「横須賀市若松町」の地名は、会津藩の相州防備(江戸湾防備)時に、若松屋の屋号を許された藩御用達商人/高橋勝七が、後に山を均して町を造営した際に名付けられ、高橋氏の子孫は現在も居住。
平成9(1997)年5月、野口英世博士ゆかりの「細菌検査室」などを保存した長浜野口記念公園がオープンした。
野口英世の略歴については、こちら。
入り口に、野口英世のレリーフ像がある。 現/横浜検疫所。 |
||
明治32(1899)年4月、「長浜検疫所」から「横浜海港検疫所」に改称。 同年5月、野口英世が海港検疫医官補に就任 (数え23歳)。 同署での勤務は、5月から9月までの5ヶ月間だったが、横浜港に入港した「亜米利加丸」の乗員からペスト患者を検疫所として初めて発見し、隔離するという成果をあげた。 その功績により、当時ペストが大流行していた清国/牛荘(ニューチャン)に国際予防委員会の一員として派遣され、これが世界へ飛躍する第一歩となる。 |
  | ||||
横浜検疫所長浜措置場のシンボルであった旧事務棟の外観を復元した建物。
コンサートなど、市民の文化活動に利用されている。
▲(横浜市金沢区長浜114-4 Tel. 045-782-7371)
若松賎子が、
前身である「キダー英語塾」
→ 「アイザック・フェリス・セミナリー」
→ 「フェリス和英女学校」で学ぶ。
後に、「フェリス女子大」に勤務する。
若松賎子の略歴については、こちら。
▲(横浜市泉区緑園4-5-3 Tel. 045-812-8642)
法華山。 日蓮宗由緒寺院。
妙法寺と同じ日蓮宗/日什門流八別格本山の一つ。
妙国寺と同じ什門ノ四本山の一つ。
建武3/延元元(1336)年、日蓮の門弟/天目上人が休息山本興寺として鎌倉 (鎌倉市大町) に創建。
永徳2/弘和2(1382)年、2世住持/日什大正師が山号を法華山に改称し伽藍を整備、事実上の開祖とされている。
慶長13(1608)年、不受不施を説いた慶長の法難で廃寺。
万治3(1660)年、30世/日顕が現在地の鎌倉郡飯田村に寺基を移し法灯を継続。
「日什大正師直筆の絵曼荼羅」「日什一代記/欄間」「開祖日什上人の寄木造り玉眼入り木座像 (本尊)」 などが所蔵されているとのこと。
▲(横浜市泉区上飯田町3624 Tel. 045-802-3151)
旧地に再興された本興寺
なお、寛文10(1670)年に日逞上人が徳川家へ願い出て、旧地に妙本寺末寺/本興寺を再興 (辻の本興寺) している。
法華山。 日蓮宗。
▲(鎌倉市大町2-5-32)
加藤明成と対立した家老の妻子を庇護した寺。
寛永16(1639)年、会津藩主/明成と筆頭家老/堀主水が不和となり、主水は女人禁制の高野山に入るため、妻/寿林と子たちを東慶寺に預けた。
明成の追手は寺を取り囲み引き渡しを求めたが、住職/天秀尼 (奈阿姫) は「如何なる罪人でも引き渡さない寺法を定めた男子禁制の尼寺」と応じなかった。
執拗な要求に、将軍/徳川家光の姉で義母に当たる千姫を通じ訴え、最後まで護った、
後に、明成は騒動の責を取らされ、会津から改易となる。
この事件以降、駆け込み寺(縁切り寺)として有名になる。
▲(鎌倉市山ノ内1367 Tel. 0467-22-1663)
平安時代末期、領主/佐原十郎義連が築城。
文治5(1189)年、源頼朝より会津四郡を拝領。
宝治元(1247)年、廃城になったとされている。
遺構は何もない。
道順を示す案内もなく分かり難い。
「明治廾六年九月八日
佐原里民建之」
▲(横須賀市佐原3丁目)
藩士/上崎且馬の次男として鶴ヶ城下にて誕生。
明治27(1894)年、日清戦争に参戦し数々の戦功をあげるも、翌年の威海衛の戦いで発射管の故障により水雷を発射できなかった。
日清戦争の終結を見届けると、責は戦功で償えないとして切腹して果てた。
明治29(1896)年、その忠節を永久に語り継くため、艇長・艇員らによって顕彰碑が建立。
「君諱辰次郎上崎氏 青森県上北郡人旧会津藩士也 萬延元年十二月生干岩代若松城下 年十四入海軍酷苦励精技術大進 〜」
▲(横須賀市田浦港町無番地 Tel. 046-822-3500)
上崎辰次郎は近くの竜本寺に埋葬されたが、墓碑は確認できず。
境内には、海軍関連の碑が建ち並ぶ。
▲竜本寺 (横須賀市深田台10
Tel. 046-822-0603)
鶴ヶ城と同じく日本100名城 (23番) の1つ。
小峯城(小峰城)、小早川城、小早川館とも。
応永24(1417)年、大森頼春が築城。
北条氏の本拠地として有名で、上杉謙信や武田信玄の攻撃にも耐えた難攻不落の城。
明治4(1871)年、廃城。
昭和13(1938)年、国の史跡に指定。
昭和35(1960)年5月、市制20周年の記念事業として、現在の天守閣が復興。
保科正之の長女/石の嫁ぎ先 (小田原藩)。
戊辰の役では、東軍に与する (小田原藩)。
≪本丸御殿 (御成御殿)≫
元和3(1617)年18〜19日、天海大僧正が導いて保科正之の祖父/家康の遺骸を日光遷座する途中で2泊した将軍専用の「本丸御殿」があった。 整備基本構想が進められているとのこと。
寛永11(1633)年、家光が上洛の際の宿泊所として建設
元禄16(1703)年、大地震で壊れたが再建されなかった。
もう1つの「二の丸御殿」は、藩主用の御殿である。
≪穴沢氏とのご縁≫
従弟/穴沢四郎兵衛の裏切りにより、当主/穴沢俊光は一族もろとも戦死・惨殺されたが、たまたま北条氏を訪れていた嫡男/穴沢俊次が生き残り、穴沢氏の血筋は絶えずに済んだ。
▲(小田原市城内6-1)
元和3(1617)年3月20日、天海大僧正が導いて保科正之の祖父/家康の遺骸を日光遷座の際に1泊した。
慶長元(1596)年、家康の江戸・駿府の往来や鷹狩りの休憩・宿泊所「御殿御茶屋 (御旅館)」として建立。
巾6間 (約10m) の堀で四方を囲み、78間 (約140m)、南北56間 (約100m) で約7,100坪の広さであった。
寛永19(1642)年、大改修が行われる。
家康の亡き後の明暦3(1657)年に取り壊され、跡地に東照宮が祀られた。
今でも鷹狩の様子を伝える「鷹狩行列」が4月に開催される。
▲(平塚市御殿2丁目 平塚市立中原小学校一帯)
跡地には説明碑があるだけだが、御殿の裏門と伝えられる門が近くの善徳寺の山門として現存している。
山門の両脇の塀には、三つ葉葵の紋が付いている。
▲善徳寺 (平塚市南原3-2-7 Tel. 0463-31-3413)
明治23(1890)年1月23日、八重の夫/新島襄は、療養していた旅館/百足屋の別館/愛松園にて死去。 大きな松に囲まれ、相模湾の眺望の良い高台だったとのこと。
昭和15(1940)年、門下生たちにより旧/百足屋の敷地内に、石碑「新島襄終焉之地」が建立された。
東海道旧道と国道1号に挟まれた三角地にある。
東海道五十三次の大磯宿の地。
▲(大磯町大磯 照ヶ崎海岸入口)
伊東正三が設立した北鳴新報社に、野口雨情が記者として入社。
同社に鈴木志郎が務めており、その妻/“岩崎かよ”から聞いた娘/“きみ”の逸話を野口雨情に伝えたところ、後に幼子/“きみ”をモデルとした童謡「赤い靴」と「シャボン玉」が生まれた。
アメリカ人宣教師の養女として未来を託された“きみ”ちゃんは、結核にかかってしまい渡米できず、孤児院「永坂孤女院」で、ひとり寂しく亡くなってしまう (9歳)。
佐原義連が創建したと伝えられる寺。
観音像には、義連の面影があると云う。
▲(横須賀市岩戸1-4-9 Tel. 046-848-3138)
長女/菊姫が、保科正之公の正室。
永禄11(1568)年〜寛永11(1634)年10月17日 (67歳)
父/内藤家長、母/松平忠長の娘。
佐貫藩/2代藩主、磐城平藩/初代藩主。
「養誉堆安道山大居士」
岩城菅ノ沢/善昌寺から改葬したとのこと。
申し込めば拝観可能だが、外から充分 見える。
仁治元(1240)年、蓮華寺として開創。
寛元元(1243)年、現在地に移り光明寺と改称。
▲(鎌倉市材木座6-17-19 Tel. 0467-22-0603)
佐原義連の父。
寛治6(1092)年〜治承4(1180)年8月27日 (89歳)
通称:大介。 父/三浦義継、母/笠間常宗の娘。
平安時代末期の武将 (鎌倉幕府側)。
衣笠城の戦いで戦死。
左側の五輪塔は、17歳の若さで戦死した孫/多々良三郎重春。
本堂裏側に三浦一族 (家来) の五輪塔/百数基がある。
建久5(1194)年、義明の霊を弔うため、源頼朝が能蔵寺を創建。
建武2(1335)年、時宗に改宗し、来迎寺と改称。
▲(鎌倉市材木座2-9-19 Tel. 0467-22-4547)
建久5(1194)年、義明の霊を弔うため、源頼朝が創建した満昌寺にも三浦義明のものと伝えられる墓があるが、廟所入口に鍵がかかっており、「進入禁止」の標識。
佐原義連の兄。
大治2(1127)年〜正治2(1200)年1月23日 (74歳)
通称:荒次郎、新介。
三浦義明と母/秩父重綱の娘との次男。
鎌倉幕府の御家人で、
十三人の合議制の1人。
▲(横須賀市大矢部1-13 住宅街の中)
願成寺を創建 (意を受けた弟子/実成房が代行)。
久安4(1148)年、少納言/藤原資隆の3男として京都にて誕生。 字は皆空無我・道空無我。
天台宗 (比叡山延暦寺) に入門したが、法然上人に帰依し浄土宗に改宗、後に浄土宗長楽寺流の祖となる。
安貞元(1228)年、この地 (相模国飯山) で死去。
境内の「律師の墓」が、隆寛の墓と伝えられている。
浄土宗長楽寺流の教念寺として、隆寛律師が開山。
後に、現在の浄土真宗/光福寺となる。
▲(厚木市飯山4501)
≪さかさ矢竹≫
重忠は、討ち死にする際に「我が心 正しかれば この矢に枝葉を生じ繁茂せよ」と言い、矢を2本地面に突き刺した。 やがて矢が根付き、毎年2本ずつ増え続け、合戦で軍馬に踏まれた地を覆うようになったという。
今は跡形もなく、この地に植栽されたもののみ。
▲(横浜市旭区鶴ケ峰1 区役所の右手交差点の向かい側角)
|
六ツ塚 (畠山重忠公霊場、薬王寺)畠山重忠を含め、玉砕した一族郎党134騎を6つに分けて埋めたと伝えられている。 |
猪苗代兼載の師 (連歌) の1人。
応永3(1406)年〜文明7(1475)年4月16日 (70歳)
別称:連海、心恵、心教。
紀伊国にて誕生し、幼くして出家して比叡山で修行。
応仁の乱で京を追われ、文明3(1471)年頃に古墳の北にあった浄業寺に移り住み、この地で没し 古墳群の傍らに葬られたとされる。
▲(伊勢原市三ノ宮824付近 近くの丘陵に築かれた やや大型の円墳)