(ジョン・) ヘンリー ・スネル |
John Henry Schnell、1841年2月13日 (1843とも)〜1871年 父:ヨハン、母:アンナ。 父がジャワで兵役に就きオランダ国籍 (プロイセン出身) となる。 日本名:平松武兵衛。 エドワルド・スネルは弟。 万延元(1860)年、通商条約を締結したプロイセンの領事/書記官として赴任。 万延3(1863)年からとも。 慶応3(1867)年、弟/エドワルドが新潟で武器輸入の商社を設立し、家老/梶原平馬へライフル銃や弾薬を納入した縁で、書記官を辞めて会津藩の軍事顧問に就任、翌年の正月から会津に居住。 松平容保より日本名/平松武兵衛が与えられ、屋敷も提供された。 軍歴があったようで、江戸/芝〜三田付近で暴漢に襲われた時に拳銃で追い払っている。 開城が決まるや、ゴールドラッシュに沸く米国/カリフォルニアで開拓することを提案。 明治2(1869)年、日本人妻/ジョウや藩士・家族37名を引き連れゴールド・ヒルに移住し、「若松コロニー (Wakamatsu Tea and Silk Colony)」と名付け開拓を開始した。 この中に、子守りとして雇った“おけい”も加わっていた。 日本から茶や桑などが育たず、1年ほどで経営は破綻した。 1871年4月、必ず戻るとの言葉を残して金策のため日本へ向かったとされるが、二度と戻っては来なかった。 そして、希望の「若松コロニー」は、消滅した。 明治4(1871)年、アメリカ移民の日本女性第1号の“おけい”も、19歳の若き生涯を異国の地で閉じた。 |
《殉難者》 | 平兵衛 |
ペギー葉山 |
ペギーはやま、 昭和8(1933)年12月9日〜平成29(2017)年4月12日 (83歳) 実際の誕生日は、11月9日。 本名:森 シゲ子 (繁子とも)。 旧姓:小鷹狩 (こたかり)。 東京市四谷区 (東京都新宿区) にて誕生。 藩士(年少隊)/住吉貞之進の孫。 青山学院中学部 (青山学院中等部) に入学し、在学中に内田るり子に師事して声楽を習ぶ。 昭和27(1952)年11月、「ドミノ/火の接吻」でキングレコードからレコードデビュー。 昭和29(1954)年12月、「第5回NHK紅白歌合戦」に初出場。 《以降の活躍ぶりは ご周知の通り》 〜 〜 〜 晩年も衰えを見せず、音楽活動や講演などで活躍し続けていた。 平成29(2017)年3月29日の「越後吹雪氏追悼公演」では、昼夜二部ともに元気な歌声で満場を沸かす。 同年4月9日、4月末のコンサートへのリハーサルでも元気だった。 3日後の4月10日、早朝に喉の痛みを訴えて受診すると肺炎と診断されに入院、翌々日に急死。 関係者の誰でもが唖然とし、俄かに信じられなかったという。 墓は、弘経寺。 私の母方の祖父は会津藩の白虎隊の一員、「ならぬ事はならぬ」の日新童子訓の中に育ちました。現在、日曜日の夜に放送されている大河ドラマ「八重の桜」のあの世界で成長したのです。 あの戊辰戦争の最後の戦いに出陣の際、祖父はまだ14歳。16歳以上は白虎隊に入隊できたことで、祖父は涙を流しながら、鶴ヶ城の落城を見守ったそうです。私の幼い頃、母が良く話してくれました。ご存知のように戦いに敗北した会津藩は見るも無残、聞くも無残な日々、敵とみなされ、みな散りじり会津を後にしなければならない過酷な日々が待っていました・ 祖父は一大決心、北海道は小樽に住を求めて、会津と同じ寒さの北国を選んだででした。 そのご、祖父は明治31年から大正2年まで小樽市内の「量徳小学校」の校長を務めました。 大変進歩的な教育論をもっていて、ルーマニアのリトミックダンスを体育に取り入れたり、また障害者に対しての教育にも深い思いを持った名校長と称されたそうです。残念ながら3年前に少子高齢化の今日、小学校は廃校になりましたが、今尚、祖父が考案し残した演舞「白虎隊」は祖父の命日に石碑の前で、皆さまが継いでくださっているとか。今回の小樽でのコンサートにお招きくださった方々の間にも良く祖父の威徳を覚えて下さっておられた方がおいでになった事はうれしいことでした。また祖父の威徳を偲び市内にある天上寺さんの裏山に祖父の碑が建立されており、今回何年ぶりか、拝ませていただきました。 (「ペギー葉山のブログです。」から) ペギー葉山が女学生の時代には、南会津に在住していた母と清林寺へ祖父/住吉貞之進の墓参りに来ていた。 その後も、会津若松市に来た際には、必ず墓参に訪れていたという。 |