江 戸 湾 防 備 (千葉県) / 殉 難 者[戻る] [TOP] [行く] [遊ぶ] [知る]十 夜 寺 (松翁院 無量光寺)会津藩士・家族墓
資料には34基とのことだが、確認されたのは26基(27名)。 ≪参道寄りから1列目≫
≪参道寄りから2列目≫
≪参道寄りから3列目≫
≪参道寄りから4列目≫
不明の8基は、集積された無縁仏群の中で、眠っておられるのだろうか。 幕末の混乱期の弘化4(1847)年から、ペリー来航により品川砲台の守備を命じられる嘉永6(1853)年までの7年間、安房と上総の二国で房州沿岸警備の任に就いた。 着任時の兵力は、軍事奉行/黒河内十太夫率いる∬総数233人であったが、翌年には1,400余人にも膨れ上がり、陣屋・砲台の構築、新造船19隻など藩財政を圧迫することになる。 そして、この任の間に、少なくとも藩士と家族80余人が亡くなられた。今では、富津陣屋は住宅地に、竹岡陣屋は竹岡小学校になり、面影すら残っていない。 この地に没した藩士と家族の墓は無縁として集積されたが、確認できる墓も残っている。 会津松平家初代藩主/保科正之公と、飯野藩主/保科正貞公は義兄弟である。 松平容敬公の養女になり、会津藩幕末の藩主/松平容保の義理の姉/照姫は、飯野藩9代目藩主/保科正丕公の3女である。 飯盛山で自刃した白虎隊/石山虎之助や、柴四朗 (後の東海散士) は、富津で生まれている。 会津藩士/佐々木只三郎も、この地で青春期を過ごしている。 この時代に伝わった会津唐人凧により、上総唐人凧が今の形に生まれた。 この地は、会津と縁が深いのである。 ほとんどの墓碑は、キレイに清掃され、きちんと維持管理されていた。 地元の篤志ある方々には、言い尽くせないほどの感謝である。 [戻る] [TOP] [行く] [遊ぶ] [知る] |