周囲 540メートル、面積は 5,100坪ほどの本格的な回遊式庭園。
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自然風の庭園で、中心に「心」の字に似た屈曲した池があり、その中に島を配置してある。
周囲を石敷路で囲み、東には男滝・女滝、北には赤松、東から南にかけて樅・柊・松の古木がそびえている。
園内に築かれた山は低く、遠くに望める自然の山々と調和する借景園。
昭和7(1932)年、国名勝に指定され、昭和28(1953)年から一般公開された。
曽祖母の時代には、マツタケも採れていたと伝え聞く。
むかし、この辺は大田谷地と呼ばれており、病弱な喜助が住んでいた。
白髪の老人/朝日保方は、10数羽の鶴が舞い降りるのを見て泉を発見、 その水で介抱したところ喜助は全快した。 病が治るのを見届けると、朝日老人は あの世に旅立った。 喜助は、霊泉を「鶴ヶ清水」と名付け、傍らに「朝日神社」として祀った。 |
正門を入ると、すぐにある。
時おり、着物姿のご婦人たちを見受ける。
茶会が催される日である。
庭園への入口。
左手、受付けの真向かいにある。
俳句の「初鴨」の復刊20年の記念として句碑を建立する際、本人の強い要望で会津のこの地に、昭和48(1973)年に建てられた。
江戸の町火消しだった祖父/岩崎鎌蔵が、容保を慕って会津に移り、戊辰の役では籠城戦に加わっていたからである。
磐梯は 遙けく青し 凌霄花
節子姫が秩父宮とご成婚され、会津藩の謂れ無き汚名を晴らし、昭和3(1928)年に来若された。
その時に、節子姫ご一家が宿泊された東山温泉の「新滝旅館別館」。
もとは3階だったが、2階として昭和48(1973)年に移築された。
9月9日 (五節句の一つ/重陽) が誕生日のことから、秩父宮妃殿下/節子姫が命名された。
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平成17(2005)年、「想ひ出の部屋」が開設。
寛文10(1670)年、領民の病の治療や予防のために薬草園を設置し、様々な薬草の栽培を始めた。
朝鮮人参の試植を始め、民間にも奨励したため、「御薬園」と呼ばれるようになった。
現在、約400種類の薬草・薬木が植栽されている。
寛政2(1790)年、初めての籍田の儀式が行われた。
以降、毎年3月上旬の土用入りに執り行われていた。
農耕の奨励を、藩主みずから率先していた良い例である。
奥に“籍田の礼”を行う稲荷社があり、御薬園の守護神として祀られている祭神/倉稲魂命は、稲の神で五穀豊穣をつかさどる。
2千年の眠りから覚めた縄文の蓮「オオガハス」も植栽されている。
昭和26(1951)年、千葉市検見町の遺跡発掘で発見され、発見者/大賀氏の名が付けられた。
御薬園に貸与され、現在、培養されている。
五葉松は山地に自生するマツ科の常緑高木。
庭園木や盆栽にも利用されている。
ハイビャクシンはヒノキ科のイブキの変種で、日本原産の低木。
自然の地形を、そのまま活用して造営された。
「心」の字を意識して造られたのではない。
江戸の終わり頃に、「心」の字形に似ていると評判となる。
その後から、呼ばれるようになった。
禅宗の影響を受けて造成された心字池は、鎌倉・室町時代に見られ、東京の日比谷公園や旧古河庭園、清水谷公園など国内に10園ほど存在する。
当初、照明としての「石灯籠」は、茶道に傾注していく過程で、庭園を演出する風景の1つとして配置されるようになった。
男滝の中央に「水分石」、右側の岸に大永5(1525)年4月13日と刻まれた石灯籠がある。
年代から、第15代領主/蘆名盛舜公が配したと推察されている。
会津へ2度目の昭和11(1936)年に読まれた歌。
「秋風に 荷葉うらがれ 香を放つ
おん薬園の 池をめぐれば」
荷葉(かよう)とは、蓮(ハス)のこと。
碑は、昭和37(1962)年11月3日、一般公開10周年を記念して建立された。
小さな祠であるが、親しみを感じる雰囲気を持つ。
「鶴ヶ清水」は、今でもコンコンと湧き出ている。
なだらかで広い石組を、ゆっくり流れている。
流れ出る手前に、三層石塔がある。
狭い石組を、一気に流れ落ちている。
最後の石は「水分石」と呼ばれ、早い流れを演出している。
亀島と呼ばれている池の中島に建てられている数寄屋風の茅葺平屋の建物。
第3代藩主/正容公が命名した。
「論語」の「知者は楽しみ 仁者は寿し」から。
8畳間1つで、榧床
納涼や休養の場であったが、重臣たちとの茶会や密議にも使われていたという。
池での舟遊びのための船着場跡が2か所にある。
新緑の頃、紅葉の季節、雪景色などは、特に素晴らしい。
刀傷は、西軍が気晴らしに斬り付けたものである。
この近くで、いつも何故か、つがいを見かける。
池と反対側に、小ぢんまりした「枯沢」が造られている。
樹齢400年以上の樅の木、柊、伽羅木が、御茶屋御殿の脇に植栽されている。
樅の木は、日本特産のマツ科の常緑針葉樹。
樹齢450年以上で、日が沈む時にあかね色に染まった空と黒い影絵のように映えることから「夕陽木(ゆうひぎ)」と呼ばれている。
高野槙は外国でも化石として発見はされているものの、現在では日本だけに生き残っている樹木。
会津が北限でもある。
伽羅木は耐雪性に強く、会津では「ツガ」と呼ぶ。
元禄9(1696)年に建築された。
雪国のため木造の痛みが速く、改造・補修が繰り返されている。
藩は質素を旨としていたため、静かなたたずまいの趣がある。
「8畳の上ノ間、10畳の次ノ間、北に付き出ている12畳の扣
藩主以外にも、藩士や商人などを褒賞する際に使われた。
戊辰の役の時は、西軍の負傷者を手当てする場所として使われ、ここで戦闘は行われなかったため、奇跡的に現存。
数か所の刀傷は、西軍が気晴らしに斬り付けたものである。
京都守護職から戻った容保が、恭順を示すため鶴ヶ城には入らず、ここで過ごした。
「10畳の松の間」と2階は、明治15(1882)年に容保一家が、東京から転居する際に建てられたもの。
戊辰の役で焼失した。
旧・御薬園通りに面した西側の中央にあり、正式な入口であった。
常時、数人の番兵が詰めていたという。
出口の手前に売店がある。
お土産には、薬草茶がお勧め。
壁際のケース内に資料類が展示されている。
オタネ人参と会津藩
Otane-Carrot
薬膳料理、会席料理が名物だったのだが、残念ながら平成22年2月に終了。