江 戸 湾 防 備 (千葉県) / 殉 難 者

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十  夜  寺  (松翁院 無量光寺)

会津藩士・家族墓

会津藩士・家族墓

 資料には34基とのことだが、確認されたのは26基(27名)。
 隣接している墓は、白川藩・備前藩・忍藩。
十夜寺(無量光寺)
 会津藩江戸藩邸を移築した本堂であったが、平成6(1994)年に新しく建て替えられた。



 ≪参道寄りから1列目≫

榎本永義後妻墓 高橋左膳豊忠墓 平山元治


礼法院譲誉智教大姉  奥州會津家臣 榎本永義後妻墓 嘉永二年七月十七日
     西光院明春忠巌居士  會津藩 高橋左膳豊忠墓 二年二月
          歓達淨喜居士 會津臣 平山元治 嘉永五年五月二十五日


穴沢光信母 高橋豊正 白井胤元 女


穴沢光信母
     會津藩 高橋豊正  俗弥八之墓
          心樹院観誉葉光妙音大姉  會津藩士 白井胤元 女



 ≪参道寄りから2列目≫

井深光邦墓 諏訪光知 渡部秀明之墓


忠肝院殿雄岳威居士  井深光邦墓 會津臣俗弥六郎兵衛
   光嶽院知勇俊山居士  諏訪光知 會津之士 諱藤左衛門 嘉永三年十月廿四日
      會津藩 渡部秀明之墓  嘉永元年四月廿日


津田朝則妻 吉田萩之助 弦木成功


會津家臣 津田朝則妻  西村光成之女
   吉田萩之助
      成徳院功岳義全居士  會津之士 弦木成功 嘉永四年十二月二十一日病卒



 ≪参道寄りから3列目≫

関脇重教妻 津田三郎八基 國安多蔵


心正院寛誉貞操大姉  會津士 関脇重教妻 嘉永四年六月十一日
     會津藩 津田三郎八基  嘉永三年七月廿八日
          會津 國安多蔵  二月九日


下川忠意 野○成文妻 佐藤美○


下川忠意  會津家臣 俗弥久○○
     會津藩 野○成文妻
          會津藩 佐藤美○


 ≪参道寄りから4列目≫

榎本永義三女 富田重寿三女 松見重○ 娘 稲村兼吉 女


會津家臣 榎本永義三女  三月六日
     會津 富田重寿三女  嘉永三年十月十八日
          松見重○ 娘  四月十一日
               會津 稲村兼吉 女


平田好浩○ 武藤義保 同人妻墓 永岡久高 妻 齋藤勝○


會津藩 平田好浩○
     會津 武藤義保 同人妻墓  真全妙応大姉 嘉永六年十一月二日
          會津藩 永岡久高妻  嘉永五年八月二十一日
               會津藩 齋藤勝○



無縁仏群

 不明の8基は、集積された無縁仏群の中で、眠っておられるのだろうか。
 [閑話]

 ▲(千葉県富津市竹岡349-1 Tel. 0439-67-8354)


 幕末の混乱期の弘化4(1847)年から、ペリー来航により品川砲台の守備を命じられる嘉永6(1853)年までの7年間、安房と上総の二国で房州沿岸警備の任に就いた。
 富津と百首 (竹岡) に陣屋を設け、砲台を築いた。 [富津] [竹岡] [訓練]

 着任時の兵力は、軍事奉行/黒河内十太夫率いる総数233人であったが、翌年には1,400余人にも膨れ上がり、陣屋・砲台の構築、新造船19隻など藩財政を圧迫することになる。
 そして、この任の間に、少なくとも藩士と家族80余人が亡くなられた。
 今では、富津陣屋は住宅地に、竹岡陣屋は竹岡小学校になり、面影すら残っていない。
 この地に没した藩士と家族の墓は無縁として集積されたが、確認できる墓も残っている。
 会津松平家初代藩主/保科正之公と、飯野藩主/保科正貞公は義兄弟である。
 松平容敬公の養女になり、会津藩幕末の藩主/松平容保の義理の姉/照姫は、飯野藩9代目藩主/保科正丕公の3女である。
 飯盛山で自刃した白虎隊/石山虎之助や、柴四朗 (後の東海散士) は、富津で生まれている。
 会津藩士/佐々木只三郎も、この地で青春期を過ごしている。
 この時代に伝わった会津唐人凧により、上総唐人凧が今の形に生まれた。
 この地は、会津と縁が深いのである。

 ほとんどの墓碑は、キレイに清掃され、きちんと維持管理されていた。
 地元の篤志ある方々には、言い尽くせないほどの感謝である。


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