ネ  ッ  ト  で  供  養

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戸 ノ 口 原 古 戦 場

 会津藩領で、唯一、破られたのが母成口である。
 古くは八幡太郎義家や、伊達政宗公が会津に攻めた時に通った道である。
 だれもが、重要拠点であることは認識していた。
 しかし、ロシアから蝦夷地を守る北方警備、米国から守る江戸湾警備、天皇を守る京都守護職と、相次ぐ職務を全うすることで会津は疲弊した。
 加えて、会津領の国境は広く、すべてを守る兵力は持ち合わせていない。
 仙台藩、米沢藩へ向かう街道でもあったため、主力部隊を配置せず、防御は薄かった。
 そこへ、道徳の欠片もない許されざる三春藩が卑劣にも裏切る。
 万が一、領内に侵入されても自然の要衝、日橋川がある。
 川に架かっている十六橋を破壊すれば、若松への侵攻はずいぶん遅れ、藩境の警備に就いている主力部隊を呼び戻せる時間を確保できるはずだった。
 少なくとも、大砲など重火器類の搬入はできなくなる。
 頼りの十六橋は、余りにも堅固に造られており、破壊は間に合わなかった。
 少年や老人だけの留守部隊では、怒涛の如くの侵攻を許すことになる。

 現在、十六橋から滝沢本陣までは、ハイキングコースになっている。
 旧滝沢街道の沓掛峠を通り旧滝沢本陣まで、徒歩2時間ほど。
 今回は、車で供養に巡る。

以下の緑色の文は、現地の 「説明板」 から
画像クリックで現地の説明板の写真表示も一部あり .

十六橋 (じゅうろくばし)

十六橋

 猪苗代湖に近い所の日橋川にかかる橋で、猪苗代町会津若松市をつなぐ。 弘法大師 (空海) が、16の塚を築き橋を渡したとのことから、名付けられた。
 日橋川は、安積疏水が出来るまで猪苗代湖から流れ出る唯一の川であり、旧二本松街道 (旧若松街道) の要衝であった。
 戊辰の役の際、この橋を壊せば若松の侵入は難しくなるはずだった。
 しかし、あまりに強固に造られていたため、壊すのに手間取り、侵入を許すことになる。
 ▲(猪苗代町翁沢大字船場〜会津若松市湊町赤井戸ノ口30-2-31)

<猪苗代町と併記>  .

     ↓  750m

戸ノ口原古戦場跡入口
戸ノ口原古戦場跡入口の案内板  [白虎隊行程図]
 [白虎隊塹壕図]
 [布陣図]
 国道49号と交差する向かい側に、「戸ノ口原古戦場跡入口」の看板がある。
 国道49号と並行している小道ではあるが、こちらを進む。
野鳥の観察場  二本松街道と呼ばれていた道である。

 猪苗代湖側は、会津レクレーション公園になっている。
 途中の道路沿いに、野鳥を観察できる屋根付き施設がある。
 いつも空いている。

     ↓  700m

白虎隊奮戦の地

 1つ目の交差点右側向かいに、白い 「戸ノ口原古戦場碑」 が見える。
 大自然の中の、どこにでもあるような風景で、碑があるだけなのだが、立ち寄る人は多い。
 戸ノ口原の守備は主力兵なしの奇勝隊游軍隊敢死隊白虎隊合せて400名弱、対する西軍2千数百名との戦いであった。

        戸 ノ 口 原 古 戦 場 跡
 慶応四年 (一八六八年) 八月二十二日、母成(ぼなり)峠の藩境を突破した西軍は、怒涛のごとく猪苗代湖畔の要衝「戸ノ口十六橋」に殺到しこれを占拠した。
 また、別働隊は湖を渡り笹山への襲撃に成功し、この両面作戦で挟み撃ちを受けた会津藩守備隊は苦戦を強いられた。
 急きょ、松平容保警護の白虎隊士中二番隊が滝沢本陣より派遣されたが、会津藩守備隊に対し、数倍の兵力と優れた性能の武器を持つ西軍は優勢に戦いをすすめた。
戸ノ口原古戦場跡の現地説明文  戸ノ口原で展開された戦闘では孤立無援となり、散り果てた藩士も多く、派遣された白虎隊士中二番隊は藩主に復命するため後退し、そのうち二十名は弁天(べんてん)洞穴(どうくつ)をくぐり、飯盛山へたどりつくのであった。
 平成十八年十月   会津若松市

夜泣き石
夜泣き石 夜泣き石  その一角に、夜泣き地蔵がひっそりと佇む。 “夜泣き石”に因む民話がある。
 

 
夜泣き石  芦名時代、事情あって捨て子にされた子どもが、夜中に呼び寄せられ喰い殺されようとした時、夜明けまで大きな石がしっかりと子供の足をおさえて魔物に喰い殺されるのを防いだといわれている。
 今でも子供の左足型のようなものが残っている。
 また、夜泣きする子をおぶって、ここへお参りすると夜泣きがぴたりと止まるという噂が立ち、多くの母親が子供を連れてお参りした。
 それ以来 ”夜泣き石” と呼ばれている。

会津藩士墓群

 「白虎隊奮戦の地」の傍の、国道49号寄りに、こじんまりとまとめられた墓群が、戦死した会津藩士たちの墓である。
 近くに点在していた墓を、今の一画に移した。

戊辰戦死者之墓

戊辰戦死者之墓 .  .

戸ノ口原で戦死した  .
会津藩士の墓。     .


小沢新十郎之墓 小沢新十郎之墓 .
 敢死隊差図役。 44歳。
 慶応4(1868)年8月23日、戸ノ口原で戦死。

戦死拾六人墓 戦死拾六人墓 .
 会津藩士16人を合葬。
 姓名など詳細不詳。

戦死廿人墓 戦死廿人墓 .
 会津藩士20人を合葬。
 姓名など詳細不詳。

戦死四人墓 戦死四人墓 .
 会津藩士4人を合葬。
 姓名など詳細不詳。

戦死一人墓 戦死一人墓 .
 姓名など詳細不詳。

小池繁次郎功成之墓 小池繁次郎功成之墓  .  藤之進の父。
 遊撃軍寄合組頭。
 46歳。
 慶応4(1868)年8月23日、笹山で戦死。
 長男の勝吉は、既に鳥羽伏見の戦いで戦死。
 北山霊園の墓碑にも記載されている。
安藤物集馬霊墓 安藤物集馬霊墓 .
 遊撃寄合組小池隊組頭。 44歳。
 慶応4(1868)年8月23日、笹山で戦死。

鈴木三郎戦死之墓 鈴木三郎戦死之墓 .
 朱雀寄合一番一柳隊。 29歳。
 慶応4(1868)年8月23日、戸ノ口原で戦死。
 墓は、長命寺にもある。

村松吉敏墓 村松吉敏墓 .
 常盤とも。
 猪苗代隊。
 42歳。
 慶応4(1868)年8月23日、戸ノ口原で戦死。


繁次郎桜


 戊辰戦死者之墓の傍に、サクラの木がある。
 小池繁次郎の子孫により植栽され、繁次郎桜と呼んでいるとのこと。
   品種 御衣紅
墓誌名戦争戦死者の墓群
 戊辰戦争は慶応四年 (一八六八) 一月の鳥羽・伏見の戦いに端を発し 会津藩は薩長を中心とする西軍と同年八月以降 激戦を展開した
 この地は その際 八月二十二日から二十三日早朝にかけて 白虎二番士中隊が西軍を迎え撃った場所で 多くの戦死者が出たとされている
 白虎隊は この地を抵抗を重ねながら敗走し飯盛山の悲劇へと進んでいった
会津藩士墓群の現地説明文  会津藩は 1ヶ月後の9月二十二日に若松城を開き降伏したが この一帯には戊辰戦争にかかわる墓碑や悲話が今も残されている
 平成三年十二月   会津若松市教育委員会

     ↓  800m
赤井谷地湿原
 途中に、赤井谷地の見晴らし台入口がある。
 白虎隊は、敵の目から逃れるため旧/二本松街道を通らず、この赤井谷地を抜けて鶴ヶ城に向かった。



菰土山(こもづちやま)の胸壁跡


 
 慶応4(1868)年8月22日午後2時、白虎隊 (士中一番隊士中二番隊) は、前藩主/松平容保を警護し滝沢本陣に到着した。
 戸ノ口原からは、藩士/塩見常四郎 (恒四郎とも) が援軍を求めてきた。
 白虎隊士中二番隊率いる隊長/日向内記が、援軍に名乗りを上げた。
 白虎隊は戦闘部隊ではないのだが、主力部隊は他の国境警備についており、止む無く許可された。 続いて士中一番隊も名乗りを上げたが、本来の藩主警護の任のため、鶴ヶ城へ戻っている。
 少年兵士たちは集合の命を受けた際、旧式のヤーゲル銃を与えられただけで喜ぶほど、実戦経験 ・ 知識もなかった。
 ヤーゲル銃を与えられたと聞き激怒した老いた藩士が、武器役人にクレームをつけ、マンソー騎銃に取り替えさせているが、全員には行き渡らなかった。
   「ヤーゲル銃ハ用を為サズ用ノ銃ヲ携ヘテ戦ニ封ケト令スル者何人ゾ
         宜シク殺戮シテ余等モ自殺セント

 午後4時、初陣の隊士37名は舟石近くで砲撃の音を聞き、舟石茶屋に携帯品を預け、銃に弾を込め戦闘態勢に入った。
 ここで隊長の第2のミス、食料を預けてしまう。
 強清水村を経由して、戸ノ口原の側にある菰槌山に布陣する。
 近くに敢死隊も布陣しており、塹壕に身をひそめ敵兵を狙撃する。
 大砲の援軍が到着し、西軍の侵攻を退けることに成功した。
 食料を持っていないため、敢死隊から握り飯を分けてもらい、やっと飢えをしのぐ。
 敵兵を追撃するため、隊士たちは2手に分かれて進軍することになった。
 日が暮れると台風の影響で激しい風雨となり、進軍を取りやめ野営することになる。
 ここで隊長の第3の最大のミス、隊長/日向内記が失踪しまう。
 本陣での軍議に参加するためとか、食料を調達するためとか、とされるが、真相は定かでない。
 翌8月23日午前5時頃、進軍してきた敵兵を発見、溝に身を隠し、射程内に入ったところで側面化に発砲した。
 奇襲攻撃を受け、一時は大混乱に陥った西軍も多勢に無勢で まもなく応戦、散り散りに撤退せざるを得なくなる。
 昨夜、握り飯をもらった敢死隊が布陣する菰槌山に戻ると、すでに攻撃された後で、戦死体が散乱しているだけだった。
 さらに、城下に通じる滝沢街道は西軍の手に落ちていた。
 もはや、これまでと、教えに従って自刃との意見もあったが、城に戻り本来の役目である藩主を御護りしようと敵兵の眼を逃れ、帰城を目指す。

会津藩士二十二人の墓

会津藩士二十二人の墓

 姓名など詳細不詳 (林源輔、木村勘六、山内平八、瀬野久吾、庄太郎、五兵衛、長之助、安五郎 ・・・・か?)。
 この辺りは、大野原と呼ばれる。
 鷹狩りの場でもあり、藩士の軍事訓練の場でもあった。
 戊辰の役の際に築いた3重の塹壕が、この近くにある。
 今では、藪に覆われ、自然に還りつつあるようだ。

戦死6人墓 戦死16人墓

   「戦死十六人墓」と
       「戦死六人墓」
.


戦死16人墓と戦死6人墓
戊辰の役殉難 会津藩二十二士の墓
 戊辰(ぼしん)(えき)では十六橋を渡って進んできた西軍と会津藩軍は戸ノ口原において激突した。 このあたりは菰槌山(こもつちやま)と言って小高い山になっていて、会津藩軍はざんごうを掘って対峙していた。 やがて戦いになった。 兵力に優る西軍は有利に戦いをするようになり、白虎隊をはじめ会津藩軍はやむなく後退せざるをえなかった。 この戦いにおいて会津藩士には多くの戦死者がでた。
 戦後、あたりの山野に朽ち果てようとしている会津藩士の遺体を哀れに思い、近くの集落の人達が二十二の遺体を集め、手厚く(ほうむ)り、戦死六人墓、戦死十六人墓を建て供養した。
「会津藩士二十二人の墓」の説明板  地元の強清水(こわしみず)では、亡くなった会津藩士を毎年ねんごろに供養している。

 平成十八年十月
会津若松市一簣町 旧滝沢街道ふれあいまつり実行委員会

     ↓  700m
強清水  4軒のそば屋が軒を連ねている強清水
 名水でノドを潤し、昼時なら「ニシンそば」を食べよう。
 おやつ時なら、名物「身欠きニシン、水でもどしたスルメ、まんじゅう」の天ぷら3点を味わいたい。

     ↓  600m
 強清水を抜け、国道294号を左折する。
 300メートルほど先の右手が、沓掛峠入口。

沓掛峠入口

沓掛峠入口

 ハイキングコースで、一般車両は通行禁止。

 沓掛峠は越後海道から白河に至る脇道であったが、寛永四年 (一六二七) に会津領主となった加藤義明公が滝沢峠を開いて この峠を継ぎ、二代明成公は石畳を整備して白河街道とした。

 沓掛峠を徒歩で若松方面に向かうと、茶屋跡、追分、金堀の滝などに出会う。
 白河街道二本松街道追分があり、近くの平坦地が茶屋跡である。
 金堀の滝は、寛永6(1665)年から掘削を開始し、元禄6(1693)年に完成した猪苗代湖からの灌漑用水の一部。

     ↓  2.5Km
山神社  今回は車での参拝なので、いま来た道を戻る。
 国道49号交叉点の130メートル手前を左折し、滝沢街道を進む。 会津藩士十一人の墓へは、金堀集落手前から入る。
 宝くじファンで有名な 「山神社」 が目印だが、標識などはない。
 バスのUターンのための空き地が目印。

会津藩士十一人の墓「戦死十一人墓」 .

 山神社の前を通り過ぎて、すぐの右下にある。 下り口に、小さな案内板がある。

会津藩士十一人の墓 会津藩士十一人の墓の入口

会津藩士十一人の墓
 戊辰戦争時、この付近で戦死した会津藩士の墓。金堀住人が建立。

     ↓  600m
 山神社の方に戻り、金堀集落に入る。
 集落の中を通り抜け、上り切った所にある。

会津藩士十八人の墓「戦死十八人墓」 .

会津藩士十八人の墓

 滝沢峠の頂上付近で、車が進入できる突き当たりの手前。
 白虎士中二番隊士と寄合隊士であるが、姓名等不詳。
 戸ノ口原から城下に戻る途中、湊村原方面からの西軍と遭遇。
 
会津藩士十八人の墓 会津藩士十八人の墓
   戦 死 十 八 人 墓
 慶応四年 (一八六八)、戊辰戦争の際、日橋川を渡河した西軍は大挙してこの道を急進撃し、多くの会津藩士らが戦死しました。
 地元金堀・下馬渡の村民たちは これら戦死者を手厚く葬り、この碑を建てました。碑表には「明治元年辰八月廿三日金堀村」、左側には「下馬渡村」と刻まれています。
「会津藩士十八人の墓」の説明板  明治と改元されたのは九月八日のことでありましたから、正しくは慶応四年八月二十三日ということになります。
 金堀の鎮守 山神社前にも同様の「戦死十一人墓」があります。

新奥の細道  環境庁・福島県

金堀城址  道の向かいに「 金堀城址 」がある。
 50メートルほどの馬蹄形の平場が残っているとのことであるが、草木に隠れて認識できない。
 案内板があるのみ。

 旧/滝沢峠を徒歩で若松方面に向かうと、舟石、滝沢峠の石畳、不動滝などに出会う。

     ↓  5.8Km
 今回は、現在の滝沢街道を車で、飯盛山の白虎隊の墓に向かう。

白虎隊士の墓

白虎隊士の墓

 飯盛山の中腹にある。
 飯盛山の白虎隊については、ネットで参拝を参照

旧滝沢本陣
 近くに、滝沢本陣がある。
 滝沢本陣については、
   ネットで見物を参照

 すべては、慶応4(1868)年8月22日から23日の早朝にかけて、この地で勃発した。
 古来からの、会津の「時の進み方」 ではなかった。
 あまりにも、「時の流れ」 が早すぎた。
 そして、充分な理解も出来ぬまま、数多くの藩士たちが散っていった。
 戦いが終わっても長賊らは、戦死者の埋葬を禁止した。
 晒され続けた遺体は、鳥獣に食い荒らされ、朽ちていった。
 姓名が判明した者は、今なお農兵を含め70名程の半数にも至っていない。

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