会津名産の渋柿で、焼酎でさわして食べる。 2週間ほど焼酎でさわし密封しておくと、渋が抜け、格別な甘さに変わる。
外観も美しく、ほぼ種が無く、肉質は柔らかくて、サクサクした食感があり、なめらかな舌触りと甘みは絶品で、他の柿では味わえない旨味があり、ビタミンを多く含み、二日酔いにも効く。
渋抜きが終わった柿は、新聞紙などで包んで涼しい場所に保存するか、ポリ袋に入れて冷蔵庫の野菜室で保存するが、長くは日持ちしない。
固めがお好みなら早めに、柔らかい食感を味わいたいなら 2〜4日 置い頃が食べごろ。
天正年間(1573〜)、安達郡小浜城主/大内定綱が西念寺住職/夕安を中国に留学させたが、帰国する時に甘柿と渋柿の苗本を持ち帰った。
天正13(1585)年、定綱は伊達政宗に攻められ、一族共々、黒川城主(会津若松市)の蘆名隆氏公のもとに逃れた際に西念寺の柿も持ち込まれた。
すると甘柿は根づかず、渋柿の方が黒川特有 (会津若松市) の気候に適合していたようで、会津漆器や防水に多用する「渋」の需要と相まって、身が大きい「西念寺柿」は盛んに栽培されるようになる。
誰ともなく、水分が多く甘みが強い品種であること気付き、その後の品種改良を重ねた結果、類を見ないほどの優秀な品質となり、現在の会津/身不知柿になった。
江戸時代、神社などの秋祭礼に奉納された相撲の褒賞に用いられるほどになった。
呼び名の由来は、
◇ 自らの枝が折れるほど数多くの実をつける「身の程知らず」から
◇ 将軍に献上した際に、「未だ、かかる美味の柿を知らず」と賞賛されたことから
◇ あまりの美味しさに限度を忘れてしまい食べ過ぎてしまうことから
などが伝わっている。
現在では、「皇室献上柿」として知られる。
箱詰め作業は北御山集会所で行われる。
渋を抜いた240個の柿を、県会津地方振興局の職員6人が1つづつ丁寧に布で磨いて和紙に包み箱に詰め、皇室に献上される。
薬用人参である朝鮮人参のこと。
漢方薬では、不老の霊薬とされる。
300年の歴史があり、かつては生産高が全国1位で、品質も日本一を誇った。
江戸時代は清国、今は香港に大半を輸出しており、加工された製品が逆輸入されている。
寒さが厳しく雪深い所で少しずつ成長させ、収穫まで5、6年もの歳月をかける。
栽培した土地には、数年間は草すら生えないほど、土中のあらゆる成分を吸収してしまうと言われ、神秘の霊薬として珍重されている。
主要成分のサポニンは、ガンや糖尿病、炎症などの治療に、絶大な効果あるとのこと。
朝鮮人参の3大産地は、会津と長野県丸子町、島根県大根島。
8代将軍/徳川吉宗は、高価な朝鮮人参の支払いで大量の銀が流出しているのを危惧し、国産化を計る。
まず、対馬藩から生根3本を献上させるが、根付かなかった。
享保10(1725)年、長崎奉行に命じ、種子100余粒を清国の商人から入手させ、江戸城内と小石川薬園に蒔いた。
第3代藩主/正容公の時、御薬園にも種苗が持ち込まれている。
享保13(1728)年、対馬藩から献上させた種子60余粒を日光に蒔いたところ成功し、種子を得ることが出来た。
日光の今市に栽培所を設置し、増産を始めた。
宝暦13(1763)年には、13万株になったという。
明和3(1766)年、第5代藩主/容頌公が今市の種子を下付され、御薬園だけでなく民間にも奨励して、会津一円に栽培させた (幕府は会津藩・信州藩・雲州藩の3藩に栽培を許可)。
この由来から会津では、御種人参 (おたねにんじん) と呼ぶ。
やがて大生産地となり、名東子屋町に580余名が勤める人参役場を設け、長崎会所を通して清国へ輸出され、藩の財政に大いに貢献した。
果肉が厚く、種も小さく、味も良いことで有名な梅の実。
日本一大きいといわれ、ゴルフボールほどにもなる。
室町時代に、梅とアンズの雑種が持ち込まれ、地元の梅と交配が続けられ、現在の品種になった。
かりかり梅や、甘漬け、梅酒も名産品となっている。
毎年6月の「あやめ祭り」の日曜日には、「高田梅種とばし選手権世界大会」も開催される。
御薬園に栽培されている植物をもとに、ハトムギ、大麦、ハブ茶、柿の葉、クコ、サンザシなどを調合したる健康茶。
防腐剤・食品添加物などは一切使われておらず、和紙の袋にも有害物は使われていない。
血流増進に効能があることから、女性向けとして「楽寿湯」も人気。