会   津   で   遊   〜   ぼ   !

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東 山 温 泉 ぶ ら り 朝 散 歩

 朝食前の腹ごなしに、心地よい散歩をイメージ。
 記載の宿は目印に記載したもので、多く旅館がひしめいて温泉街を構成している
 案内は、温泉の入口から湯川に沿って旧道を進む反時計回りルートで、ご案内。
 各人の宿泊旅館の場所から、手持ちの時間に合わせて、ご参考に。

[由来・伝説] 東山温泉と行基菩薩

 天平年間(729〜749)、遊行僧/行基菩薩が全国巡錫で会津を訪れた折、東の山に異彩ある霧雲が棚引く霊感を得て、急ぎ草木を分け入り、岩を這い上り向かうと、黒川 (現/湯川) のほとりに辿り着くが、紫雲を見失ってしまう。
 さらに川に沿って遡ると、轟く音とともに瀧へと辿り着く。
 困っていると突然、光を放つ三本足の霊烏 (八咫烏) が出現し、誘うような仕草をする。
 そこで、木から木へと飛び移る烏の後を追うと、岩間から湯煙が噴出しており、異彩ある霧雲の正体を知る。
 紫雲の生じている霊地には、こんこんと源泉が湧き出ていた。
 けたたましく烏が鳴き騒ぐので仰ぎ見ると、妙見菩薩・聖観音菩薩・軍荼利明王の3尊が現れ、この地が霊場と悟る。
 羽黒山と称し、日の出に陽が当たる場所から東光寺の名で開山する。
 当初、野猿の群れが入浴していたことから「猿湯」と呼ばれた。
 文治5(1189)年、領主が蘆名氏になり、菩提寺の1つ天寧寺が創建されると、「天寧湯」と呼ばれるようになる。
 建武3(1336)年、さらに奥から近くの川が熱くなるほど豊富な湯量の温泉が湧き出てきた。
 創傷や火傷、打ち身などに効能があると評判になり、湯治湯として利用され始めた。
 天正年間(1584年)頃、天寧寺の寺領内であったことから、「天寧寺の湯 (天仁寺の湯)」と呼ばれるようになった。
 江戸時代には湯治場として大いに栄え、藩の別荘・保養所・座敷役場も整備され、温泉番付「諸国温泉功能鑑」に「東之方前頭/会津天仁寺の湯」と格付けされている。
<「行基菩薩の伝説地を巡る」と併記>      .

 鶴ヶ城の城下町から東の方角にあることから「東山」と呼ばれ、西の方角にある柳津には西山温泉がある。 北には近くに山がないため「北方 (きたかた、明治に入り喜多方と改称)」、南の山間部を「南山」と呼んでおり、日光へ至る街道 (会津西街道) は「南山通り」と呼ばれていた。
 なお、明治政府が施行した大罪/廃仏毀釈という仏教弾圧により、明治11(1878)年に東光寺は羽黒山神社となり廃寺され、木造金剛力士像2躯などは阿賀町上川の日光寺 (旧/会津藩領) に移された。


東山温泉の入口

東山温泉の入口

東山温泉入口の説明文
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庄助の宿 瀧の湯

庄助の宿 瀧の湯    .


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伏見ケ滝

 東山四大滝の1つ。
 悲しい伝説がある。

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 6〜7台ほどの一般客用駐車場の先に、二股道 (三叉路?標識) がある。
 「黒川の小径」から橋を渡り、旅館/向瀧の脇を進む。
黒川の小径 からり妓の小径 神秘の小径

<昭和の風情>

<射的>



向瀧(旅館) 向瀧(旅館)の登録碑

向 滝 (旅館)    .


向滝の裏

向 滝

 進入禁止の行き止りまで進んでも滝は見えないが、音は鑑賞できた。

水神

水 神       .

山側に、ひっそりと、 .
水神が佇んでいる。  .

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猿の湯

猿の湯

土方歳三
猿の湯の由来
猿の湯

 「不動滝 (現/新滝別館)」は、東山温泉の中で最も古い3つの源泉「猿の湯、こがの湯、不動湯」を所有しているとのこと。
 そのうちの1つ「猿の湯」が、土方歳三の湯治湯である。
 現在は入浴できず、保存・公開だけされていた。

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 石段を上り、「からり妓の小径」への途中に、足湯がある。

足湯

足 湯

東山温泉の伝説 「からり妓さん」 竹久夢二 土方歳三 小原庄助さん
足湯処の由来 足湯 足湯


  利用時間 7時〜21時

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残念坂 羽黒山湯上神社の石柱 残念坂の説明文

 足湯から直進した坂が、
「残念坂」である。

 羽黒山湯上神社の石柱がある。 .
 神社への入り口でもある。   .
 浴衣と下駄では、無理・・・。 .

湯泉神社

湯泉神社

湯泉神社の説明文

 すぐの所に、湯泉神社がある。
 こちらは、二日酔いでも、参拝できる。
 古絵図には、「湯泉社」と表記。   [古Photo]

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松本家 湯の花羊かん

松本家

 朝7時30分から開店。
 お勧めは「湯の花羊かん」。

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竹久夢二の碑

竹久夢二の碑
  「宵待草」

竹久夢二の碑の説明文
  「まてどくらせど 来ぬひとを 宵待ち草のやるせなさ こよいは月も 出ぬそうな
 くつろぎ宿 新滝の入口にある洗心橋の手前角に、建立されている。
 昭和41(1966)年9月、代表作の1つ「宵待草」発想の地/大川端に建立
 昭和52(1977)年9月、夢二が好きだった雨降り滝の橋の手前に移設。
 昭和56(1981)年、背炙山ロープウェイの東山ケーブル駅前に移された。
 昭和60(1985)年、背炙山頂上までの車道が開通に伴い、ロープウェイの利用客が激減し廃業となってしまい、現在の地/旅館の新瀧に移された。
<「竹久夢二の名残を巡る」と併記>  .
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   「竹久夢二の碑」の脇の橋を渡った「くつろぎ宿 新滝」の敷地側に、
  「与謝野晶子の碑」がある。

与謝野晶子の碑

与謝野晶子の碑

与謝野晶子の碑の説明文 与謝野晶子の碑の説明文

 「くつろぎの宿 新滝」の館内ロビー脇の1区画に「竹久夢二ギャラリー」がある。
 3度の来訪とも「新滝旅館」に滞在した。
 無料開放されているが、フロントで許可を得て見学し、終ったら御礼の一言は礼儀であろう。

竹久夢二ギャラリー

竹久夢二記念ギャラリー 〜夢浪漫〜


くつろぎの宿 新滝

くつろぎの宿 新滝    .


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夜泣き地蔵尊

夜泣き地蔵尊

 道路沿いの山側に、小さな祠が、ひっそりと佇む。
 会津二十一地蔵尊の第九番

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尼渕 尼渕

尼渕 (千穂姫)

 悲哀伝説がある。

尼渕の説明文

手塚治虫の案内図 手塚治虫の思い出図

 手塚治虫も、東山温泉を こよなく愛していた。   [資料]


 
 昭和34(1959)年、週刊・月刊合わせて8本の連載の他に、多くの読み切りも抱えていて超多忙の中、虫プロのアシスタントとしていた5人の「会津漫画研究会」出身者の案内で会津に来訪し、約1週間も滞在した。
  (※ 当時の手塚治虫の仕事場は、会津弁が飛び交っていたという。)
 旅館「原瀧」の別館すみれ館に宿泊し、田楽のお秀茶屋、鶴ヶ城、滝沢本陣や飯盛山、神明通り、向羽黒山城、裏磐梯などを巡っている。
 名所めぐりだけでなく、手塚が自から提案して座談会や子供向けの漫画教室などを開催し、多くの写真や色紙も残している。
 締め切りの迫る作品作りは、夜を徹して描いていたという。
 残念ながら、お気に入りの「別館すみれ館」は現存していないが、「いろりの宿 芦名」に宿泊した当時をイメージした部屋が造られているとのこと。
 同年4〜9月、「週刊少年サンデー/小学館」に連載された「スリル博士」の第4話「博士のノイローゼ」は、会津を来訪した主人公/ヒゲオヤジ (スリル博士) が東山温泉を舞台として描かれている。
 手塚作品の多くは、未來や宇宙、外国なのだが、現実の会津の地を舞台として描いており、いかに会津を こよなく愛していたがが分かる。
 また、向羽黒山城の伝説を聞き感銘し、同年の5ヶ月後の「中学一年コース9月号/学研」で「夜明け城」の連載を始めた。
 その他、「スーパー太平記」や「新撰組」、「奇子」など10数種類の作品に会津関連の記述がある。

 第2回目の来訪は、昭和47(1972)年9月、やなせたかし、馬場のぼる、小島功たち漫画家一行24人を引き連れて来た。 「白虎祭り (現/会津祭り)」にあわせて、親睦旅行を兼ねての大旅行であった。
 盆踊りに参加したり、サイン会も開いている。
 興徳寺では、子どもたちに向けてマンガ教室が開催され、いつもは静寂な境内が人々で埋め尽くされたという。

 第3回目の来訪は、昭和50(1975)年8月15〜17日、親戚も加わった10人ほどの家族旅行であった。 しかし仕事が終わらず、14日に家族が先に出立し、本人は翌日にタクシーで駆け付けた。 この時の様子を、半自伝的マンガ「マコとルミとチイ (雑誌/主婦の友)」に描いている。   [作品]
 飯盛山など市内の他にも、猪苗代湖、野口英世記念館、五色沼など遠出しているが、この時もマンガ教室を開いている。

 手塚治虫は仕事で全国を飛び回っていたが、プライベートで3度も訪れた地域は数少なく、いかに会津を好いていたことへの証であろう。

 平成28(2016)年、手塚治虫の漫画家デビュー70周年を記念して、
  ◇ 4月1日〜翌年3月31日、「会津若松〜新宿」間を結ぶ定期バスに、
    作品をラッピングした「記念号」が運行された。
  ◇ 7月1日〜8月31日、「会津 手塚治虫キャラクタースタンプラリー」として
    絵柄の違う手塚キャラのスタンプ合計53種類が配置された。
     ・会津全域に39ヶ所のチェックポイント
     ・会津各地で開催される14ヶ所のイベント会場

 七日町に「漫画館 会津冒険堂」があったが、残念ながら閉館。
  《追記》 館主の自宅で、予約制の「会津美里冒険堂」として開館。

<以下、「先生が歩いた思い出の会津」と併記>    .
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原瀧

原 瀧

 東山四大滝の1つ。
 「まとい橋」を渡った向かい側から見る。
 早春か、初冬でないと、枝葉でよく見えない。

原瀧(旅館)

原 瀧 (旅館)    .


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今昔亭の足湯

今昔亭の足湯

今昔亭の足湯の説明文

 利用は、10時頃から。

常設の川床

常設の川床  .


今昔亭

今昔亭    .


新道の方向へ左折しないで、そのまま直進する。
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虚空蔵尊 虚空蔵尊

虚空蔵尊

虚空蔵尊の説明文
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馬頭観音 馬頭観音

馬頭観音

馬頭観音の説明文
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雨降り滝

雨降り滝

雨降り滝の説明文 雨降り滝の説明文

 雨降り滝と道路の反対側に、奇岩の「傘岩」がある。


傘岩

傘岩 (からかさいわ)

 正面から見ると、あたかも唐傘を畳んだように見える。
 マグマが冷却固結する際に生じる柱状になった節理。
 柱状岩の岩肌が何層にも重なり、見事な形状をしている。


東山グランドホテル

東山グランドホテル    .


いま来た道を戻り、途中で新道の方向へ右折する。
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ロープウェイ

ロープウェイ跡

 北海道と東北、北陸で3ヶ所 (普通索道・交走式では唯一) しかなかったため、「空飛ぶ観光バス」と大人気になり、当初は 7時30分から20時まで運行していた。
 漫画家の手塚治虫も、この背炙山ロープウェイを舞台に「スリル博士」の主人公「ケン太」が活躍する作品を残している。
 昭和31(1956)年8月10日、背炙山ロープウェイが開業。
   ◇ 「東山温泉〜黄金丘」間、総延長1,040m、高低差375m、所要時間 5分
   ◇ 31人乗りゴンドラ2機 「あさぎり」 「ゆうぎり」
 昭和37(1962)年9月22日、第二ロープウェイが新設。
   ◇ 「黄金丘〜関白平」間、総延長700m、高低差60m
   ◇ 15人乗りのゴンドラ2機 「青い鳥」 「赤い鳥」
 温泉街入口近くから頂上/関白平を経由して、国道294号に接続するまでの車道 (県道374号) が整備されると利用客が激減。
 昭和60(1985)年4月1日、老朽化や赤字を理由に廃止された (休止は前年4月)。
 [閑話]         [資料]

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トンネル(東山隧道)

トンネル (東山隧道)    .


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くつろぎ宿千代滝

くつろぎ宿千代滝    .


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羽黒山湯上神社

 1,225段もの石段があり、元気な人にはお勧め。
 朝食が美味しくなるのは、間違いなし。

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御宿東鳳

御宿東鳳    .

 背炙山に至る林道に
入った所にある。  .


東山温泉の入口

東山温泉の入口に戻る


 くつろぎの宿 新滝で「竹久夢二記念ギャラリー」をフロント尋ねると、宿泊客でもないのに、
   「どうぞ、ごゆっくりご覧ください
と快い返事を受けた。
 今昔亭で、塀の中に見える足湯を尋ねれば、
   「どうぞご利用ください。前にある砂利の駐車場もご利用なさって結構です
と、懐の大きい言葉が返ってきた。
 ここには、古き良き “会津” が残っていた。

近 く の 見 ど こ ろ

庖丁塚

庖丁塚

庖丁塚の説明文  東山温泉の入口手前にある広い公共駐車場 (無料) の中。
 正面の下に、庖丁を納める口が設けてある。

近藤勇の墓

近藤勇の墓

 温泉入口から天寧寺本堂までは、1,200メートルほど。
 さらに近藤勇の墓まで300余メートルほどの山道を登る。
 朝食前の散歩には、健脚向き。

会津藩主松平廟所

会津藩主松平廟所

 温泉入口から廟所正門までは、340メートルほどだが、
廟所内は広大で、朝食前の散歩には、ちょつとキツイ。


会津武家屋敷

会津武家屋敷

 温泉入口から460メートルほど。
 開館は8時30分からだが、シーズンには第2・第4日曜日の朝6時から8時まで朝市が開かれる。


ネパール博物館

ネパール博物館

 温泉入口から300メートルほど。
 会津料理・鶴井筒にあるが、開店は10時から。


ロンドンタクシー

ロンドンタクシー

ロンドンタクシー ロンドンタクシー
 旅館名の入った「ロンドンタクシー」を見かけたら、今日はラッキー日!

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