真間山。 日蓮宗の本山 (由緒寺院)。
天平9(737)年、行基菩薩が求法寺として創建。
弘仁13(822)年、弘法大師 (空海) が弘法寺と改称。
元慶5(881)年、天台宗に改宗。
建治元(1275)年、日蓮宗に改宗。
康暦2/天授6(1380)年、顕本法華宗の祖/日什大正師が、この寺で帰伏した。
▲(市川市真間4-9-1 Tel. 047-371-2242)
中山法華経寺とも呼ばれる。
正中山、 日蓮宗大本山 (霊蹟寺院)。
日什大正師が、寝食を忘れて教義の拝読に没頭した寺。
文応元(1260)年、富木常忍が日蓮聖人のために自邸内に法華堂を創建。
弘安5(1282)年、日蓮聖人が没したため常忍は出家し日常と改名し、法華堂を法花寺と改め初代住持となる。
天文14(1545)年、古河公方/足利晴氏から贈られた称号から、法華経寺に改称。
桜の名所としても知られる。
▲(市川市中山2-10-1 Tel. 047-333-1456)
船目山。 顕本法華宗。
至徳3/元中3(1386)年、日蓮聖人の生誕地の安房/清澄山へ赴く途中、日什大正師が開山。
「この地が日蓮聖人の意に沿うなら、この杖は根付き、枝葉が繁り、花や実を結ぶであろう」と携えてきた榧 (カヤ) の杖を地面にさしたところ、やがて芽吹き、大樹へ育ったと伝わる。
今なお、日什大正師の霊跡「逆さ杖の榧」として大切にされている。
現在の本堂は、平成7(1995)年に建立。
▲(木更津市真里谷521 Tel. 0438-53-2510)
弘法大師 (空海) が霊木で彫った3体 (圓蔵寺、日高寺) の虚空蔵尊の1つが、天津小湊町に流れ着いた。
清澄寺の能満虚空蔵尊とされるが、清澄寺の由来には記載されていない。
「本尊の虚空蔵菩薩は、1200年の智慧福徳の菩薩として名高く、その像は、日本三大虚空蔵の一つです。」とだけある。
▲(鴨川市清澄322-1 Tel. 04-7094-0525)
慶安元(1648)年、1万7千石に加増され大名となった保科弾正忠正貞が、翌年に飯野藩の居城として築いた陣屋。
飯野に初めて所領を与えられた寛永6(1629)年説もある。
ほぼ4角形に堀を巡らした総面積5万坪ほどを有し、日本三陣屋の一つ。
本丸・二の丸 (現/飯野神社)・三の丸などにあった内堀は、ほぼ埋められており現存していない。
高遠藩主/保科正光の養嗣子/正貞は、将軍/徳川秀忠の隠し子/正之公が養子に迎えられるや廃嫡となる。 その後、諸国を放浪し、母方の叔父である桑名藩主/松平定勝に身を寄せた後に幕臣/旗本となる。
保科家を継いだ正之公が秀忠の実子/4男として公式に認められ徳川一門となるや兄である将軍/家光に願い出たことから、正貞は加増され大名に昇進する。 さらに正之公から保科家累代の品々/家宝を譲られ、改めて保科氏正統を継承することになった。
なお、正之公は「松平」を名乗るよう命じられても、保科正光からの恩義を忘れず辞退し、生涯、保科を名乗り続けた。
正之公と正貞は義兄弟であることから、飯野藩は会津藩を本家とする親戚藩である。
松平容敬の養女となり、戊辰の役で籠城戦を戦い抜いた照姫は、飯野藩9代藩主/保科正丕の3女である。
▲(富津市下飯野 飯野神社一帯)
昭和15年、我孫子駅前に建立。
昭和53年、現在地に移設。
《血脇守之助》
明治3(1870)年2月1日〜昭和22(1947)年2月24日
日本の歯科医師。 東京歯科大学の創立者の1人。
名主/加藤誠之助と母/たきの長男として下総国/我孫子驛
(千葉県我孫子市) で誕生。
明治21(1888)年、血脇家の養子に入る (18歳)。
野口英世の指の手術をした渡部鼎の友人であったことから、野口と出会い、その才能を確信して支援しており、「野口英世育ての親」の1人とも称される。
野口に対して、長らく援助の惜しまなかった。
驚異的に成長する野口への嫉妬・非難に対して血脇は、
「人それぞれに、おのずから異なった天分がある。
野口は稀代の天才児で、これを型にはめすぎて律することは、
彼の天分を大成させる所以ではない。」
と反論し、熱心な援助を終えることはなかった。
大正11(1922)年、血脇守之助が最新の歯科医療を視察するために渡米するや、野口は 片時も離れず世話をした。 あらゆる手づるを駆使し、ホワイトハウスでハーディング大統領の表敬訪問をも実現させている。
◆《Wikipediaより》
『1922年(大正11年) 〜 〜 アメリカでは野口英世と再会、ともにハーディング大統領を表敬訪問している。 このとき野口は往年の恩義を忘れず守之助を最大限に歓待、38日間の守之助の滞米中、それこそつきっきりで世話をやいた。 野口の労に対し守之助は、「既往の私の世話を帳消しにし てほしい」と申し出たが、野口は「私は日本人です。恩義を忘れてはいません。 それに恩義に帳消しはありません。 昔のままに清作と呼び捨てにして下さい」と応えたという。』 |
明治44(1911)年、嘉納治五郎が別荘を築く。
昭和11(1936)年、嘉納の喜寿を記念して銅像が建立。
太平洋戦争により、銅像が供出される。
平成26(2014)年、天神山緑地 (公園)」となる。
令和2(2020)年、銅像が復元建立。
隣接して、姪/柳直枝子の別荘であった三樹荘がある。
直枝子が結婚し空き家となると、弟の宗悦が居住。
▲(我孫子市緑1)
鶴ヶ城と同じ日本100名城 (20番) の1つ。
天文年間(1532〜1552)、千葉氏一族/鹿島幹胤が城郭を築く。
慶長16〜元和2(1611〜1616)年、土井利勝が築造。
明治6(1873)年、廃城・解体され、城の建造物は残っていない。
▲(佐倉市城内町官有無番地 Tel. 043-484-1111)
隣接して小原家の墓もあり「小原庄助の墓」は納得できる。
こよなく酒を愛した小原家に、庄助なる人物がいた。
ここの庄助さんは、油絞り職人だったそうだ。
伝説は真偽を問うものではなく、楽しむものであろう。
「法雲法子位 十二月八日
生國尾州春日部郡 安加津村 俗名庄助 行年 九十一歳
世之中の酒は諸白 みは徳利 焼酎そばをはなれますまい」
小原庄助の墓は、秀安寺、皇徳寺。
▲(木更津市吾妻1-1-1 Tel. 0438-22-3683)