《殉難者》 | 若林八次郎 | 若林源八珍彦 | 和田伝蔵 | 渡部久馬 |
和田ミワ・ナカ・コマ | 渡部源次郎 | 渡部貞之助 | ||
渡部治左衛門 | 渡部四郎 | 渡部綱英・三男・後妻 | ||
渡部吉三郎 | 渡部巳之吉 | |||
和田仙六 |
若嶌 久三郎 |
わかしま きゅうざぶろう、 天保13(1842)年9月〜明治24(1891)年1月6日 (49歳) 若嶋とも。本名:小沢久三郎。旧姓:根本久三郎。四股名が若嶌。 漆器塗師の次男として鶴ヶ城下にて誕生。 体格に恵まれ (現役時代の体格:173cm、114kg)、家業の手伝いをしながら宮相撲で大活躍、楯山親方から勧められ力士を目指す。 江戸に上り、5代/楯山 (大槙幸治) 部屋に入門。 文久2(1862)年、3月場所で初土俵 (序ノ口) を踏む。 慶応4(1868)年、戊辰の役で会津に戻り、力士隊として後方支援で活躍するも、戦闘には参加していない。 開城後は、再び上京。 明治3(1870)年、11月場所で十両入り (幕下十枚目)。 明治7(1874)年、3月場所で新幕入り (数え33歳)。 押し相撲が得意だが、慎重すぎる取り口が禍して出世が遅れるも、入幕してからは本領を発揮し、十両時代より好成績を挙げる。 明治9(1876)年、正月場所では東前頭三枚目として、8勝1分で最優秀 (優勝相当、当時は幕内の優勝制度が無い) を挙げる。 明治10(1877)年、6月場所で小結、12月場所で関脇に昇進。 明治12(1879)年、6月場所で最優秀 (優勝相当) となる。 明治14(1881)年、正月場所で大関に昇進。 関脇時代には、1度も負け越しが無かった。 同年の夏の東北巡業中、横綱/境川浪右衛門が病気となり、代わって正式の横綱土俵入りを行なった。 免許のない力士が横綱土俵入りをするため県令に許可を得るななど、当時としては大事件であった。 それ以降、いたく感謝した境川から、時折、お忍びで酒宴の招きが続いたという。 明治15(1882)年、師匠の跡目を継ぎ「楯山久三郎」を名乗る。 同年6月場所から二枚鑑札で活躍、大関を4年8場所勤める。 明治17(1884)年、5月場所を最後に引退し、年寄専務となる。 《主な成績》 ◇ 幕内在位 21場所 ◇ 幕内成績 104勝34敗15分4預53休 ◇ 幕内勝率 7割5分4厘 (十両勝率は 6割2分7厘) ◇ 優勝相当 2回 引退後は弟子の育成に尽力し、人が羨むほど評判が良く、門下で名横綱/若島権四郎などを輩出している。 孫娘は、前頭/寒玉子の妻。 |
若松賤子については、こちら。 |
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和田 晋 |
わだ しん、明治31(1898)年〜昭和57(1982)年9月17日 (84歳) <剣道家/一刀流溝口派継承者、範士九段/全日本剣道連盟> 藩士/和田又四郎茂弘と母/みえ子 (井深宅右衛門の娘) の4男とし若松市 (会津若松市) で誕生。 満州国陸軍中将/和田勁は実兄。 祖父/井深宅右衛門は、戊辰の役の故なき責で切腹直前の萱野権兵衛から、一刀流溝口派を伝授された。 次いで、受け継いだ父/又四郎から伝授された。 大正 7(1919)年、会津中学校 (会津高校) を卒業 (中23回) し、東京高等師範学校に入学、剣道家/高野佐三郎から中西派一刀流を学ぶ。 東京高等師範学校を卒業し、石川県師範学校、金沢第四高校、府立第七中学校、攻玉社中学校、若松商業高校、会津短期大学で剣道を指導。 昭和43(1968)年、他見他言の掟のため途絶えてしまうのを惜しんで、第14回全日本東西対抗剣道大会において初公開。 その後、全会津剣道連盟会長、会津武徳殿師範、福島県剣道連盟副会長、全日本剣道連盟審議員などを歴任。 胸像は善龍寺。 |
渡部 鼎 |
わたなべ かなえ、 安政5(1858)年9月7日〜昭和7(1932)年7月18日 (75歳) <医師/会陽医院院長で陸軍軍医少佐、政治家衆議院議員> 漢学者/渡部思斎の長男として河沼郡野沢 (西会津町) にて誕生。 幼くして父/思斎の私塾/研幾堂で漢学を学ぶ。 明治 5(1873年、上京して高島嘉右衛門の藍謝堂に入学し洋学を学んだ後に医学を志して、大学南校へ入学。 明治 7(1874)年、大学南校を卒業し、東京医学校 (東京大学医学部) へ進学。 明治10(1877)年、警察医や陸軍軍医の資格を取得、西南戦争に新撰旅団第四大隊附軍医試補として出征。 明治18(1885)年、親友/石川暎作と共に「婦人束髪会」を創設し、医学的立場から女性の健康・地位向上のため理容の礎を築く。 明治18(1885)年、渡米し、翌年 カリフォルニア大学医学部に入学。 明治21(1888)年、ドクトル・オブ・メディシンの学位を取得後、海外で開業した日本人初の医師として、サンフランシスコにて開業。 明治23(1890)年、父が死去の報を受け帰国・帰郷し、会陽医院 (渡部医院) を開業。 明治25(1892)年、野口英世の不自由な左手を手術。 翌年から英世は会陽医院に書生として住み込み、偉大な医学者への道を歩むことになる。 明治27(1894)年、日清戦争に軍医として出征。 明治35(1902)年、第7回衆議院議員総選挙 (若松区) で議員に就任。 明治37(1904)年、日露戦争に軍医として出征。 軍医としては、大阪鎮台歩兵第八連隊副官、大阪私立医学校教頭、大阪医事研究会会長、東京憲兵第一大隊医官、軍医学会幹事などを歴任。 明治39(1903)年、上京し、日本初のラジウム治療病院を開設。 大正 6(1917)年、胃病を患い帰郷し、再び医院を桂林寺町に開業。 昭和 7(1932)年、東京で死去。 墓は西会津町樋ノ口。 |
渡部 菊二 (菊次) |
わたなべ きくじ、明治40(1907)年3月〜昭和22(1947)年 (40歳) 渡部峻造の息子として竪三日町で誕生。 第五尋常小学校 (謹教小学校) へ入学するが、後に第一尋常小学校 (鶴城小学校) へ転校している。 大正8(1919)年、会津中学校 (県立会津高校) へ入学。 図画教師/半沢松吉が指導する「後素会」で水彩画に魅了される。 大正13(1924)年、会津中学校を卒業し、門田小学校や第一尋常高等 小学校の教師を勤めながら絵画制作に励む。教え子に長沢節がいる。 大正15(1926)年、会津中学校の美術クラブ「後素会」の出身者/田部喜市・長尾三郎 (荒川三郎)・春日部たすく・角田行夫・長沢節たちと洋画団体「彩光会」を設立する。 前田寛治の作風に傾倒し絵画制作に励み、やがて、大胆なデフォルメ・モダンな雰囲気・明るく人物を描く作風を生み出す。 昭和6(1931)年、第18回日本水彩画会展で「花園風景」が初入選し、注目を集める。 昭和7(1932)年、第9回白日会展で初入選。 昭和8(1933)年、中央展に連続入選すると、春日部たすくの助言もあり、上京を決意。 第10回白日会展に油彩「女人挫像」を出品。 第20回日本水彩画会展に「浮世絵のある静物」「緑服の少女」出品。 昭和9(1934)年、第11回白日会展に「少女像」を出品すると、創作発表の場である白日会の会友に推挙される。 同年、第21回日本水彩画会展に「黒衣婦人」「街の手品師」「人形売りの少女」「新聞売り」を出品し第一賞を受賞。 昭和10(1935)年、第12回白日会展に「少女像」「花を持つ少女」などを出品すると、日本水彩画会の会員に推挙される。 昭和11(1936)年、第13回白日会展に「野に座す」「二少年」「人形を抱く」「野の少年」で会友奨励賞を受賞し、会員に推挙される。 同年、文展で「日蝕」が入選、モダニズム水彩画家の地位が確立。 水彩画家/池田百合子と結婚。 昭和13(1938)年、第15回白日会展に「二人の女」「砲車と女」「女の像」を出品。 昭和15(1940)年、春日部たすく・小堀進・荒谷直之介・小山良修・萩野康児たち同じ志を持つ8人で「水彩連盟」を創立する。 同年、会津中学校の「彩光会」立ち上げにも携わり、若松に赴き積極的な指導活動を展開。 竹久夢二も招待している。 昭和17(1942)年、第29回日本水彩画会展に「南の友人」「ジャングルの旗」を出品。 昭和18(1943)年、第20回白日会展で「戦国の少年」などを出品し、会員賞を受賞。 水彩画の明快な色彩に、モダンな構成を加えた作品は高い評価を受け、日本の水彩画界に大きな足跡を残す。 昭和20(1945)年、空襲の激化で、故郷の若松に疎開。 戦時中の赤貧生活で健康を害し、作画は中断したまま闘病生活に入り、快復することなく翌々年に死去。 《主な作品/作品の画像は非公開》 |
渡部 恒三 |
わたなべ こうぞう、 昭和7(1932)年5月24日〜令和(2020)年8月23日 (88歳) 元の名:恒蔵。 父/渡部又左衛門の3男として田島町 (南会津町) で誕生。 <衆議院副議長、厚生大臣、自治大臣、通産大臣、国家公安委員長> 昭和20(1945)年、会津中学校 (3年後に新制/高等学校) に入学。 昭和26(1951)年、県立会津高等学校を卒業。 早稲田大学第一文学部に進み、雄弁会にて後々の知己を得る。 昭和30(1955)年、早稲田大学第一文学部を卒業。 自由党/石橋湛山の私設秘書や八田貞義の秘書に就き、政治を学ぶ。 昭和34(1959)年、県議会議員選挙 (自民党) 初当選。 この時に、戸籍も含め「恒蔵」から「恒三」に改名する。 昭和38(1963)年、県議会議員選挙 (自民党) 2期目当選。 昭和42(1967)年、公職選挙法違反に問われ県議員を辞職。 昭和44(1969)年、第32回衆議院議員総選挙 (無所属) で初当選。 後援会の「衆議院選は無理」との反対を押し切り出馬、「会津のケネディ、東北のケネディ」をアピールしての初当選であった。 当選後に自民党追加公認となるが、佐藤派からの誘いを「長賊の家来にはなれない」と一喝、無派閥で活動する。 昭和49(1974)年、通商産業政務次官に就き、2期務める。 以降、第45回衆議院議員総選挙まで当選を重ね、14期務める。 昭和56(1981)年、「水芭蕉日記:国政十二年の歩み」を著す。 昭和58(1983)年、64代/厚生大臣 (第2次中曽根内閣) に就任。 「少子高齢化」の言葉は、厚生大臣時代の恒三が使ったとされる。 昭和62(1987)年、自民党国会対策委員長に就任。 平成元(1989)年、39代/自治大臣兼49代/国家公安委員長に就任。 竹下派七奉行の1人と称される。 平成 3(1991)年、衆議院予算委員長を経て55代/通商産業大臣就任。 平成 4(1992)年、日本・米国・カナダ・EUの通商相当大臣による四極通商サミットの開催 (裏磐梯ロイヤルホテル) に参与。 平成 5(1993)年、念願であった二大政党制実現を目指すべく自民党を離党し、翌日に新生党を結党。 平成 6(1994)年、新生党を解散、新進党を結党し幹事長代理就任。 平成 7(1995)年、「政治家につける薬」を著す。 同年、党政策審議会長および国会対策委員長に就任。 平成 8(1996)年、党総務会長、副党首、60代/衆議院副議長に就任。 平成 9(1997)年、新進党分党により無所属となる。 平成12(2000)年、無所属の会に入党。 同年7月、61代/衆議院副議長に再任され、在任日数2,498日の最長記録となり、離党した自民党からの推薦であったことも異例。 平成17(2005)年、 党最高顧問に就任。 平成18(2006)年、党国会対策委員長に就任、党最高顧問に就任。 同年10月、第19回日本メガネベストドレッサー賞を受賞。 同年11月、平成18年度ゆうもあ大賞を受賞。 平成19(2007)年、事務所費問題を問われ、党最高顧問を辞任。 平成20(2008)年、党最高顧問に再任。 平成22(2010)年、母/キイが死去 (106歳)。 平成23(2011)年、地下原発議連の顧問に就任。 平成24(2012)年、野田内閣の衆議院解散、失職。 前日に不出馬を宣言しており、政界を引退する。 令和2(2020)年、県議時代から選挙で一度も落選したことのない無敗の男が、老衰により会津若松市内の病院で死去。 令和4(2022)年11月6日、自宅の一部に「渡部恒三記念館」が開館。 入り口には等身大の銅像が設置され、 廊下や応接間だった部屋に新聞記事や勲一等旭日大綬章の勲章、大臣の任命書、衆院副議長の卓上名札、天皇からの香典袋など多数の貴重な資料が展示されている。 |
渡部 潤一 |
わたなべ じゅんいち、昭和35(1960)年12月28日〜 渡部賢蔵の息子として会津若松市にて誕生。 <太陽系天文学者> 昭和48(1973)年、城北小学校を卒業。 昭和54(1979)年、県立会津高等学校を卒業し、東京大学へ進む。 「分からないことだらけの学問だから、その謎を解きたい」 昭和58(1983)年、東京大学理学部天文学科を卒業し大学院へ進む。 昭和62(1987)年、東京大学大学院理学系研究科天文学専門課程博士課程を中退し、東京大学東京天文台の助手となる。 昭和63(1988)年、国立天文台光学赤外線天文学研究系助手に就き、東京大学理学博士号を取得。 平成 3(1991)年、ハワイ大学天文学研究所の客員研究員に就く。 平成 4(1992)年、総合研究大学院大学数物科学研究科助手を兼務。 平成 6(1994)年、国立天文台広報普及室長に就任。 平成10(1998)年、国立天文台天文情報公開センター助教授に就任。 平成18(2006)年、国立天文台天文情報公開センター長に就任。 国際天文学連合「惑星の定義委員会」委員に就き、冥王星を惑星から除外する決定に携わる。 平成22(2010)年、国立天文台教授・総合研究大学院大学教授に就任。 平成24(2012)年、国立天文台副台長に就任。 令和 4(2022)年、国立天文台上席教授に就任。 令和 6(2024)年、著書「賢治と『星』を見る」が夏休みの本に選定。 著書「図説新・天体カタログ 銀河系内編」「巨大彗星が木星に激突するとき」「彗星の木星衝突を追って」「彗星、地球へ大接近!」「ヘール・ボップ彗星がやってくる」「しし座流星雨がやってくる」「星空を歩く:巨大望遠鏡が見た宇宙」「新しい太陽系:新書で入門」など。 妻:好恵 (サイエンスライター)。 子:1男1女。 |
渡部 精司 |
わたなべ せいじ、 <農業指導者、ハッカ栽培の先駆者> 文久2(1862)年7月24日〜大正15(1926)年6月26日 (65歳) 薬種御用商人の子として鶴ヶ城下にて誕生。 明治15(1882)年、開拓を志し北海道に渡る。 明治18(1885)年頃から日高/門別や渡島/八雲、旭川/永山などで栽培が始まったハッカに着目し、サロマ湖近辺の試作は失敗が続く。 明治26(1893)年、北見国湧別原野 (湧別町) でハッカが自生しているのを発見し、入植。 明治27(1894)年、湧別西一線でハッカの栽培を開始。 明治29(1896)年、苦難の末、畑地での栽培に成功し、後に北見地方が世界一のハッカ生産地となる基礎を築いた。 昭和14(1939)年頃の北見地方は、作付面積2万ヘクタールにも及び、世界市場の70%を占めた。 昭和61(1986)年、「北見ハッカ記念館」「薄荷蒸留館」が発足。 |
渡部 義通 |
わたなべ よしみち、 明治34(1901)年7月15日〜昭和57(1982)年6月28日 筆名:寺田守、山部六郎。 伊南村古町 (只見町) にて誕生。 福島師範中退、明治大学政経学部中退。 妻は、三井家総領家第10代当主/三井高棟の4女/禮子。 大正10(1921)年、建設者同盟に加盟。 大正11(1922)年、明治大学に七日会を結成。 病気療養のため、帰郷。 大正15(1926)年、福島県合同労組を結成、委員長に就任。 同年9月、労働農民党福島県支部連合会書記長。 昭和2(1927)年、上京し、日本共産党に入党。 昭和3(1928)年、三・一五事件で検挙され、獄中で日本古代史研究をはじめる。 翌年に脊髄カリエスのため出所。 昭和5(1930)年「日本母系時代の研究」を表す。 昭和8(1933)年「日本原始社会」を表す。 昭和11(1936)年「日本古代社会」「古事記講話」を表す。 渡部義通によって、初めて日本列島の先史社会の生産技術と社会発展を通観した論考が発表された。 アジア的生産様式や奴隷制などの古代史について、早川二郎らと論争したが、奴隷制論争に関して渡部が主導したと評価されている。 昭和15(1940)年、再検挙され、懲役2年6ケ月服役。 敗戦後、日本共産党に再入党。 昭和21(1946)年、民主主義科学者協会 (民科) の創立に参画し、幹事長兼書記長に就任。 昭和24(1949)年、第24回衆議院議員総選挙に当選。 同年、日本学術会議の会員となる。 昭和30(1955)年、党史編集の必要を提言。 昭和33(1958)年、社会主義政治経済研究所を設立。 昭和39(1964)年、日本共産党内の民主化を要求して、党から除名。 昭和42(1967)年、春日庄次郎たちと共労党を結成。 |
藁谷 勇三郎 |
わらがや (わらや) ゆうさぶろう、 明治10(1877)年4月24日〜没年不明 <陸軍大佐> 藩士の3男として若松 (会津若松市) にて誕生。 会津中学校 (会津高校) を卒業 (中2回)。 明治31(1898)年、陸軍士官学校 (第10期) を卒業。 明治32(1899)年、歩兵少尉として歩兵第二十九連隊附となる。 戸山学校教官、将校生徒試験常置委員、歩兵第十五連隊大隊長、歩兵第五十九連隊附、松本連隊区司令官などを歴任。 明治37(1904)年、日露戦争に出征。 大正 7(1918)年、日露戦争に出征。 大正11(1922)年、予備役編入。 その後、会津松平家の執事に就き、稚松会の設立発起に携わる。 著作「新旧剣術教範之研究」「各種教練と体操」「遊泳教育」「剣術用具ノ手入保存法」など。 |
和田勁 | 渡部篤 | 渡部憲司 | 渡部思斎 | 渡辺多門 | 渡部常好 |
渡部虎治郎 | 渡部行雄 |