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元々は天寧寺の湯であったが、保科正之公の入府で一般庶民に解放され、藩の湯治場としても整備され、奥座敷として栄え発達した歴史ある温泉街。 奥羽三楽郷 上山温泉、湯野浜温泉) の一つ。 「冬が最も似合う温泉地」ともいわれる。 [由来・伝説] については、こちら。 |
四大滝の他にも、さらに上流には、さまざまな無名の滝がたくさんある。
上流にダムが建設されたため、かつてほどの水量はなく、滝としての勢いは失っている。
▲(会津若松市東山町湯本) 鶴ヶ城から 4.4km 〜 〜
《雨降り滝》
高さ10メートル、幅16メートルで、最大の滝。
36段との大石に水が弾け、雨のように見えることから名付けられた。 上流にダムができる前は、名の通り見事だった。
架かる橋の名は、「たきみはし」。
道路の反対側の山際に、傘岩」がある。
柱のようにそびえ立ち、見事な形状をしている柱状節理。
《伏見ヶ滝》
上流にある雄滝と、下流にある雌滝からなる。
雄滝は落差5メートル、雌滝は落差6メートル。
この滝には、「藤身ヶ滝悲恋の伝説」がある。
《原滝》
かつては、藩士の子弟の水練場があったという場所。
今は、水量が少ない時は、確認も難しく、旅館名に残るのみ。
《向滝》
巨岩の周りを、左右に分かれ、数段になって流れている滝。
今は、水量が少ない時には認識も難しく、旅館名に残るのみ。
東山温泉観光協会案内所の真下にあるが、無愛想な女職員に撮影を断られた。
戊辰の役の戦火にさらされ、城下町は消失した。
7千坪の敷地に、様々な建物などが復元、移築されている。
メインは、400坪で35室の家老/西郷頼母の邸宅。
全国に数ある武家屋敷の中で、唯一、昔の香りが残っているといわれている。
旧中畑陣屋、茶室、藩米精米所なども復元されており、心の美術館/青龍なども軒を連ねる。
佐々木只三郎の墓も、和歌山市の紀三井寺から移された。
赤べこの絵付け、ガラス絵彫りなどの
体験教室
もある。
手軽にできる"弓道体験"が人気。
▲有料 (会津若松市東山町石山院内1 Tel. 0242-28-2525 〔HP〕) 鶴ヶ城から 2.2km
・8時30分〜17時 (12月〜3月は、9時〜16時30分)
・年中無休
・見学時間 50分
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会津若松市内にある標高863メートルの山。 会津盆地と猪苗代湖をへだてている。 頂上からの眺めは雄大で、会津の展望台とも呼ばれている。 会津平野や猪苗代湖のほか、 ・北西には飯豊連峰 ・南には大戸岳や小野岳 などが見渡せる。 |
温泉街から石山遊歩道入口があり、山頂までは1時間コース。
一帯には、10コース以上の遊歩道が整備されている。
関白平遊歩道、水沢遊歩道、水沢支線遊歩道も、比較的に良く整備されている。
第一岩杉山遊歩道、第二岩杉山遊歩道、第三岩杉山遊歩道、白虎遊歩道、滝沢山遊歩道、三の滝遊歩道などは登山道であろう。
加藤嘉明公が滝沢峠ルートを造るまでは白河街道のルートであった。 蘆名義広公が実家佐竹氏へ落ち延びたり、豊臣秀吉が会津入りに通ったルートである。
「背炙」の由来は、猪苗代の人が若松へ仕事に出かける時の状況から名付けられた。
出かける時には東から昇る朝日をあび、帰る時には沈む夕日を背中にあびる。
いつしか「背中炙山」と呼ばれていたものが、短く「背炙」になった。
《関白平》
[補足]
秀吉が奥羽仕置の策を練った場所といわれている。
一帯には、数千本のツツジがある。
開花の時期には、一面が絨毯のように彩られる。
昭和31(1956)年、東山温泉から背炙山の山頂近くを結ぶロープウェイが開設した際に名付けられた。
《「おけい」の墓(碑) 》 ネットで墓参
頂上から少し下の黄金丘にある。
日本の女性では、初めての移民である。
熱病のため19歳で死去。
昭和32(1957)年、カリフォルニア州ゴールドヒルにある墓と同じ形の墓碑が追善建立された。
元のロープウェイ発着場であったので、会津盆地が良く見えて、見晴らしい眺望の良い場所でもある。
“おけい”については、こちら。
東山温泉の入口にあり、院内の山中の森に包まれている広大な墓域。 「院内御廟」と呼ばれている。
明暦3(1657)年、初代藩主/正之公の長男/正頼が夭折した時に草創。 以降、会津松平家墓所として、正之公を除く歴代の藩主と家族が眠っている。
2代/正経公は仏葬であるが、それ以降の3代/正容公から10代/喜徳公まで、山頂に神葬されている。
亀石の碑石、位階の表石、霊をまつる鎮石の三体形の墓になっている。
明治26(1893)年に逝去した非運の容保は、この地への埋葬が許されず、汚名が晴れた大正6(1917)年に移葬された。
墓域の総面積は、東西三百間、南北百五十間、約4万5千坪という広大な広さ。
全国的にみても、大名御廟の中で類を見ないほどの規模を誇り、藩の力を感じる場所でもある。 国指定の史跡。 ふくしま緑の百景の1つ。
毎年5月4日には、歴代藩主の霊を慰める「院内ご廟お花まつり」が執り行われている。
※「院内」とは、羽黒山神社と東光寺の境内 (院内) であることから。
古くは「竹林坊」とも呼ばれていた。
▲(会津若松市東山町石山字院内/字墓山甲1731) 鶴ヶ城から 2.7km
・問合せ 会津若松市観光課 Tel. 0242-39-1251
・見学 自由
・所要 1時間〜1時間30分
・入場 無料
・駐車 入口に入らず東山温泉手前 100メートルほどにある (墓域前には無い)
閏4月8日の深夜、京都/三条河原に晒された首を奪い取って、この地に埋葬した。
会津を熱望し、向かう途中で露と消えたので、せめて魂を会津の地で永久の眠りに就かせたかったからであった。
傷の治療をしていた土方歳三は、毎日欠かさず墓参りをしていたという。
命日の4月25日には、墓前祭りが開かれる。
戒名「貫天院殿純忠誠義大居士」の書は、松平容保による。
戊辰の役の責を一身に背負った萱野権兵衛、その倅の郡長正、甲賀町口の守備で深手負い自刃した家老/田中土佐 (田中玄清) など殉難者の墓も多い。
作家/早乙女貢の墓も、平成22(2010)年、この地に改葬された。
▲(会津若松市東山町石山天寧208 Tel. 0242-26-3906) 鶴ヶ城から 2.1km
・天寧寺については、こちら。
武家の有職故実で知られる小笠原家の祖。
信濃国の戦国大名であったが、塩尻峠の戦いで武田信玄に大敗し、信濃から追われる。
その後、上杉謙信、足利義輝を頼ったが、織田信長が上洛すると流浪。
やがて、蘆名盛氏公から、客分として手厚く迎えられる。
天正10(1582)年、武田家が信長に滅ぼされ、旧領/信濃国への復帰が決まる。
その最中に死去した。 信濃国は3男の小笠原貞慶が継いだ。
天生11(1583)年、現/大龍寺の地に菩提所として慶山寺 (桂山寺とも) を創建。
戊辰の役でも、小笠原家ゆかりの寺であったため、西軍に焼かれずに残った。
戊辰の役で荒廃し、後に若松の牧師/若月氏が山本家の墓地であることを見出した。
昭和6(1931)年、先祖の墓を整えた際、八重直筆の墓標「山本家之墓所」を建立した。
「山本権八女 京都在 新島八重建之」
今でも同志社大学から盆暮れの届けがあるとのこと。
山本家は、会津藩/砲術師範の家柄だった。
新島八重は、夫/譲とともに現/同志社大学を設立。
山本覚馬は、設立のための土地を提供した。
覚馬と八重の墓は、京都/若王子墓地にある。
新島八重の略歴については、こちら。
戊辰の役で戦死した父/権八の墓は、戦死した近くの一ノ堰/光明寺境内にある。
八重自身も男装し、最新式銃を携えて参戦している。
▲(会津若松市慶山2-7-23 Tel. 0242-27-9376) 鶴ヶ城から 2.3km
・大龍寺については、こちら。
成仏できない幽霊を弔って、成仏させたと伝えられる墓がある。
墓碑には、「即心即仏」と刻まれている。
子供の頃、連れて行かれた時には、裏山の中腹にあったと記憶している。
現在は、参道脇にある無縁墓の最前列の中ほどにあった。
幽霊がお礼にと湧き出させたとされる「幽霊清水」がある。
戊辰の役で本堂など堂宇すべて焼失したが、山門だけ残った。 その際、本尊の阿弥陀如来像を「幽霊清水」に沈めて、戦火から難を逃れたという。
▲(会津若松市東山町大字石山字天寧196 Tel. 0242-28-0661) 鶴ヶ城から 1.9km
・正法寺については、こちら。
ネパール、インド、チベット地方の仏像や仏具、民芸品などが展示されている。
郷土料理の鶴井筒の2階〜3階にあり、仏都会津にふさわしいミニ博物館。
建物は、明治30年代に建てられた物。
ここで食事をすると、入場料が無料になる。
▲(会津若松市東山町石山院内109-1 Tel. 0242-26-5629) 鶴ヶ城から 2.4km
・11時〜17時
・休館 不定休、1月上旬〜3月上旬
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