幼 名 : 甲子 → 嘉志
本 名 : 嘉志子
姓 : 松川 → 島田 → 巖本
ペンネーム : 若松賤子、若松しづ子
賤子もまた、戊辰の役で、運命に翻弄された女性の1人である。
父は藩の隠密 (スパイ) として働いていたため、ほとんど家におらず、母親の手一つによって育てられた。
慶応4(1868)年8月23日にが鶴ヶ城下に乱入した時も父親はおらず、母子は戦火の中を逃げまどい、4歳の賤子に生涯消えることのない強烈な記憶を刻み込んだ。
生活上の苦労を一身に背負っていた母親は、賤子が7歳の時その苦労が祟って28歳の若さで亡くなってしまう。
親戚に預けられ、まもなく養女として横浜に移り住む。
当時としては珍しい女学校に入学し、才能が開化する。
単なる「小公子」の翻訳者としてだけでなく、言文一致体の美しい文章を推進・普及させた近代文学の開拓者でもある。
欧風化の最先端を志向する賤子の文章は、擬古典主義の古風な文体で一世を風靡した樋口一葉にも多大な影響を与えた。
また、教育者としても、高く評価されている。
女性への啓蒙家として確固たる信条を以て行動する姿は、当時の若い女性に勇気を与えた。
3月1日
藩士/松川勝次郎正義の長女として、阿弥陀町五番六番(宮町)にて誕生。
生まれ年の干支から、「甲子(かし、後に嘉志子)」と名付けられた。
祖父は藩士/古川権之介為範で、父/勝次郎は松川家の養子に入っていた。
父/勝次郎が島田姓を名乗り、容保の命により、各藩の動勢を探る隠密となる。
公式には、公用人物書という役職。
8月23日
が鶴ヶ城下に乱入。
父/勝次郎は隠密活動でおらず、祖母と共に母子は戦火の中を逃げ回った。
その最中、妹の「美也」が生まれた。 後に「美耶」「宮子」に改名。
奇蹟的に、無事 生き延びる。
早鐘が鳴り響く中、祖母に手を引かれ、身重な母と家を出る。
道は身動きができないほど、荷物を持って逃げ惑う人々でごった返していた。 西へ西へと、人波にのまれて押し流されていく。 将棋倒しとなり下敷きになり圧死する者、疲れ果て生垣に横たわり呻く者、流れ弾に当たって血まみれに倒れる者、親とはぐれて泣き叫ぶ子供、川岸に辿り着くものの川なかに圧し流れる者、振り返ってみるや、城下は火の海になっていたおり、まるで地獄の有り様だったという。 賤子は小判の入った包みを持たされていたが、重いと言うと、にっこり笑って祖母は田圃の中へ捨て、身軽にしてくれた。 やっとのことで宮 (神社か?) へ辿り着くが、持ってきたはずの家宝である刀などの品々も全て失っていたという。 |
父/勝太郎が行方不明となり家族は途方にくれる。
4月
母が病弱のため、挙藩流刑の斗南藩へは行けず、母娘3人は鶴ヶ城下に残り、家族は離散した。
女手1人で娘を育てた苦労が祟って、母が28歳の若さで病死する。
甲子と美也は、親戚に引き取られる。
横浜/織物商山城屋和助の番頭/大川甚兵衛(甚平とも)は、商用で若松に来ていた。
甚兵衛は、再婚しても子供に恵まれていなかった。
甲子の才に惚れ込み、養女にと渇望される。
甚兵衛と“おろく”の養女となり、横浜に移り住む。
※ 後に実父/勝次郎が帰郷し、若松県権小属に就くが知る由もなかった。
経済的には恵まれた生活環境であったが、言葉 (方言) も違う見知らぬ地で、賤子 (甲子) は塞ぎがちになる。
もう一人の養女の姉もいたが、養母/おろくは賤子を大変かわいがってくれた。
9月
心配した養母/おろくの勧めもあり、横浜の自宅近くのプロテスタント宣教師メアリー・エディ・キダー (Mary E. Kidder) の英語塾に入学し、讃美歌、聖書の教えを通じて英語を学ぶ。
創始者キダーは、日本初の女性宣教師である。
英語塾は、ヘボン式ローマ字の考案者であるヘボン塾の女生徒を引き継ぎ、前年の明治3(1870)年6月1日に設立、9月21日に開校。
後に、フェリス女学院となる。
井深八重の養父/井深梶之助(後に明治学院/総理)・“たみ”・“とせ”(後にフェリス女学院/教師)なども学んでいる。
新たな言語に触れ、向学心が芽生え、乾いた土に水を注ぐように吸収していき、賤子の将来を決定付けた、
ギターは、下記のように記している。
「賤子は、日本で最高に教育を受け入れた女性であった。
多くの日本女性も外遊したけれども、彼女の完全なまでに吸収した知識と、
洗練された人格は、外遊した女性に比べ、はるかに勝っている」
山城屋和助が疑獄事件に関与し自殺したため、山城屋が倒産した。
新政府へ賄賂を拒否したため濡れ衣で殺害とされるが、第一号の疑獄事件である。
やむなく、養父/甚兵衛は家族とともに、東京へ移り住む。
キダー英語塾の校舎が落成し、寄宿制のアイザック・フェリス・セミナー(フェリス和英女学校)として開校したので、再び横浜 (山手178番) に戻り、キダーの下で学業に専念することになった。
高等科で学ぶのだが、給費生と同じ様な待遇だった。
創立時に8名だった生徒数は、14名になったという。
日曜日に教会に通って英文の書物を読んだり、教会新聞の編集を手伝ったりすることが楽しみだった、と後に語っている。
横浜海岸教会で、E・R・ミラーよりキリスト教の洗礼を受ける。
日本人のために建てられた日本初のプロテスタント教会である。
現在の会堂は、昭和8(1933)年の建築。
平成元(1989)年に横浜市の歴史的建造物に認定された。
▲日本キリスト教会/横浜海岸教会
(神奈川県横浜市中区日本大通8 Tel. 045-201-3740)
師と仰いだ初代校長/キダーが帰国し、後任に就いたユージーン・サミュエル・ブース(Eugene Samuel Booth) も甲子の才を見抜いていた。
儒教によって培われた美徳に、キリスト教の精神を加えた新たな信条に深く共感したと伝えられる。
6月29日
高等科を優秀な成績で終了し、ただ一人卒業試験に合格した第1回卒業生となる。
卒業式で、英語の卒業講演を行なった。
この時の名は、父の隠密名である「島田」を名乗っている。
ブースの強い要望を受け、卒業と同時に母校フェリス・セミナーに残り、和文教師として教壇に立つこととなる。
生理学・健全学・家事経済・和文章、英文訳解なと゜幅広く教科を担当。
社会的、経済的に自立したことで、名前を「甲子」から「嘉志子」に改めた。
「志を讃える」という意味とのこと。
7月
校長/ブースの避暑に同行して、函館で1カ月ほど過ごす。
父が函館戦争を戦った地でもあり、後に「五才の本賣(女学雑誌/345号)」で「函館行」を記している。
養父/大川甚兵衛が死去する。
文学の研究会としての時習会を活発化し、生徒に外国文学を紹介したり、英会話や英詩を朗読、演説、音楽など文学教育にも力を注いだ。
4月
フェリスの増改築での落成式で、女子の教育と社会的地位向上について演説した。
女子の権利についての明快な主張に、来賓たちは驚きを以て聞き入ったという。
実父/勝次郎が妹/宮子(美也)と共に、東京 (麻布区霞町一番地) に移り住んでいることを知らされる。
実父の強い願いから、すでに養父/大川甚兵衛も死去していることもあり、大川家から離縁して実父のもとへ復籍した。
この時、既に肺結核を病んで、吐血している。
後に夫となる巌本善治が、講演者としてフェリスに来校、知り合う。
この年に創刊された善治/主宰の「女学雑誌」が、婦人問題などの総合誌だったこともあり、親しく交際が始まった。
善治も、キリスト教の洗礼を受けていた。
賤子は、すでに「時習会」を立ち上げ活動をしており、「女学雑誌」を愛読していたという。、
5月
巌本善治の勧めにより、「女学雑誌(23号)」に、鎌倉紀行文「旧き都のつと」をペンネーム「若松賤子」で発表した。
「若松」は故郷の名称から、「賤子」は“神の恵に感謝するしもべ”の意味とのこと。
これを契機に、名著「小公子」へとつながる。
10月
女学雑誌に「In Memoriam(明治女学校初代校長/木村鐙子を弔う詩)」を寄稿。
50余篇の記事を「女学雑誌」に発表。
フェリス・セミナリーの南校舎と西校舎が落成し、名称が「フェリス和英女学校」に変更された。
巌本善治の女性に対する考え方の共感から、信頼へ、そして愛へと発展していった。
7月
海軍士官との婚約を破棄し、2人は横浜海岸教会で結婚、巌本嘉志子となる。
廃娼運動家の植木枝盛なども列席しているが、戊辰の役で西郷頼母邸の自刃の目撃者との説 (?) もある土佐郷士/中島信行が証人を務めている。
結婚式で詩「花嫁のベール」を夫/善治に贈った。
「われは きみのものにならず、私は私のもの、夫のものではない。
あなたが成長することをやめたら、私はあなたを置き去りにして飛んでいく。
私の この白いベールの下にある私の翼を見よ。」
結婚を機にフェリス・セミナーを退職し、愛する夫が教頭を務める明治女学校で教壇に立つ。
10月
「お向ふの離れ (女学雑誌)」を発表。
10月〜12月
「すみれ (女学雑誌)」を発表。
病と闘いながら創作意欲は衰えず、病床から作品を送り続けた。
1月〜3月
「忘れ形見 (女学雑誌/194号)」を発表。
プロクター(Adelaide Anne Procter)の詩 "The Sailor Boy" の翻案
1月〜3月
「テニソン/イナック・アーデン (女学雑誌)」を発表。
8月〜明治25(1892)年1月
「バーネット/小公子 (女学雑誌)」を発表し、文学者として地位を確立する。
“Little Lord Funtleroy(リトル・ロード・フォントルロイ)”
原作を読んで感銘を受けたため、アメリカで出版 (1886年) されてから4年後という、当時では異例の早さで翻訳された。
口語訳の小説は新鮮で清々しく、幅広い読者に受け入れられた。
坪内逍遙や森田思軒、石橋忍月などの文学者からも絶賛されている。
3月〜翌年2月
「我宿の花 (女学雑誌)」を発表。
6月8日
「人さまざま (女学雑誌)」を発表。
8月
「ディケンズ/雛嫁 (国民の友)」を発表。
“デイヴィッド・コパフィールド”の部分訳。
この年には、30編近くを発表している。
6回分の連載をまとめた「小公子前篇」が単行本として出版される。
(序文)「一つには、自分が幼子を愛するの愛を記念し、聊か又ホームの恩人に對する負債を償う端に致し度のみです」
1月〜3月
「インジロー(Jean Ingelow)/ローレンス (女学雑誌)」を発表。
4月〜7月
「黄金機会 (女学雑誌/342,344,345,348号)」を発表。
6月10日
「鼻で鱒を釣つた話 (女学雑誌/346号)」を発表。
9月〜翌年4月
「セイラ・クルーの話 (少年園)」を発表。
9月
「ストウ女子小説の一節 大学に入らんとして伯父を訪ふ (評論)」を発表。
9月〜12月
「ウィギン/いわひ歌/クリスマスの天使 (女学雑誌)」を発表。
11月〜12月
「波のまにまに (評論)」を発表。
英文誌「The Japan Evangelist(日本伝導新報)」の婦人欄と児童欄を担当し、日本の行事や習慣などを英文で70余篇ほど紹介している。
しかし、家事や育児と執筆の過労も加わって、病は進行した。
6月
「Thinking of our Sister beyond the great sea(海外のシスターを思う)」。
1月〜3月
絶筆の「おもひで (少年世界)」を発表。
2月5日
明治女学校の校舎や寄宿舎、教員住宅の大半が失火で焼失する。
大変な衝撃を受けたようで、生きる意欲を失ったかのように見えたという。
2月10日 午後1時半
明治女学校が炎上した5日後、女性の時代を切り開いた薄命の佳人は、肺結核による体力の衰えによる心臓麻痺で死去した。 4人目を妊娠中であった。
妻として、3人の子供の母として、教育者として、言文一致の口語訳文の文学者として、日本女性を英文の評論で海外に紹介し続けた英文雑誌の記者として、短い生涯を駆け抜けた。
著作活動は24歳からで、わずか8年間に当時の女性たちに、勇気と希望を与えた。
多大な影響を受けた女流作家/樋口一葉の追悼歌。
「とはばやと 思ひしことは 空しくて 今日のなげきに 逢はんとやみし」
践女学校や女子工芸学校の創設者で女子教育者/下田歌子の追悼歌。
「言の葉の いろをときはに のこしおき かれしかあはれ 庭の若まつ」
同年11月23日、後を追うかのように、樋口一葉も同じ肺結核で死去した。
今では、
夫婦仲良く、染井霊園で眠っている。
墓碑名は、遺言通り「賤子」だけが刻まれている。
傍らに、夫/善治のペンネーム「如霊」の墓と、妹/島田美耶の墓もある。
≪明治30(1897)年≫
博文館から1冊本としての「小公子」が発行され、昭和5(1930)年まで42版を重ねた。
後に岩波文庫からも出版され、少年少女の愛読書となった。
同年、英文遺稿集「In Memory of Mrs. KASHI IWAMOTO」も刊行される。
※ 中島信行の後妻で著作/中島俊子 (号/湘煙) が一周忌の墓前に詩を献じた。
≪明治36(1903)年≫
遺稿集「忘れかたみ」が刊行される。
≪昭和2(1927)年9月25日≫
岩波文庫「小公子」が刊行される。
≪昭和37(1962)年≫
8月17日、生まれ故郷/生家の会津若松/古川家の庭に文学碑も建立された。
(会津若松市宮町)
私の生涯は神の恵みを 最後まで心にとどめた
ということより外に 語るなにものもない 若松賤子
文学碑は、私有地の中庭にある。
距離があるため文字そのものは読めないが、隣りの“会津若松教会”の柵から歌碑を眺めることができる。
見知らぬ人を訪ねるのが苦手な人には良いかも。
ただし、不法侵入?に問われても、責任は負えない。
寝言を英語でいうほど西洋の文化を取り入れていった賤子だが、会津魂を生涯忘れることはなく、服装は和服にこだわり続けた。
「理智と教養のあらわれた際立った顔、大きく注意深いやさしい目、神経質ではあったけれど、自制力もあって、成人してからの女史は、あれほど外国人の特質をのみ込み同情と同感を充分に持ちながら、やはり日本婦人らしい魂を最も強くあらわしていたとは、当時の外人教師たちの後に思い出として語るところでありました。
世界的に有名なバイオリニスト/巖本真理は、賎子の孫である。