蒲生家の後任として、寛永4(1627)年、会津藩に転封となる。
・統治 16年間 = 寛永4(1627)年〜寛永20(1643)年
・石高 40万石 会津 + 蒲原、安積、岩瀬、塩谷(一部)
嘉明公 → 明成公
☆ 在任 寛永4(1627)年2月10日〜寛永8(1631)年9月12日
徳川家康 家臣であった加藤教明の長男として、三河国に生まれる。
生れた年に、一向一揆に加担した父とともに、放浪の身となる。
まもなく羽柴秀吉に仕える。
賤ヶ岳の戦いでの活躍で、「賤ヶ岳七本槍」の1人と言われるまでになった。
☆ 在任 寛永8(1631)年9月12日〜寛永20(1643)年5月2日
加藤嘉明公の長男として生まれる。
寛永8(1631)年、父の死により、家督を継ぐ。
慶長16(1611)年の大地震で傾いたままだった天守閣を、五層に造り直している。
蒲生時代までは野戦が主であり、城は居住するための館であったが、桝形を取り入れるなど防御に重点を置く構造に一変させている。
改築された鶴ヶ城の形は その後の基本となり、幕末まで藩の威容を誇ることとなる。
また、城下町の整備にも注力し、会津藩の基礎を築いている。
統率力には欠けていたため、家臣たちとの対立が起こった。
反対派の家臣/堀主水の一族郎党が出奔する事件が勃発する (会津騒動)。
幕府の知るところとなり、蟄居となる。
所領没収のところ病身を理由に返還とし、長男/明友に石見国1万石が与えられた吉永藩に移り、剃髪して休意と号し隠居する。
一連の出来事から、後世、冷血漢とされるが、仕えた儒学者/横田俊益は、頭脳明晰な人格者として高く評価をしている。
・文禄元(1592)年〜万治4(1661)年1月21日(享年70歳)
・別称 孫次郎(幼名)、休意
・父 加藤嘉明
・母 堀部市右衛門の娘
・正室 高運院
・子 明友、娘(尼崎藩主/青山幸利へ嫁ぐ)、
娘(播磨新宮藩主/池田薫彰へ嫁ぎ、後に沢海藩主/溝口政良へ嫁ぐ)
・兄弟 明成、明信(監物)、明利
・墓地 京都市/東大谷墓地の武家墓地 (非公開)
・戒名 円通院休意