敷79 Tel. 0248-32-2595)

碑「元帥畑俊六終焉之地」 (棚倉城趾)

「元帥畑俊六終焉之地」碑

 藩士/畑能賢の子。
 元帥陸軍大将。
 畑俊六については、こちら。

棚倉城趾  別名、亀ケ城。
 寛永2(1625)年、丹羽長重が築城。
 幕末時は棚倉藩の藩庁。

 ▲(棚倉町大字棚倉字城跡)

都都古和氣神社 (馬場都々古別神社)

都都古和氣神社

 つつこわけじんじゃ。
都都古和氣神社の西郷頼母の説明文  明治 8(1875)年、家老/西郷頼母 (保科近悳) が宮司に就任。
 明治10(1877)年、勃発した西南戦争に荷担した疑いで宮司を解任。
 ▲(棚倉町大字棚倉字馬場39 Tel. 0247-33-7219)

長沼城跡

長沼城 長沼城 長沼城



 文応元(1260)年、長沼隆時が築城とされる。  [全図} [配置}
 千代牛臥城、千世城、牛臥城とも。
 永禄9(1566)年、蘆名盛氏二階堂盛義を破り会津藩の支配下に置かれ、新国貞道が城主となる。
 天正18(1590)年8月7日、奥州仕置で会津に向かう途中に宿営している。
 同年、蒲生氏郷が入府し、家臣/蒲生郷安が城主となる。
 慶長3(1598)年、上杉景勝が入府し、家臣/島津忠直が城主となる。
 慶長5(1600)年、徳川家康の会津攻めに対抗する前線基地として大規模改修。
 慶長6(1601)年、蒲生秀行が入府し、家臣/蒲生郷治、玉井数馬介が城主となる。
 元和元(1615)年、一国一城令により廃城。
 現在では本丸跡や東三の丸跡が公園となっており、石垣の一部が残っているだけ。
 ▲(須賀川市長沼  長沼小学校の北側)

  道谷坂陣城
 慶長6(1601)年、上杉景勝が徳川家康の軍を迎撃するために構築した陣城の1つが、長沼城へ至る途中 (西方6Kmほど) にあった。
 ▲(長沼町江花/須賀川市江)
道谷坂陣城
道谷坂陣城
道谷坂陣城

須賀川城祉

須賀川城祉

 応永6(1399)年、二階堂行続 (治部大輔) が築城。
 伊達政宗の代は城主/石川昭光、上杉景勝では城主/栗田国時、蒲生氏郷では城主/田丸直昌蒲生秀行では城主/蒲生郷成と度々変わったが会津藩領であった。
町割図  寛永4(1627)年頃、加藤嘉明の代に廃城。
 二階堂神社辺りが、須賀川城の本丸跡。
 ▲(須賀川市諏訪町)

亜欧堂田善生誕之地 (胸像)

 遠藤香村の師 (油絵の調合法など) の1人。
 寛延元(1748)年〜文政5(1822)年5月7日 (75歳)
 本名:永田善吉。 号:亜欧堂田善。
 陸奥国須賀川の富豪 (農具商、染物屋とも)/永田惣四郎の次男。 白河藩主/松平定信に見出され、谷文晁の門下を経て、銅版画の先駆者/司馬江漢に師事し、洋風画家・銅版画家として名を成す。 「一翁如且居士」
 大正10(1921)年、埋葬地である長禄寺境内に顕彰碑が建立。
 ▲(須賀川市諏訪町)

須賀川橋

 県道355号須賀川二本松線 (奥州街道) にあり、須賀川市中心部を流れる一級/釈迦堂川に架かる橋。
 明治25(1892)年、江川三郎八により県内初の西洋式木鉄混交トラス橋として架けられる。
 全長59メートル、幅員6メートル。
 当時の最新式架橋技術は「江川式小屋組」と呼ばれ、全国各地に採用されていく。
 昭和9(1934)年、幅員拡張 (幅員8.5m) のため、新たに橋梁が架けられる。 現在の橋は平成13(2001)年に架けられたもの。
 ▲(須賀川市北町〜栄町・塚田)

安子ヶ島城

安子ヶ島城

 戦国の武将/阿子嶋氏の居城。
 安子島城、阿子ヶ島城、阿子島城とも。
 築城年は不明だが、応永11(1404)年には安子ヶ島藤沢祐義の安子島館があった。
 天正17(1589)年、伊達政宗の会津侵攻で蘆名氏と対決した磨上原の戦いの露払いとして 4月に政宗軍に包囲され、5月4日に攻め落とされ、阿子嶋治部大輔祐高は脱出する。
 天正18(1590)年、蒲生氏郷の入府により、蒲生郷成が城主となる。
 平成4(1992)年5月の発掘調査で茶臼や茶碗などが出たとのこと。
 現在では、安子ヶ島駅の西、磐越西線北側の道路沿いに石碑があるだけ。
 ▲(郡山市熱海町安子島字南町)

大槻城

大槻城

 永仁3(1295)年、安積伊藤氏が築城とされる。
 戦国時代には、幾度となく戦場の最前線となった。
 永禄2(1559)年、蘆名盛氏が攻め落とし、会津藩の支配下に置かれる。
 本丸跡が大槻小学校となり、今では遺構は見られない。
 ▲(郡山市大槻)

旧亀岡家住宅 (保原歴史文化資料館)

 明治37(1904)年、江川三郎八の設計により落成。
 建物の外部は洋風だが、内部は和風に造作という和洋折衷の大型住宅で歴史的・文化的にも貴重な建造物。
 昭和61(1986)年、旧保原町へ寄贈。
 平成7(1995)年、現在地に移築復元。
 平成28 (2016)年、国の重要文化財(建造物)に指定。
 ▲有料(伊達市保原町大泉字宮脇265 伊達市保原総合公園内 Tel. 024-575-1615)

霊山神社

霊山神社

 明治22(1889)年、家老/西郷頼母が神社の神職に就く。
 宮司を務めながら、県の師範学校/嘱託として講義。
 養子/西郷四郎に、境内で柔術を教えている。 四郎は後に上京し、講道館の嘉納治五郎に見いだされ、柔道家として一世を風靡する。
 明治32(1899)年、古希を機に、神官と すべての公職を辞して、若松へ帰る。
 ▲(伊達市霊山町大石字古屋舘1 Tel. 024-587-1326)

伊達稙宗 (陽林寺)

伊達稙宗の墓

 正室/泰心院が、蘆名盛高の娘。
 次女/養徳院が、蘆名盛氏の正室。
 だて たねむね、伊達氏の第14代当主。
 長享2(1488)年〜永禄8(1565)年6月19日 (78歳)
 初名:高宗。 通称:次郎。 号:受天。
 父/伊達尚宗、母/積翠院 (越後国守護/上杉房実の娘)。
 17代/政宗の曽祖父。
 「智松院殿直山円入大居士」
 墓は、自ら開基した陽林寺 (分骨)。

伊達稙宗の墓  
▲(福島市小田字位作山13
   Tel. 024-546-0177)

伊達晴宗の墓 (宝積寺)

伊達晴宗の墓

 4女/彦姫が、蘆名盛興の正室。
 通称:次郎。
 永正16(1519)年〜天正5(1578)年12月5日 (74歳)
 父/伊達稙宗、母/泰心院 (蘆名盛高の娘)。
 陸奥の戦国大名・奥州探題、伊達氏15代当主。
 「乾徳院殿保山道祐大居士」


宝積寺 伊達晴宗の墓


 ▲(福島市舟場町3-16
    Tel. 024-523-0748)

相馬利胤の墓 (同慶寺)

相馬利胤の墓

 正室/江戸崎御前が、蘆名盛隆の娘。
 天正9(1581)年〜寛永2(1625)年9月10日 (45歳)
 初名:虎王丸、三胤、蜜胤、利胤。 通称:孫次郎。
 父/相馬義胤、母/おきた (長江紀伊守盛景の娘)。
 17代当主、相馬中村藩/初代藩主。
 父/義胤より先に死去。
 「二照院殿日[王+粲]杲公大居士」

同慶寺 相馬利胤の入口


 ▲(南相馬市小高区小高字上広畑246
    Tel. 0244-44-2335)

伊達輝宗の首塚 (慈徳寺)

 伊達政宗の父。
 天正13(1587)年10月8日、二本松城主/畠山義継の謀反によって拉致された輝宗は、阿武隈川畔/高田原において横死。  子/伊達政宗によって遺体は慈徳寺に運ばれ、導師/虎哉和尚 (資福寺) と奠茶師/昌室和尚 (寿徳寺) によって荼毘に付された。
慈徳寺  輝宗の首塚 (灰塚) と伝わる五輪塔(上部のみの二輪)が残る。
 「覚範寺殿性山受心大居士」
 遺骨は、資福寺に埋葬された。
 ▲(福島市佐原字寺前9 Tel. 024-593-1736)

加藤明利公墓所 . (顕法寺)

 慶長4(1599)年、加藤嘉明と母/堀部市右衛門の娘の3男として松山で誕生。
 寛永4(1627)年、会津藩主となった父/嘉明に従い移る。
 翌寛永5(1628)年10月5日、二本松藩主となる。
 寛永18(1641)年3月25日、死去。
 「雲心夢月寶樹院」
 位牌は、御堂に安置されている。
 幕府から死因に不審ありとして、世継の長男/明勝は所領改易となり、正保2(1645)年に死去 (13歳) したため無嗣断絶となる。
 3男/嘉遐と4男/明重は、旗本として家名は存続。


白虎と同様に義を貫きとおし、
悪逆非道なに猛然と戦いを挑み、
短き人生を閉じた二本松藩/少年隊士の1人/田中三治も眠っている。

田中三治 .

 奥書役/田中昇蔵の弟。
 所属隊は、樽井弥五左衛門隊。
 慶応4(1868)年7月27日、糠沢村上ノ内の民家で宿陣中、に襲われて戦死。
 16歳。

 ▲(二本松市竹田1-198
     Tel. 0243-22-1081)


飯坂宗康の墓 (天王寺)

飯坂宗康の墓

 娘/飯坂の局が、伊達政宗の側室。
 生年不詳〜天正17(1589)年9月2日
 通称:小太郎。
 父/飯坂宗定 (氏定とも)、母/桑折宗保の娘。
 戦国時代から安土桃山時代の武将、信夫郡/飯坂城主。
天王寺 飯坂宗康の墓
 ▲(福島市飯坂町字天王寺11 Tel. 024-542-2439)

松下重綱の墓 (州伝寺)

松下重綱の墓

 正室/星覚院が、加藤嘉明の娘。
 嫡男/長綱と娘を出産。
 寛永4(1627)年3月、加藤嘉明の会津拝領で、安達郡46ヶ村5万石を領知。
 「州伝院長厳長洋大居士」
 子/長綱、孫/豊綱3代の墓碑。
 天正7(1579)年〜寛永4(1627)年10月2日 (49歳)
 父/松下之綱、母/松下連昌の娘。
 久野藩/2代藩主、小張・烏山・二本松藩/初代藩主。

≪ 東北三十六不動尊との ご縁 ≫

 第三十一番 遠藤ヶ滝不動堂 (相応寺)

遠藤ヶ滝不動堂

 大龍寺薬師寺と共に東北三十六不動尊の1つ。
 ・遠藤ヶ滝不動尊、赤不動尊 (奥ノ院本尊)
 ・御朱印は、相応寺。
 ▲不動堂 (大玉村玉井字前ヶ岳)
        ※ 安達太良温泉の駐車場より徒歩5分
 <御詠歌> 安達太良の 御山の里の 不動尊
       滝に打たれて 祈る巡礼

相応寺

 相応寺
 大同2(807)年、徳一大師が安達太良山/一峰眉岳(前ヶ岳)に開基。
 永禄3(1560)年、現在地に移る。
 安達太良山、新義真言宗。 本尊は大日如来。
 ▲相応寺 (大玉村玉井字南町188 Tel. 0243-48-2420)


 第三十四番 厄除不動尊 (円養寺)

円養寺

 大龍寺薬師寺と共に東北三十六不動尊の1つ。
 ・厄除不動尊 (寺本尊)
 ・御朱印
 <御詠歌> 詣で来る 己身の迷い この寺に
       しばしとどめて 関を越ゆ


 連峯山福寿院としての開創は不詳。
 明治21(1888)年10月28日、圓養寺として開基。
 成田山、真言宗智山派。 本尊は不動明王。
 ▲(白河市天神町43 Tel. 0248-23-0575)

 第三十五番 山本不動尊 (徳善院)

山本不動尊堂

 大龍寺薬師寺と共に東北三十六不動尊の1つ。
 ・山本不動尊 (寺本尊)
 ・御朱印
 <御詠歌> そびい立 梵天岩の 寺に来て
       石戸を開く 不動明王


徳善院  大同2(807)年、弘法大師 (空海) が創建 (伝)。
 石堂山、明王密寺、真言宗智山派。
 本尊は、阿弥陀如来。
 福島八十八ヵ所十九番。
 ▲(棚倉町大字北山本字小桧沢94-2
      Tel. 0247-33-2445)

 第三十六番 閼伽井嶽不動尊 (常福寺)

常福寺

 徳一大師が開基。
 大龍寺薬師寺と共に東北三十六不動尊の1つ。
 ・閼伽井嶽(あかいだけ)不動尊 (不動堂本尊)
 ・水晶山、真言宗智山派
 ・御朱印
 <御詠歌> ありがたや みつくにつとう 薬師尊
       夜毎に上る たつの(ともしび)


常福寺  天平6(734)年、大和国鷲峰山の住僧/源観上人が祈祷。
 大同元(806)年、徳一大師が開基。
 水晶山、真言宗智山派。 本尊は薬師如来。
 福島八十八箇所結願所、福島浜通り十二薬師第一番。
 ▲(いわき市赤井字赤井獄1 Tel. 0246-36-5894)


≪ みちのく七福神との ご縁 ≫

恵比寿 (関川寺)

 福寿山、曹洞宗。 本尊は釈迦牟尼佛。
 殉難者墓あり

 ▲(白河市愛宕町94 Tel. 0248-23-3538)


寿老人 (光恩寺)

観法山、天台宗。
本尊は久遠実成無作本仏。

▲(二本松市杉田町2-209
   Tel. 0243-23-7574)


布袋 (龍泉寺)

 永松山、曹洞宗。
 本尊は、釈迦牟尼佛 (布袋尊を安置)。

 ▲(二本松市二伊滝1-81 Tel. 0243-22-0423)


毘沙門天 (愛蔵寺)

 松尾山、明星院、真言宗豊山派。
 本尊は、聖観世音菩薩。

 ▲(二本松市戸沢細田10 Tel. 0243-46-2580)


大黒天 (正福寺)

 白龍山、日蓮法華宗。
 本尊は、御題目曼荼羅。

 ▲(福島市笹谷三本松22-2 Tel. 024-557-4613)


高橋藤園の銅像   鬼渡神社<福良>   鬼渡神社<中ノ沢>

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