会津藩士の箱館病院分院として高龍寺を使用していた。
明治2(186)年5月11日15時頃、が乱入し、箱館病院調役/木下見蔵をはじめ負傷して抵抗できない傷病兵13名をメッタ切りにして寺に放火、生きながらして焼き殺された。
明治13(1880)年、惨殺された霊を供養するため旧/会津藩有志が建立。
“傷心惨目”
撰宋岳飛真蹟李華古戦場文字勒石
以弔焉 會津残同胞共建
明治十三年
後に周知の事実となり非難されるや、は傷病兵の発砲があったからなどと、毎度の如く欺瞞に満ちた作り話しを持ち出した。
毎年5月11日に碑前祭が営まれており、右隣に会津の「紅更紗」が植樹されている。
平成13(2001)年、土津神社の御神杉を植栽。
訪れた時は初夏だったが、枯れかかっていた。
保科正之公が御祭神として祀られている琴似神社に寄贈された10本のうちの1本だが、北限での生育は難しいようだ。
通称は、鉄之丞。
軍事奉行・学校奉行などを歴任し、安政6(1859)年に幕命による蝦夷地警備の若年寄陣将として赴任。
文久元(1861)年5月、再び東蝦夷領内 (標津、斜里、紋別) を巡回し、帰路の勇払(現/苫小牧)で病死。
「會津中老田中玄純墓」。
嫡男/源之進玄直 (猪苗代城代) は函館市相生町に移り住み、次男/金次郎玄忠は江差の裁判所書記となり、三女/八重の三女/田中アイは函館で看護婦・産婆として活躍。
本堂左側の墓域の入口にある。
最初に日向君招魂碑があり、次いで7基の墓が並ぶ。
5基目に諏訪部信五郎、その隣に諏訪常吉の墓がある。
諏訪常吉
.
藩主/松平容保公が京都守護職就任時は、京都に赴き公用方を務め外交折衝に尽力する。
帰国後は、奥羽列藩同盟のため仙台を訪れるが、すでに仙台藩は降伏を決めており、頼みの榎本艦隊も蝦夷新政府の夢に傾いており、ほどなく鶴ヶ城開城の報が入る。 70名の会津藩士による会津遊撃隊を結成し、隊長として榎本艦隊に乗込み、蝦夷に向かった。
戦地で無頼を働く兵士を処分するなど、正義の士であった。
明治2(1869)年4月29日、松前/矢不来で負傷し、5月16日に箱館病院で死去、37歳。 円通寺/死節之墓にも記載されている。
からの内密要請に応じ、榎本宛の勧告状を書し、和平交渉のきっかけを作る。
「斗南旧藩 諏訪常吉墓」
旧幕府軍戦死墓群
明治2(1869)年、箱館戦争が終結した後、市中に放置されていた旧幕府軍戦死者の遺体を侠客/柳川熊吉が回収した際に、実行寺の住職/日隆が賛同し、寺の境内に埋葬した。
後に、多くの英霊 (遺骸) は、碧血碑に改葬された。
諏訪部 信五郎 |
諏訪 常吉 |
日向君招魂碑
悲劇の白虎士中二番隊の隊長/日向内記の長男/真寿見。
戦後は全国の電信局長を歴任し、日清戦争勃発で朝鮮に渡り第一軍兵站部の軍用電設の任に就く。
明治28(1895)年3月24日、平安道龍川で業務中に急死。 43歳。
一周忌の時、仙台/青葉神社の境内に建立 (篆額は榎本武揚) されたが、後に倒壊のままになっていたので、この地に移された。
真寿見の母は諏訪氏であり、実行寺は諏訪氏の菩提寺である。
「旧幕府軍戦死墓群」の手前、列の左側にある。
榎本軍80余名の慰霊碑。
会津藩士/沢田光長が建立した。
「開拓使士澤田光長建立」
本堂裏手で「澤田家之墓」内にある。
「勇誠院殿明治十年七月○
日死俗名菊行年七十四才旧 斗南藩士澤田光長母」
明暦元(1655)年、庵が草創。
日蓮宗。
開港後の時に、ロシア領事館として使われた。
▲(函館市船見町18-18 Tel. 0138-22-0341)
朽ち果てる遺骸を哀れんだ侠客/柳川熊吉は、実行寺の住職/日隆の協力を得て、土方歳三たち約800柱を埋葬した。 熊吉は捕えられ打ち首の沙汰としたものの、子分たちの仕返しを恐れおののいたは赦免した。
明治4(1871)年、函館山の山麓の土地を購入し、実行寺・称名寺などから改葬した。
明治7(1874)年8月18日、やっと祭祀などが許されたので、翌明治8(1875)年5月に函館政府軍/戦死者 (主に旧幕府軍800名) の慰霊碑/碧血碑が建立された。
会津山中の自然木「紅更紗どうだんつつじ」が、碑の前方左側に植樹されている。
土方歳三の遺体も掘り起し、火葬して合葬との説もある。
「碧血」とは、「荘子」の “義に殉じて流した武士の血は3年たつと碧色になる” との中国に伝わる故事にちなむ。
毎年5月に慰霊祭が行われ、大勢の人が参集している。
柳川熊吉の義碑
浅草の料亭の息子で、本名は野村熊吉。
安政3(1856)年、この地に移住し、五稜郭築造工事の請負業を営むが、刺青もせず、酒やタバコも嗜まない任客であった。
後に、江戸流柳川鍋の「柳川亭」を開業。
箱館奉行/堀利熙が、その味を賞賛して熊吉を「柳川」の愛称で呼んだことから、姓を柳川に変えたという。
熊吉米寿の祝いに、有志らが義挙を称えた「寿碑」を建立。
▲(函館市谷地頭町 函館山中腹の妙心寺・函館八幡宮付近)
土方歳三、粕屋十郎、小林幸太郎、野村義時(利三郎)、栗原仙之助たち新選組隊士5名の名前が刻まれている。
戦費のため箱館住民に課税しようするのを歳三が反対し中止となった。 感謝した住民らが、死後に建立したもの。
他4名の墓碑もあったが、台風や火災などで壊れたため慰霊碑に刻んだとのこと。
土方歳三の戒名の一つである「有統院殿鉄心日現居士」は、この寺でつけられた。
▲(函館市船見町1-14
Tel. 0138-23-0574)
≪粕谷十郎≫
十一郎、粕屋、糟谷伊三郎とも。 元/徳川家の家臣(御目見)。
慶応4(1868)年3月(4月とも)、梅窓院で結成された回天隊に入る。
大鳥圭介の伝習第一大隊として転戦、母成峠の戦いで奮戦後、蝦夷へ渡る。
明治2(1869)年1月15日、新撰組に入隊 (箱館編成新選組の嚮導役)。
同年5月11日、寒川(函館山西海岸)で先頭に立って攻め入り長賊3名を斬るも戦死。
30歳。
称名寺に埋葬されたとされる。 寿徳寺境外墓地にも記載されている。
≪小林幸次郎≫
幸二郎、幸治郎、孝次郎とも。
上野国吾妻郡川島村の出身で、小笠原長行の従僕。
慶応4(1868)年3月3日、長行に従い江戸/深川藩邸を脱出、母成峠の守備に就く。
戊辰(1868)年9月18日頃、仙台にて新撰組に入隊し蝦夷に渡る。
箱館編成新撰組第二分隊の隊士。
明治2(1869)年5月15日、弁天台場で降伏。
同年7月21日、収容所の弘前/薬王院にて病死とされている。
≪野村義時(利三郎)≫
野邑利三郎、理三郎とも。 美濃国大垣の出身。
慶応3(1867)年6月以降に入隊 (局長附人数)。
明治2(1869)年4月、新選組局長/近藤勇がへ出頭する際、付き添った。
同月25日、近藤勇は斬首されたが、近藤の助命嘆願により釈放された。
すぐに(6月26日)、旧幕府陸軍隊長/春日左衛門の陸軍隊に入り、常磐口などで奮戦。
蝦夷へ渡るや、陸軍奉行添役として土方歳三の指揮下に復帰。
明治2(1869)年3月25日、宮古湾海戦/回天艦で敵艦/甲鉄に斬り込み、戦死。 26歳。
「忠岳義剣居士」 遺体は敵兵が海に投げ棄てた。
寿徳寺境外墓地、円通寺/死節之墓にも記載されている。
≪栗原仙之助≫
栗山とも。 元/唐津藩士。
慶応4(1868)年5月15日、上野戦争で奮戦。
その後、輪王寺宮を護衛する小笠原胖之助(三好胖)に従い、江戸を脱出。
同年6月6日、会津/鶴ヶ城下に至る。
同年7月14日、唐津藩兵15名の一員として猪苗代へ布陣。
山入村や母成峠の戦いの後、9月中旬に仙台で新選組へ入隊し、蝦夷地に渡る。
箱館編成新選組隊士。
明治2(186)年5月11日、弁天台場で戦死。
23歳。 「俊良院犠山専有居士」
墓は、唐津/法蓮寺、寿徳寺境外墓地にも記載。
明治元(1869)年12月15日(新暦1月)、函館政府 (蝦夷共和国) 誕生と同時に、日本初の士官以上による「公選入札(選挙)」がおこなわれた。 総数856票の投票により、1位の156票を獲得した榎本武揚が「総裁」に、6位の73票を獲得した土方歳三は「陸軍奉行並」に就任した。
明治2(1896)年5月11日、一本木関門付近で腹部に被弾し戦死との説が有力。
その他の戦死地として異国橋説・鶴岡町説などもある。 35歳。
昭和33(1958)年、最有力とされる若松小学校の敷地内に建立された。
埋葬地については、五稜郭内説・大円寺説・極楽寺説・願乗寺説・碧血碑説などの諸説があり、今なお不明である。
墓・慰霊碑は、石田寺、寿徳寺境外墓地、天寧寺にある。
(辞世の句)
「たとひ身は 蝦夷地の島根に 朽ちるとも 魂は東
「よしや身は 蝦夷が島辺に 朽ちぬとも 魂は東の 君やまもらむ」とも。
▲(函館市若松町33)
旧/鶴岡町にて戦死説 一本木と異国橋のほぼ中間、大手町の電車通り沿い。 「五月十一日朝四つ時 一本木鶴岡町 土方討死 附添 沢忠助 安富才助 別当熊蔵〜」 ▲(函館市大手町) |
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異国橋にて戦死説 異国橋は、十字街停留場/東側の十字街交番南西角の歩道辺りにあった。 「一本木関門より打ち出でて異国橋付近で馬上にて腰間を撃ち貫かれ落命」 ▲(函館市末広町8〜豊川町7) |
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大円寺に埋葬説 ≪二本松の根元に埋葬説≫ 歳三に従って参戦していた馬方/吉田松四郎が、歳三の遺体を五稜郭に運び通夜を営み翌朝に神山村/浄土宗無量庵 (現/大円寺) 墓地内の二本松の下に埋葬した。 ≪無縁塚に埋葬説≫ 大正7(1918)年、歳三の馬方/吉田松四郎が、二本松の下の歳三の遺骨と副葬品/鎖帷子・小刀を無縁塚に改葬した。 新選組/蟻通勘吾や函館政府軍 (旧幕府軍) の戦死者も埋葬されたとされる。 ▲(函館市神山3-4-1 Tel. 0138-53-9019) |
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願乗寺に埋葬説 明治11(1878)年の土塁修復工事の際に多数の遺体を願乗寺境内へ改葬し石碑を建立したが、その後に幾度となく火災にあい。今では行方不明。 ▲(函館市東川町12-12 Tel. 0138-23-0647) |
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土方歳三を五稜郭内に埋葬説 |
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極楽寺に埋葬説 島田魁が念仏堂の縁の下に隠した。 後に念仏堂は建て直されたが、現在の堂の北側空き地辺りとのこと。 明治20(1887)年、島田が改葬したとも。 本堂前には、旧幕軍などの戦死者の菩提を弔ったと推測される常夜灯がある。 ▲(函館市吉川町5-18 Tel. 0138-42-0748) |
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その他の埋葬説 入舟町、船見町などへ埋葬したとの山背泊説など。 |
亀田御役所土塁、箱館御役所、柳野城とも。
慶応2(1866)年、徳川幕府が北方防備のため本格的な洋式城郭として築き、箱館奉行所となる。
戊辰の役では、会津遊撃隊も駐屯していた。
五稜郭の「函館市立博物館五稜郭分館」には、会津関係のものも多く残されている。
明治元(1869)年12月(新暦1月)、函館政府 (蝦夷共和国) が樹立され、本拠地となる。
明治4(1871)年、長賊らにより五稜郭内部の建物は破壊され解体された。
鶴ヶ城と同じく日本100名城 (2番) の1つ。
箱館戦争供養塔
多数の戦死者がでたの総攻撃の日、明治2(1869)年5月11日にあわせて、毎年5月11日に開催の供養祭の締めくくりが、ここで執り行われる。
五稜郭タワーのアトリウムから公園に出る出口にある。
新五稜郭タワーの完成時に、現在地に移設された。
箱館奉行所
元治元(1864)年、ペリー提督の来航により五稜郭内に移築。
明治4(1871)年、解体・破棄。
平成22(2010)年7月29日、箱館奉行所が復元され公開。
▲タワーは有料 (函館市五稜郭町44)
明治2(1869)年4月下旬から、箱館戦争中に五稜郭の背後を防御する支城として、フランス士官らの支援を受け北東約3qの丘陵上に急造した洋式堡塁。
神山台場、新台場、新五稜郭とも。
同年5月11日の戦いで五稜郭との連絡道が分断されかかったため、放棄して五稜郭へ退却した。
▲(函館市陣川町59)
享和2(1802)年、蝦夷奉行として設置。
享和3(1803)年、奉行所が完成。
ペリー提督来航の危機感で五稜郭内へ移す。
今では元町公園入口近くに木碑があるだけ。
▲(函館市元町12-18)
安政3(1856)年から元治元(1864)年までの8年をかけて幕府が、五稜郭の支城として築造した不等辺六角形の軍事要塞。
五稜郭と同じ武田斐三郎の設計による。
明治2(1869)年5月15日、籠城の函館政府軍約240名全員が、この地で降伏した。
明治29(1896)年に解体され、今では碑が残るのみ。
▲(函館市弁天町20-3)
五稜郭に近い この付近でも戦闘があり、が神仏構わず撃った弾痕が拝殿の羽目板に残っているとのことだが、確認できなかった。
函館戦争降伏式之地/碑
函館政府との本拠地に使用され、降伏の会談が行われた。
明治2(1869)年5月17日、総裁/榎本武揚が降伏の誓書を奉納し、戊辰の役が終った。
諏訪常吉の勧告状がきっかけだったが、常吉は前日に死去した。
▲(函館市八幡町3-2 Tel. 0138-41-5467)
鷲ノ木に上陸した旧幕府軍は2隊に分かれて五稜郭へ向かう。
砂原・南茅部方面から五稜郭へ向かった土方歳三率いる5百人ほどの部隊は、進軍途中の川汲峠でと戦闘になり撃破し、川汲温泉に戻り休息を兼ねて宿営 (10月24日) している。
▲(函館市川汲町2019 川汲温泉ホテル駐車場の傍ら)
石川啄木小公園に隣接の「土方・啄木浪漫館」1階。
平成(2003)年3月に追加オープンして人気に。
土方歳三の資料や兼定の古刀・ゲベール銃などを展示。
館内オリジナル映像コーナーもある。
館内撮影禁止。
▲(函館市日乃出町25-4 Tel. 0138-56-2801)
旧幕軍 榎本武揚 土方歳三 之鷲ノ木上陸地
明治元(1868)年10月20日、仙台で結成された会津遊撃隊は、榎本艦隊 (開陽・回天・蟠龍・長鯨・神速・鳳凰・回春・大江の8艦/ 2千人以上) に同行し上陸。
家老/西郷頼母も同乗していたが、その後の行動は不明。
計画通り無血上陸は出来たが、あいにく暴風のため海は荒れて波は高く、30セントほどの積雪も加わり、海に転落したり、上陸用の小舟が転覆したり、舟に挟まったりして幕兵16名が事故死した。
▲(森町字鷲ノ木町)
霊鷲庵は、函館戦争が終わるまで、後方陣地の支援施設や負傷者や病人の病院として使用され、戦死者は手厚く墓域に葬られた。
慰霊碑が元の霊鷲庵の場所に建立された。
伝習士官隊指図役。
伝習隊として北関東から会津へと転戦し、蝦夷へ渡る。
明治元(1868)年10月24日、七重村峠下で負傷、11月9日に鷲ノ木で死去。 19歳。 榎本軍の蝦夷での最初の戦死者であった。
「本善院殿誓誉光月義泰居士」
明治元年 (一八六八) 十月二十日上陸
森町開基百十年記念 昭和四十三年十月二十日建
森町教育委員会
霊鷲院
霊鷲庵は、国道を挟んで南側へ移転。
現在は、霊鷲院として健在。
▲(森町字鷲ノ木町170 Tel. 01374-2-2308)
特急の停まる最寄りのJR森駅は、全国各地で開催される駅弁大会でトップもしくは それに次ぐ売り上げ常連の「いかめし」発祥の地である。
本堂脇の墓地にある。
昭和60(1985)年、大庭久輔の縁故者や有志により新しい墓碑が建立。
前面が2代目の墓で、古い墓も残されている。
「明治二年巳四月二十戊辰之役松前ニテ戦死
俗名 元會津藩士 大庭九輔 源貞忠
元水戸藩士 関清輔」
≪大庭久輔≫ [概略]
久助、貞忠、源貞忠、安積久輔、大場久輔とも。
元/会津藩士、大砲隊銃手。 元/回天隊。
守衛新選組/土方付属/陸軍奉行添役介。
明治2(1869)年4月20日、病気で戦えなくなり赤羽音吉の墓前で自刃。 24歳。
辞世の句「命をば さらに惜しむす よわむしの 心に懸かる 花の行く末」
「篤實院顕義日忠居士」
平成26(2014)年10月18日、遺品が白虎隊記念館に寄贈された。
≪関清輔≫
清助、清介、情助、情介とも。
元/水戸藩士とあるが元/会津藩士。 元/回天隊。
守衛新選組/土方付属/陸軍奉行添役介。
傷の療養中であったが、戦え無いとして大庭と共に自刃。
「顕勇院義進日栄居士」
本姓は藤原。音佶、良一とも。元/会津藩士、大庭久輔の義弟。
土方護衛の守衛新選組隊士。
慶應4(1868)年4月頃、大庭率いる回天隊に入り蝦夷へ渡る。
明治元(1868)年11月5日、松前城 (福山城) 攻略戦で一番乗りを果たしたが、土方歳三を護衛しつつ城内で戦死。
26歳。 「義進院勇岳白英居士」、現在の墓は2代目。
「慶應四戊辰年十一月五日 会津臣 赤羽音吉」
長らく歴史から忘れ去られていたが、昭和5(1979)年に埋葬場所が発見された。
本堂の真裏、墓地の奥にある。
かつては、名前が判明した戦死者の木標もあったとのことだが、今で目印の木標「合葬塚」があるだけ。 当時の東軍戦死者に対しての扱われ方が推察できる。
旧幕軍埋葬塚の辺りは高台になっており、松前城 (福山城) が見渡せる。
明治元(1868)年11月5日、この高台から土方歳三が率いる旧幕府軍が松前城を砲撃し、赤羽音吉たち別動隊が進攻し落城させて占拠した。
≪松前城から望む法華寺≫ | ||||
← ←(砲撃) ← |
会津藩士の弔魂碑で、本堂の正面にある。
箱館戦争での戦死者を弔る。
側面に20人の名が刻まれている。
明治14(1881)年8月23日、建立。
▲(室蘭市沢町10-7
Tel. 0143-22-4677)
明治12(1879)年、西南戦争で戦死した旧会津藩士を含む屯田兵の霊を祀る招魂碑を建立、札幌忠魂社と称する。
大正11(1922)年、札幌招魂社に改称。
昭和8(1933)年、現在地に移る。
昭和14(1939)年4月1日、札幌護國神社に改称。
本堂の右手奥に、札幌招魂社や屯田兵招魂の碑、山鼻神社碑などがある。
▲(札幌市中央区南十五条西5-1-1
Tel. 011-511-5421)
「故陸軍屯田兵大尉正七位勲六等三澤毅之墓」
墓誌にも記載あり。
遊撃隊/小室隊甲長として壮絶な戦いを繰り広げ、幹部でただ一人生き残る。
斗南藩へ移住後、青森県職などを歴任し、屯田兵に応募し琴似村に入植。
安孫子倫彦
藩士/安孫子倫彦の墓は見つけられなかった。
移転記念碑
名も無き数多くの人々こそ、真の功労者であろ。
▲(札幌市西区平和387番地外 Tel. 011-663-2172)
各期各号ごとに案内図が設置されており、分かり易い。
1期3号762番。 「釈義潤」
幼名は栄吉、栄治。 旧姓は長倉。
松前藩士/永倉勘次の次男。
松前藩を19歳で脱藩し新選組に入隊、二番隊組長。
松平容保公へ、近藤勇の非行五ヶ条を訴えてもいる。
明治6(1873)年、旧松前藩医/杉村松柏の婿養子になり義衛と改名。
後に、函館や東京などでの新選組戦死者の慰霊碑建立に尽力。
大正4(1915)年1月5日、小樽にて虫歯による敗血症で死去。
77歳。
分骨墓は、寿徳寺境外墓地、里塚霊園にある。
永倉新八の先祖墓「長倉家」は、東京/宝蔵院から岡山/松光院墓地へ改葬された。
「憲徳院義衛良行居士」
本墓は、小樽市営中央墓地にあった。
分骨墓は、寿徳寺境外墓地にある。
前野五郎 |
白虎隊士/住吉貞之進の遺徳を偲び、居住の地 (天上寺の裏山) に顕彰碑が建立されている。
当時14歳なので年少隊または護衛隊か。
10歳で日新館に入り、戊辰の役では籠城戦に参加。
明治31(1898)年、小樽量徳尋常小学校の校長に就任し、高等小学校長などを歴任 (小樽教育発祥之地)。
大正2(1913)年12月22日(伝)、在職中に病死、行年62歳。
明治・大正期の量徳三大異変の1つとして、
「大正二年十月二十日 住吉貞之進校長の死」
が選ばれており、大いに慕われていたことがうかがえる。
歌手のペギー葉山は、貞之進の孫 (母方の祖父)。
▲(小樽市入船町4-32辺り)
「旧 新撰組 副長助勤 永倉新八 菩提寺」
山門の左横にある。
墓は札幌・小樽・東京・岡山の4ヶ所あるが、菩提寺は晩年を過ごした小樽の この寺。
平成16(2004)年、石碑が建立・除幕。
会館の中にミニ資料館もある。
▲(小樽市入船1-7-1
Tel. 0134-34-2244)
会津遊撃隊として奮戦した大竹作右衛門元一夫妻・松田精介や、国会議員/小樽区の高野源之助などの墓がある。
1人でも多くの墓参者を受け入れられるように管理するのが業務と思うが・・・・
運営管理に嫌気をさしたのか、新選組/永倉新八の墓碑は移設 (撤去?) された模様。 小樽市役所の駐車場入口にあった「楽隠居の地」碑も、すでに撤去されていた。
▲(小樽市緑5-61)
嘉永5(1852)年、明治元(1868)年10月24日 (17歳)
本名:小笠原胖之助。 別称:裕。
唐津藩主/小笠原長泰の4男 (次男とも)。
江戸幕府老中/小笠原長行の義弟。
慶応4(1868)年5月15日、上野戦争で彰義隊として戦い、その後に輪王寺宮を警護して江戸から脱出。
同年6月6日、鶴ヶ城下に入り御楽園に居住。
三好胖に改名し母成峠防衛の任に就くが破られ、仙台にて新撰組 (指図役) に入隊、義兄/長行とともに蝦夷へ渡航。
七重村 (現/七飯町) での峠下の戦いで、従者/小久保清吉(22歳)とともに戦死。
「三好院殿儀山良忠大居士、徳忠院殿専誉巧義正道大居士 (霊鷲院)」。
寶林庵 (現/宝琳寺) に埋葬されたが、今は過去帳に記載のみ。
墓碑は、により撤去せざるを得なかったとのこと。
後に、函館/碧血碑に改葬されたとも。
上陸地である鷲ノ木/霊鷲庵跡に戦没者之碑、唐津/近松寺にも墓がある。
寿徳寺境外墓地にも記載されている。
▲(七飯町字桜町529 Tel. 0138-65-2077)
天保11(1840)年9月23日〜大正15(1926)年10月28日
目付、与力支配兼小原内記組。
直心影流免許皆伝。
戊辰の役では、朱雀士中四番隊/一番小隊五番嚮導として奮戦。
明治3(1890)年、斗南藩に移住。
明治14(1881)年、北海道に移住。
歌棄/七重村で剣道場を開き、多くの門弟を育てた。
墓は見つけられなかった。
孫の渡部全一は食糧雑貨屋・兼/饅頭屋を営みつつ、昭和34(1959)年から永い間、七重町議会議員を務め地元の隆盛に尽力した。
▲(七飯町字桜町)