会 津 で 遊 〜 ぼ !
[戻る]
[TOP]
[行く]
[遊ぶ]
[知る]
[メニュー]
与 謝 野 晶 子 の 名 残 を 巡 る
|
♪ |
さあ 所縁の東山温泉に宿泊し
こよなく愛した会津での名残を 訪ねよう。
|
♪ |
↓
「湯の川の 第一橋を わがこゆる 秋の夕の ひがし山かな」
橋を渡った「くつろぎの宿 新滝」敷地内に「与謝野晶子の碑」がある。
昭和57(1982)年、晶子の6女/富士子が列席し、除幕。
▲(会津若松市東山町湯本字川向)
向瀧
「
川下の 狐の湯より からかさの .
岩にいたれば 出づる明星」.
「
東山 伏見の瀧の 上にある .
狐の湯にも 聞ける夜の雨」.
▲( 〜 東山町大字湯本字川向200) .
↓ 6,6 Km
茶会に出席するなど、2日間滞在している。
「赤松の 華に勝るを 元禄の 浄庭になほ 聞くここちする」
歴史ある名庭園/会津三庭の1つで、当時は森蘭丸の子孫とされる森家が所有していた。
▲非公開 (会津若松市柳原町2-2)
↓ 2,1 Km
県立会津高等女学校 (葵高等学校)
昭和11(1936)年9月8日、10時から講演。
▲(会津若松市西栄町4-61)
・外観を見るだけ。
↓ 0,9 Km
「いにしえの 蒲生が月見 櫓吹く
会津の嶺の 秋の山風」
「秋風が 今は行くのみ 鶴が城
北の出丸も 帶の廓も」
▲(会津若松市追手町1-1)
↓ 1,4 Km
会津へ2度目の昭和11(1936)年に読まれた歌。
「秋風に 荷葉うらがれ 香を放つ
おん薬園の 池をめぐれば」
荷葉(かよう)とは、蓮(ハス)のこと。
碑は、昭和37(1962)年11月3日、一般公開10周年を記念して建立された。
▲(会津若松市花春町8-1)
↓ 2,6 Km
「われもきて 飯盛山に 悲しみぬ 戊辰八月 二十三日」
「白虎隊 そのいやはてに 望みたり あわれと城の 崩されにけん」
「白虎隊 屠腹の山の 悲しみは ロオマ(の塔も なぐさめぬかな」
▲(会津若松市一箕町大字八幡字弁天下)
↓ 13.1 Km
立ち寄っているので、名物「天ぷら3点 (身欠きニシン、スルメ、まんじゅう)」を味わったかも。
「杯に 京街道の 強清水 盛りて少女の 授けたるかな」
「強清水 屋をかけたるに 我が入りて いこへる時も 秋風ぞ吹く」
▲(会津若松市河東町八田字下ノ家)
↓ 〜 3,5 Km
戊辰の役では重要な要衝地であったが、あまりにも橋が堅固すぎて破壊が間に合わず、西軍の侵入を許してしまう。
「湖が 一転したる 大河の ゆくへを望む 秋かぜの中」
▲(会津若松市湊町赤井戸ノ口
〜 猪苗代町翁沢大字船場)
↓ 3,9 Km
宿泊した旅館「鳥万」は、現存していない。 [鳥万]
[長浜]
「長浜を 巻ける林に 軽く乗る
磐梯山とうす紅の空」
「岩代の 月が光の 霧を置く
猪苗代湖の 秋の夜半かな」
「湖が 清き光の 遊ぶべき
波を設けて 待ちし月かな」
▲(猪苗代町翁沢長浜)
↓ 22,0 Km 〜 25.1 Km
噴火で出現した無数の湖沼が、それぞれ煌めくような青を見せる風景に、森の多様な色を重ね合わせ、歌人の心を引きつけた。
「動かざること 青玉に 変わらねど 落ちて走れる 音ある湖水」
「湖沼ども 柳葉翡翠( 竜胆(の いろ鴨跖(くさの 青をひろぐる」
「五色沼 いくつの色を しか呼べど 数を知れるも あらぬ沼かな」
「秋の水 次ぎの湖沼へ 移るとて 薄の原に 鳴れるおく山」
「なにがしの 蝶の羽がもつ 青の外( ある色ならぬ 山の湖」
磐梯山噴火から、半世紀が過ぎようとしていた。
遠藤十次郎の尽力により、ほぼ植林も再生した頃であったが、美しい風景だけでなく、大噴火により変貌した荒れ地をススキの群落だけが覆う禍々しい姿、山の恐ろしさをも詠んでいる。
「人間の 初めて通ふ 路のごと すすきの鳴れば 山もをぞまし」
「醜くて 痣(と見ゆる 沼のあり 他の百の沼 勝れたるため」
「 うしろにし 湖水を前に せざるもの あらざる草の 早くうら枯る」
「秋風を 危ぶむやうに 磐梯が 雲にためらひ われ渚行く」
▲(北塩原村桧原)
↓ 18,4 Km
磐越自動車道/猪苗代磐梯高原IC
《こよなく会津を愛した晶子とは 不思議なご縁がある》
会津藩士の子/大竹保順は、父が僧の与謝野鉄幹と出身校も同じだったことから、会津をこよなく愛した妻/晶子ともども、頻繁に手紙のやり取りをするなど親交を深めていた。
大正14(1925)年、保順宅に宿泊 (青森県五戸町/旧斗南藩) し、滞在中に歌を残している。
保順の次女/“てい”が、小石川高等女学校 (日本文華学園) へ入学する際の保証人が晶子で、在学中は晶子宅に下宿している。
三国街道の永井宿近くの御阪三神社にある 「三国峠を越えた人々」 の碑には、戦死した「町野久吉」と共に、「与謝野晶子」の名が刻まれている。
明治44(1911)年と昭和11(1936)年、会津へ2度 訪れている。
《1度目》
明治44(1911)年8月、夫/鉄幹や水上滝太郎・江南文三・万造寺斉・佐藤春夫らと東山温泉の新瀧楼 (新瀧) に宿泊。
《2度目》 <※ 当時の地元新聞/夕刊會津日報に滞在中の詳細が記載されている [記事]>
昭和11(1936)年9月4日、
森蘭丸の弟の子孫とされる森寛介の招きで、6女/藤子と文化学院の円城寺貞子を伴って来訪。
※ |
大正8(1921)年、夫/鉄幹・建築家/西村伊作・画家/石井拍亭らと日本初となる男女共学の学校/文化学院を設立した。
文化学院の学監をしていた時、森寛介の子/森芳介と愛子が学んでいた。
晶子は、とても芳介を気に入ってしまっており、夫と初めて会津を訪れた時の感銘も加わり、夫/鉄幹の一周忌が終えるのを待って、娘/藤子のお見合いが目的であった。
昭和15(1940)年、森芳介と娘/藤子は結婚する。 |
同日、森芳介が翁島駅で出迎え、車で案内をして廻り、旅館/鳥万 (猪苗代湖/長浜) に宿泊。
「我が車 焼石を踏み 芒(
ども 左右の窓に 触れて声立つ」
翌5日、裏磐梯を散策し、感動した五色沼などで9首歌を詠んでいる。
その日は、裏磐梯高原の弥六沼湖畔にあった別荘 (後の裏磐梯高原ホテル) に宿泊。
翌6日、猪苗代湖などを散策し、十六橋・戸の口、強清水を経て、東山温泉/向瀧に2泊。
翌7日、鶴ヶ城や飯盛山、御薬園などを訪ねる。
翌8日、午前10時から県立会津高等女学校 (葵高等学校) にて講演会。
夕方7時から攬勝亭の“お茶会/座談会”に出席し、2日滞在 (泊は森寛介/本宅)。
10日、若松駅から列車で帰京。 [写真]
※ |
◇ 昭和17(1942)年、来訪時に晶子の詠んだ主な歌が遺稿歌集「白桜集」
に「会津詠草」として記載。
◇ 歌誌「冬柏」にも、旅の行動などが記されている。 [冬柏] |
堺市の生家や、晩年を過ごした住居(東京) のいずれも、残念ながら現存していない。
昭和2(1927)年、関東大震災後に麹町区富士見町から郊外へ移ることを決める。
遙青書屋・采采花荘と名付けた2棟を自ら設計し転居し、歌会を開いたり、「日本古典全集」の編纂や歌誌「冬柏」の編集など永住の居とした。
「井荻村 一人歩みて 蓬生に 断たるる路の 夕月夜かな」
昭和17(1942)年5月29日、脳溢血で療養中、狭心症と尿毒症を併発し、自宅で生涯を終えた。
晶子の書斎「冬柏亭」は、晶子の死後に門下生/岩野喜久代の大磯/別荘に移されたが、昭和51(1976)年4月に京都の鞍馬山へ移築され現存している。
昭和57(1982)年、居住跡が南荻窪中央公園として開園。
平成24(2012)年4月、再整備され「与謝野公園」に名称変更。
近くの「おしかわ公園」にも「与謝野晶子 鉄幹 ゆかりの地 散策の路」の案内板がある。
[戻る]
[TOP]
[行く]
[遊ぶ]
[知る]
[メニュー]