伝           記

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日本初の女性移民“おけい”

 伊藤おけい、寛永6(1853)年〜明治4(1871)年 (19歳)

寛永6(1853)年

 大工 (住吉神社前の桶屋とも) /伊藤文吉とお菊の長女として材木町で誕生。  [戸籍]

 会津藩は戊辰の役に備え、オランダ国籍のプロシア (ドイツ) 人のジョン・ヘンリー・スネルを軍事顧問に招聘した。 弟/エドワルド・スネルは武器商人。
 藩主/松平容保より日本名の“平松武兵衛”が与えられ、近くに屋敷も提供された。
 後の奥羽越諸藩同盟越後方面軍の参謀、米沢藩の軍事顧問にも就く。
 日本人女性と結婚し子供が生まれたので、近くに住む“おけい”を子守りとして雇った。

 鶴ヶ城が開城して戦いが終わると、容保にゴールドラッシュに沸く米国/カリフォルニアで未来を開拓することを提案した。
 金鉱を探しながら、お茶を栽培し、桑の木を植栽して絹の産業を興そうとする案である。
 藩士と家族37名が、開拓団に加わった。
 その中に、子守役の“おけい”も加わっていた。
 アメリカ移民の日本女性第1号であった。

明治2(1869)年

 5月 1日  《2月とも》
 17歳の“おけい”たちを乗せた米国船「チャイナ号」が、横浜港から米国へと向かった。

 7月20日  《5月とも》
 サンフランシスコ港を経て、蒸気船に乗り換えてサクラメント川を遡り、荷馬車でカルフォルニア州エルドラド郡コロマ村の原野に到着する。  [史料]
 ゴールド・ヒルの農地を買い取り、「若松茶と絹の農場(Wakamatsu Tea and Silk Colony)」と名付けた日本人村を作った。 通称は「若松コロニー」と呼ばれていた。
 しかし、乾いた土地ではお茶や桑の木は育たず、1年ほどで崩壊してしまう。
 スネルは、資金調達をするとのことで“若松コロニー”を出たが、再び戻ることは無かった。
 藩士たちは、スネルの言葉を信じ、しばらく待っていたが、やがて1人2人と“若松コロニー“から出て行った。
 子守りの“おけい”と元藩士/桜井松之助の2人は残り、スネルの帰りを待ち続けた。
 まもなく資金が枯渇し、“若松コロニー“は解体されてしまう。

明治3(1870)年

 “若松コロニー”は、ビーア・カンプに購入されてしまう。
 行くあてもない2人は、カンプの使用人として働くことになった。
 利発な“おけい”は、カンプに家族同様に可愛がられ、安らぎの未来が開けるかに見えた。

明治4(1871)年

 “おけい”は急な高熱に冒され、19歳という若さで死去した。
 夢を描いた入植地“若松コロニー”の見える丘に、桜井松之助が葬ったという。

10数年後

 15年後とも。
 桜井松之助など移民の生き残りの人たちが貧しい生活の中、募金を持ち寄り、“おけい”の墓碑を建立した。
 松之助も日本に戻ることなく、現地で 67歳の生涯を終えている。

大正4(1915)年

 カリフォルニアに住んでいた記者/竹田文治郎 (雪城) が、ゴールドヒルの丘に日本人の少女の墓があることを知る。
 訪れる人もいない墓には、「 O K E I 」 と刻まれていた。
   「In Memory of OKEI Died 1871, Aged 19 years,(A Japanese Girl.)
    日本皇国明治四年○月○日没す おけいの墓 行年一九才

 農場主ビーア・カンプに聞くと、日本移民団の少女だと分かり、本格的な調査を始める。
 翌年7月12日、日系新聞「櫻府日報」に「おけいさんの墓に詣づるの記 (4回の連載)」を掲載するや、大きな反響が湧き上がり、世間 (米国) の知るところとなった。
 米国内では、中国人労働者に対しての排斥運動が激化し、やがて日本人移民に対しても飛び火し風当たりが悪化していく。
 家族の呼び寄せは禁じられ、結婚による日本からの呼び寄せも禁止、市民権のある二世の土地取得すら禁止され、遂に大正13(1924)年には日本からの移民は全面禁止される。
 そのような社会情勢の中で、約半世紀前にも日本からの移民がいたことを知り、苦悩の中にあった当時の移民たちに希望と勇気を与え、大勢の人が墓参りに訪れるようになった。


 新聞に掲載すると同時に竹田は、外務省にも連絡し回答を待ったが、なぜか何の反応もなく握りつぶされ、日本国内には伝わらなかった。
 その後の、
 ◇ 昭和4(1929)年、文藝春秋5月号「加州の山奥に眠る日本娘おけいの墓」
 ◇ 昭和7(1932)年、サンデー毎日一月五日号「ロスアンゼルス地方に おけいの遺跡をさぐる」
 ◇ 同年の日本国民五月号「若松コロニーとメリケンおけい」
の刊行を待つことになる。

太平洋戦争

 時代は下って、太平洋戦争中には日系人の多くが強制収容され、非人道的に扱われた。
 戦後しばらくして解放された日系人は、移民団の先駆者である“おけい”たちの苦難を改めて認識した。
 “おけい”の魂が故郷にも休める場所を設けようとの機運が高まり、生まれ故郷に墓碑を建てることが決まった。

昭和32(1957)年

「おけい」の墓(碑)

 生まれ故郷の東山の水沢山に米国/ゴールドヒルの丘と同じ墓碑が追善建立された。
 昭和61(1987)年、現在の背炙山/山頂の丘に移される。
 周りを四季折々の草花に囲まれ、故郷の城下町を眼下に眺めて、安らかに眠っている。
 いつしか、その場所は 「黄金丘」 と呼ばれるようになった。
 昔、ケーブルカーの頂上駅があった場所である。
 ネットで墓参は、こちら。

昭和41(1966)年
 入植地“若松コロニー”が「おけいの墓」を含み、カリフォルニア州の史蹟に指定される。
 現在は、公園として維持・管理されている。  [資料]

昭和44(1969)年
 米国/ゴールドヒルに「日本移民百周年記念碑」が建立された。

 “おけい”たちが植栽した欅の木は大きく育ち、今なお“おけい”を見守っている。

おけい像

平成15(2003)年9月

 太郎庵会津総本店の入り口に、 「おけい像」 が建立された。

 説明文の中に、下記が記載されている。
  「おかえりなさい。おけいさん。」 と声をかけて下さい。


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