経王山。 顕本法華宗系の単立寺院。
妙国寺・妙法寺と同じ日什門流八別格本山の一つ。
永徳2/弘和2(1382)年、日什大正師が創建。
寛文8(1668)年、妙満寺の江戸触頭となる。
昭和16(1941)年、時の政権の意向により顕本法華宗と本門宗と日蓮宗の三派が合同し本山となる。
昭和23(1948)年、独立する。
▲(品川区南品川4-2-8 Tel. 03-3474-3543)
鳳凰山。 顕本法華宗の別格山。
妙国寺・妙法寺と同じ日什門流八別格本山の一つ。
弘安8(1285)年、日蓮の弟子/天目が妙国寺として創建。
その後、2世/日叡の時に顕本法華宗の祖/日什大正師の門流に入る。
天正19(1591)年、徳川家康から朱印地10石を受ける。
寛永11(1634)年、徳川家光が倒壊した五重塔を再建。
寛文8(1668)年、妙満寺の江戸触頭となる。
昭和16(1941)年、時の政権の意向により顕本法華宗と本門宗と日蓮宗の三派が合同。
昭和47(1972)年、独立し天妙国寺と改称。
山門前に、元の寺名「妙国寺」の石標がある。
▲(品川区南品川2-8-23 Tel. 03-3471-7921)
昭和60(1985)年1月、設置 (昭和59年度分)。
入り口前「スターの広場」の中央左手にある。
「E−22」。
春日八郎については、こちら。
▲(台東区浅草1-38-6
Tel. 03-3844-7491)
大山捨松が、11年間の米国生活で学び身に付けた知識や習慣を活用し、日本の外交に尽力した場所。
明治16(1883)年、落成。
各国の外交官などが招待され、連日連夜 華麗な舞踏会などが開催され、鹿鳴館時代といわれている。
大山捨松の略歴は、こちら。
山川捨松の生誕地は、こちら。
現在は、日比谷通り沿いのNBF日比谷ビル前に石板があるのみ。
▲(千代田区内幸町1-1-7)
明治17(1884)年、建築家/ミハイル・シチュールポフと技師/ジョサイア・コンドルが設計し、長郷泰輔が建築工事を請け負って着工。
明治24(1891)年、7年もの歳月と、34万円の巨費を投じた大聖堂が、泰輔の奮闘により完成。
建坪318坪、高さ35メートル、日本最大のビザンチン式建造物、国の重要文化財。
ニコライ堂の地下の基石に長郷の名が刻まれているとのこと。
大正12(1923)年、関東大震災により焼損。
昭和4(1929)年、復興工事が終了。
▲(千代田区神田駿河台4-1-3 Tel. 03-3295-6879)
伊東正三が設立した北鳴新報社に、野口雨情が記者として入社。
同社に鈴木志郎が務めており、その妻/“岩崎かよ”から聞いた娘/“きみ”の逸話を野口雨情に伝えたところ、後に幼子/“きみ”をモデルとした童謡「赤い靴」と「シャボン玉」が生まれた。
アメリカ人宣教師の養女として未来を託された“きみ”ちゃんは、結核にかかってしまい渡米できず、この地にあった孤児院で、ひとり寂しく亡くなってしまう (9歳)。
▲麻布十番商店街 (港区麻布十番2-3-7)
江戸幕府が天領から収納する年貢米や買上げ米を収蔵する67棟の倉庫があった場所 (3万6千坪強)。
「蔵前」という地名は、このことに由来する。
江戸時代を通して実質的な会津藩領であった天領預り地(5万石強)は、幕府直轄が4回/43年間あり、この間の年貢米が浅草御蔵に納入された。
▲(台東区蔵前2-1 蔵前橋の手前)
寛永7(1630)年、将軍/徳川家光が上野忍岡の5千余坪の土地と200両を林家に与えて創建の私塾/林家塾が起源。
元禄3(1690)年、将軍/徳川綱吉が「孔子廟」を湯島に移し、「大成殿 (総称して湯島聖堂)」と称したのが前身。
その後、学校としての整備が行われる。
寛政9(1797)年、幕府直轄の昌平坂学問所 (通称/昌平黌) となる。
昌平の由来は、孔子の誕生地 (魯国昌平郷) から。
当初は幕臣 (旗本) の子弟などが対象であったが、後に陪臣・浪人・町人にも許可され、各藩から優秀な藩士/子弟たちが入学する。
会津藩士の子弟たちも、数多くの逸材が学んでいる。
▲(文京区湯島1-4-25 Tel. 03-3251-4606)
徳一大師の作と伝わる日限地蔵尊像を所蔵。
天正年間(1578〜1580)のとある日、蘆名盛氏が
「泥深い葦の中に埋まっている地蔵様を探し出すべし」
と霊夢によるお告げを受けた。
早速、家臣らに黒川城 (鶴ヶ城) 内の沼の中を探させてたところ、徳一大師作/地蔵尊が3体出現した。
盛氏公は、西光寺に地蔵堂を建立し安置した。
現在、残り2体は、西光寺と兵庫/法音寺に祀られている。
徳一大師(徳一菩薩)については、こちら。
▲(港区白金2-3-5 Tel. 03-3441-1815)
[Wikipedia]
本尊/木造阿弥陀如来立像は、徳一大師の作と伝わる。
宮殿に安置の閻魔大王も徳一大師の作。
創建年代は不詳だが、天保元(1830)年の住職が13世との記載資料 (新編武蔵風土記稿) があるとのこと。
「開基の年代をしらす現在まて十三世に及ふと云」
広大な寺領を有していたが、仙台/伊達家の菩提寺でもあるため、により大半を没収された。
元和8(1622)年8月26日、鶴ヶ城下にて誕生。
貞応元(1652)年、赤穂藩に1千石で迎えられる。
万治3(1660)年、赤穂藩仕官を辞して江戸に戻る。
寛文6(1666)年、朱子学を非難したことで、赤穂藩にて謹慎処分となる。
延宝3(1675)年、謹慎が解かれ江戸に戻る。
貞享2(1685)年9月26日、死去 (黄疸)。
64歳。 「月海院殿瑚光浄珊居士」
道徳の教えから、忠臣蔵へとつながる。
案内の石柱もあり、分かりやすい。
略歴については、こちら。
▲(新宿区弁天町1 Tel. 03-3209-8514)
勢津子妃は、松平容保の孫。
昭和3(1928)年9月28はの皇族/秩父宮雍仁親王との成婚で、会津藩の汚名は晴らされた。
平成7(1995)年8月25日、死去。 85歳。
天皇と皇后を除く皇族専用の豊島岡墓地に埋葬。
不定期の一般公開日 (法要など) を除いて非公開。
▲(文京区大塚5丁目)
藩士/岡重政の孫。
生年不詳〜寛永17(1640)年8月21日 (享年16〜18歳)
通称:お振の方。
父/岡吉右衛門 (岡重政の倅)と母/(祖心尼の娘)との娘。 石田三成の曾孫でもある。
親類の春日局を頼り大奥の老女として仕える。
寛永13(1636)年、徳川家光の第一子/千代姫を出産。
男色を好む家光だったため、春日局と祖心尼が計らい、男装させて近づけたとという。
出産後に体調を崩し、回復せぬまま3年後に死去。
慶安5(1652)年、尾張藩主/徳川光友に嫁いだ正室/千代姫が、母を供養するため新宿区市ヶ谷富久町/自証院に霊屋を建立。
明治に入り、霊屋は数奇な運命をたどる。
昭和35(1960)年、東京都指定有形文化財 (旧都重宝) の第1号に指定。
昭和61(1986)年、西武鉄道から東京都に寄贈され、江戸東京たてもの園へ移築決定。
平成 7(1995)年、復原工事が終了。
▲有料 .(小金井市桜町3-7-1 Tel. 042-388-3300)
寛永8(1631)年9月12日に死去した藩主/加藤嘉明の火葬を執り行った寺。
遺骨は高野山、東本願寺を経て、現在は東大谷墓地。
分骨が納められた会津の長福寺は廃寺。
天長元(824)年、弘法大師 (空海) が開基 (伝)。
浅草寺、深大寺に次ぐ東京都の古刹の1つ。
▲(港区元麻布1-6-21 Tel. 03-3451-7402)
日本基督教団の教会。
明治19(1886)年、牧師/海老名弾正が講義所として開く。
明治24(1891)年、教会堂を建設。
明治30(1897)年、「キリスト同志会」を創立し、本郷教会の再建に着手。
令和3(2021)年、教会堂が国の有形文化財 (建造物) に指定。
▲(文京区本郷2-35-14 Tel. 03-3811-2296 〔HP〕)
明治2(1869)年、薩奸長賊らのテロ行為を非難する誠の志士/雲井龍雄を黙らせるべく官賊らは集議院議員に任じたが、徹底した議論闘争は止まらず、ひと月足らずで議員を追われてしまう。
雲井の下には生活に困窮した元/部下や知人たちが頼って訪れようになり、誰彼と無く食客として迎えていた。
明治3(1870)年2月18日、彼らの住まいに困っていると聞き及んだ原直鉄などが、宿舎として円真寺と上行寺 (のちに廃寺) を借り上げ雲井に提供、同月26日に官憲に届けを出す。
両寺合わせて永倉新八ら80名を超える者が寄宿するや。薩奸長賊らの卑劣なやり方を知り尽くしていた雲井は危険を感じ、両寺の門柱に「敵対するのをやめて従う」を示す「帰順部曲点検所」の看板を掲げた。
これが薩奸長賊らに天誅を下す拠点になると恐れた官賊らは、官憲に届けているにもかかわらず逆に悪用し、政権転覆の濡れ衣を着せ、粛清に利用した。
熾烈な拷問で誘導した捕縛者から言動を唯一の根拠として、政府部内の準則にすぎない「仮刑律」を強引に適用し、雲居たち14人 (前日に1人虐殺) を斬首に処した。
捕縛者の獄死が途方もなく多い22人 (後の判決で有罪になった冤罪者だけで24人とも) からも、拷問による冤罪であることは疑いの余地はない。
なお、策謀した長賊/広沢真臣には天罰が下り暗殺された。
▲正法山、日蓮宗 (港区高輪1-27-22)
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鶴ヶ城と同じく日本100名城 (22番) の1つ。 天正15(1587)年頃、北条氏康の3男/氏照が、小田原城の支城として築城。 天正18(1590)年6月23日、豊臣秀吉による小田原征伐の際に上杉景勝や前田利家、真田昌幸らに攻められ落城。 天正18(1590)年、徳川家康によって廃城となる。 昭和26(1951)年、国の史跡に指定。 |