野口英世 (のぐち ひでよ)。
耶麻郡三ッ和村三城潟にて、産声をあげる。
野口佐代助とシカの長男で、清作と名付けられる。
北は磐梯山、南は猪苗代湖、豊かな自然の中で成育する。
16歳まで、生家で過ごす。
ネットで見学は、こちら。
三ツ和小学校に入学。
母/シカは、入学に際して強く諭す。
「左手に障害があるから農作業は無理なので、
学問で生きなさい」
4月、尋常科4年に編入。
4月、成績が優秀だったため、「生長」に選ばれる。
生長とは、学業の優秀な生徒が先生の代りに授業を行う役職。
7月15日、磐梯山が噴火し、桧原湖や五色沼などが出現する。
3月、三つ和小学校卒業。
4月、主席訓導 (教頭)/小林栄に優秀な成績を認められ、猪苗代高等小学校に入学。
当時、農民の子が進学するのは、珍しかった。 学費を援助した小林の目には、抜きん出た才能が見えたのだろう。
期待に違わず、体操以外の成績は、すべて首席であった。
なお、体操の欄は空欄であったという。
箸が使えないため、弁当はいつも握り飯であった。
左手の障害を綴った作文が、小林を含む教師や同級生たちの心を打つ。
清作の左手を治そうと、手術費用を集める募金が行われた。
< 手 術 >
10月、友人たちの寄付金により、会陽医院で手術を受ける。
医師/渡部鼎の執刀で、不自由ながらも左手の指が使えるようになる。
この手術がきっかけで、医学の素晴らしさを知る。
< 初 恋 >
書生の傍ら牧師/藤生金六が開いていた英語塾に通い、明治29(1896)年に藤生金六から洗礼を受けた。
その教会で、6歳年下の女学生/山内ヨネに出会い、一目ぼれをする。
後に、医師の父を継ぐため女医を目指して上京していたヨネと再会する。
医師免許を取得したヨネは、帰郷してしまう。
医師/森川俊夫と結婚し、会津若松で三省堂医院を開業した。
初恋は、成就することがなかった。
8月、高山歯科医学院 (東京歯科大学) の血脇守之助は、歯治療の出張診療のため、若松市 (会津若松市) にやってきた。
友人である渡部鼎の会陽医院を訪ねた際、建物の片隅で医学書の原書を熱心に読んでいる野口と、運命的に出会う。
様子や態度から、野口の才能を見抜き、上京を勧める。
< 上 京 >
9月、上京を決意する。
その際に有名な決意文を実家の柱に彫った。
「志を得ざれば、再び此の地を踏まず」
10月、医術開業前期試験(筆記試験)に合格。
11月、血脇守之助の後ろ盾で、高山歯科医学院の学僕となり、長岡藩軍医/長谷川泰が創設した私立医学校「済生学舎 (日本医科大学の前身)」に入学する。
血脇守之助の計らいで、帝国大学教授/近藤次繁による左手の再手術を無償で受ける。
後期試験は実務があり、触診に支障があったからである。
10月、医術開業後期試験に合格、21歳の若さで医師免許を取得する。
当時の医術開業試験は、「前期3年・後期7年」と呼ばれるほどの難関で、30歳を過ぎても合格できない例は珍しくなかった。
同月、高山歯科医学院の講師となる。
11月、順天堂医院に勤務する。
驚異的に成長する野口への嫉妬・非難に対して血脇守之助は、
「人それぞれに、おのずから異なった天分がある。 野口は稀代の天才児で、
これを型にはめすぎて律することは、彼の天分を大成させる所以ではない」
と反論し、熱心な援助を終えることはなかった。
しかし、医学界は学閥が支配しており、在籍中に研究に関わることができず、いずれは渡米することを、内心、野口は決めたという。
4月、世界的に有名な北里柴三郎が所長の伝染病研究所に、助手として勤務する。
8月、当時、小説「当世書生気質」がベストセラーになっていた。
主人公である医学生の名前が「野々口精作」だったため、帰省中に「英世」と改名する。
4月、英語力をかわれ、来日したフレキスナー博士の案内役をする。
これが、後の渡米に結び付く。
5月、横浜海港検疫所の検疫医官補となる。
横浜港に入港した「亜米利加丸」の乗員からペスト患者を検疫所として初めて発見した。
現在は、長浜野口記念公園として整備され、野口英世のレリーフ像や細菌検査室などが保存されている。
この功績により、北里柴三郎の推薦で国際防疫班に選任される。
10月、清国/牛荘の国際予防委員会中央医院に赴任し医療業務に就き、これが世界へ飛躍する第一歩となる。
義和団の乱により清国の社会情勢が悪化したため、止む無く帰国する。
< 渡 米 >
12月5日に横浜港より亜米利加丸で出航、12月30日にフィラデルフィアへ到着。
フレキスナー博士を訪ねる。
1月、フレキスナー博士の助手となり、毒蛇の研究に従事する。
11月、フレキスナー博士から与えられたテーマ「蛇毒の研究」を発表する。
同大学の理事/サイラス・ミッチェル博士に絶賛され、米国/医学界で名が知られる。
10月、ペンシルベニア大学病理学の助手となる。
10月、デンマーク/コペンハーゲンの血清学研究所に、1年間の留学。
カーネギー大学の物理学者アーレニウス・マドセンに師事し、連名で論文を執筆する。
10月、米国に戻り、ニューヨーク/ロックフェラー研究所に移籍し、一等助手となる。
野口の研究ぶりを見た所員たちは、
「日本人は、いつ寝るのだろうか?」
と驚愕したと云う。
6月、ペンシルベニア大学よりマスター・オブ・サイエンスの名誉学位/修士を受ける。
ロックフェラー研究所の准所員に昇進する。
米国/ニューヨークの血清学会/会長に就任。
大正元(1912)年まで務める。
2月、論文を提出し、京都大学医学博士の学位が授与される。
4月10日、メリー・ロレッタ・ダージスと結婚する。
7月8日、「病原性梅毒スピロヘータの純粋培養に成功」で、世界の医学界に名が知られる。
4月8日、麻痺狂および脊椎癆患者の脳から梅毒スピロヘータを検出発見。
9月、ヨーロッパ各国へ講演を行なうため、アメリカを出発。
講演をした国々 (スペイン、デンマーク) から、勲章が贈与されている。
11月、アメリカに戻る。
4月、東京帝国大学から、理学博士の学位が授与される。
7月、ロックフェラー研究所の正員に昇進 (年俸5千ドル) する。
8月、ノーベル医学賞候補になる。
4月、帝国学士院から、恩賜賞が授与される。
この年に2度目のノーベル医学賞候補にもなった。
< 帰 国 >
9月 5日、年老いた母/シカへ会いに、一時帰国する。
9月 8日、翁島駅に降り立つ。
9月 9日、村人による盛大な歓迎会が港屋旅館で開催。
9月12日、母校/猪苗代小学校で児童に講話。
9月13日、同窓会員に講演。
9月15日、母/シカと、中田観音にお礼参り。
〃 会津一円五郡医師会で講演。
9月16日、会津中学校で公演。
地元はもとより、全国的にも熱狂的に迎えられた。
会津では常に母親と一緒にいて、講演にも伴って東京・名古屋・伊勢・京都・大阪・酒井・神戸などを旅した。
15年ぶりの帰国であった。 そして最後の帰国となった。
11月4日、横浜港から渡米。
※12月、会津会会報第七號に「ロックフェラー研究所の事業」が掲載。
ハーバード大学の講座で講演。
「レプトスピラ」に関する初の論文を発表。
6月、ロックフェラー財団の意向を受け、エクアドル/グアヤキルへ黄熱病の対策に行く。
到着して9日目に病原体を発見、ワクチンが作られ南米での黄熱病は収束した。
10月14日、エクアドル陸軍名誉軍医監および名誉大佐が授与。
グアヤキル大学名誉教授と、キトー大学名誉教授も授与。
3度目のノーベル医学賞の候補となる。
< 母 の 死 去 >
11月10日、母/シカが死去する。
享年66歳。 「貞賢院産恵精安清大姉」
農作業をしながら、産婆を副業としていた。
産婆が免許制となり、免許取得が義務付けられた。 読み書きのできないシカは、寺の住職に頼み、必死に読み書きを覚えた。
瓜生岩子の協力も得て国家試験に合格、生涯にわたっ産婆を続けた。
英世の天才的な貢献は、母による影響が大きいといわれている。
12月、黄熱病研究のため、メキシコに渡る。
4月、黄熱病研究のためペルーに渡る。 リマ大学から医学部名誉教授の称号を授与。
国立サン・マルコス大学医学部から名誉医学博士を授与。
11月、メキシコ/ユカタン医学大学より名誉医学博士を授与。
フィラデルフィア市よりジョン・スコット・メダル名誉章を授与。
この年、3度目のノーベル賞候補となる。
ブラウン大学から名誉理学博士、エール大学から名誉理学博士を授与。
5月、血脇守之助が最新の歯科医療を視察するために渡米するや、野口は 片時も離れず世話をした。 あらゆる手づるを駆使し、ホワイトハウスでハーディング大統領の表敬訪問をも実現させている。
野口の労に感激した守之助は、
「既往の私の世話を帳消しにしてほしい」
と申し出たが、野口は、
「私は日本人です。恩義を忘れてはいません。 それに恩義に帳消しはありません。
昔のままに、清作と呼び捨てにして下さい」
と応えたという。
その後も、親密な付き合いは生涯 続いていた。
7月3日、父の佐代助が死去する。
73歳。 「顯院逸産開運清居士」
7月、ジャマイカでの熱帯病会議に列席。
11月、黄熱病研究のため、ブラジルに渡る。
〃 、日本の帝国学士院会員となる。
11月10日、ブラジルに出張。
この年、フランスからレジオン・ドヌール勲章が贈与。
アメリカの内科学会からコーベル賞牌が贈与。
フランスのパリ大学からドクトルの名誉医学博士学位が授与。
11月、正五位に叙す。
オロヤ熱病源体を発表。
トラコーマ病源体を発表。
10月、黄熱病研究のためアフリカへ出張し、11月にイギリス領ガーナのアクラに到着する。
< 死 去 >
5月21日、研究の対象である黄熱病を発症し、死去する。
5月22日、ロックフェラー研究所は、死を悼み、半旗を掲げる。
6月15日、妻の眠る米国/ニューヨークのウッドローン墓地に埋葬された。 51歳。 墓碑には、
「ロックフェラー研究所/医学正員の英世は、科学への献身を通して、人類のために生き、人類のために死んだ」
と刻まれていると聞く。
当時、米国で吹き荒れた排日運動に憂慮し、日本人の地位向上に尽力したことも忘れてはならない。
この年、フランスから防疫功労金牌が贈与。
2月13日に発見された小惑星に、博士の名前が命名された。
・登録番号9964番
・名称「Hideyo nguchi」
野口英世アフリカ賞の創設が提案される。
以降、5年ごとに表彰などが実施される。
「アフリカに関する医学研究及び医療活動を顕彰することにより、アフリカでの感染症等の疾病対策の推進に資し、もって人類の繁栄と世界の平和に貢献することを目的 〜」
≪第1回 野口英世アフリカ賞 受賞者 平成20(2008)年≫
[医学研究部門] ブライアン・グリーンウッド博士(英国)
[医療活動部門] ミリアム・ウェレ博士(ケニア)
≪第2回 野口英世アフリカ賞 受賞者 平成25(2013)年≫
[医学研究部門] ピーター・ピオット博士(ベルギー)
[医療活動部門] アレックス・G・コウティーノ博士(ウガンダ)
≪第3回 野口英世アフリカ賞 受賞者 令和元(2019)年≫
[医学研究部門] ジャンジャック・ムエンベ・タムフム博士(コンゴ/旧ザイール)
[医療活動部門] フランシス・ジャーバス・オマスワ博士(ウガンダ)
≪第4回 野口英世アフリカ賞 受賞者 令和4(2022)年≫
[医学研究部門] サリム・S・アブドゥル・カリム博士
及び カライシャ・アブドゥル・カリム博士 (南アフリカ共和国)
[医療活動部門] ギニア虫症撲滅プログラム