崇神天皇元(紀元前97)年、神が船に乗って飛来し「鉾」を投じた。
地上に落下するや否や、「鉾」は八角の水晶に変化した。
人々は、降臨された神を崇め、八角神社として宮を建てた。
その際に、乗り捨てられた神船が化石となったのが「舟石」と云い伝えられている。
神船は墜落し、辺り一面を焼け焦がしたともいう。
舟石の下は空洞になっており、浮いているようにも見える。
民踊/会津磐梯山にも登場するほど、当時は知られていた。
戊辰の役、軍事方を務める桜井常四郎に、出陣命令が下る。
戦闘員からは身を引いていたが、主力部隊が藩境警備で不在のため、総動員となった。
十六橋が突破されるに至り、戦地に赴くこととなる。
自邸を出る際、
「敵が滝沢峠を越えさせることは、命を賭して阻止する。
もし敵が城下に侵入することがあれば、我は死んだものと考えよ」
と、妻に言い残した。
慶応4(1868)年8月23日早朝、撤退との命令を受ける。
ここで死守せねば、これまでのの所業から城下は修羅場となろう、との進言が聞き届けられる前に敵影が現れ、流れ弾を受けてしまう。
舟石の上で 「御敵退散」 の祈祷をおこなった後、敵兵を睨みつつ自刃した。
享年46歳だった。
滝沢峠から銃声がとどろき、程なく敵来襲の報が伝わる。
妻/桜井たみ子は、夫の死を悟り、自邸で自刃した。
ここにも、運命に翻弄された夫婦がいた。
あまりの見事で気迫の迫る桜井常四郎の自刃に、は一発の銃弾も撃てなかったという。
会津の城は、これまでの藩のように簡単に落とすことはできまい、と戦慄したという。
事実、圧倒的な兵力で攻めたが1か月もの籠城戦を戦い抜かれ、落城させることは出来ず、開城によって戦いは終わった。
この近くでも多く年老いた藩士たちが戦死したが、その後の長賊らの鬼畜にも劣る所業は、いまだ詳細など判っていない。
戸ノ口原一帯に現存する多数の墓碑のほとんどが、姓名など今もって不明である。
寛永4(1627)年、加藤嘉明公が新しい街道として整備した。
寛永11(1634)年、子の加藤明成公が石畳みを敷設した。
石畳みの一部は、今も残っている。
後に、白河街道と二本松街道の追分として若松をつなぐ茶屋は、重要な場所であった。
明治に入り荷馬車の通れる新道が完成すると、街道としての機能は失われ、茶屋も役割を終えた。
天保11(1840)年、建立。
松尾芭蕉の会津来訪の予定が変更になり、悲観し惜しだ会津俳壇の宗匠たちが、せめてもの記念にと建てた追憶の句碑。
刻まれた句は、「笈の小文」の旅の中 (貞亨5(1688)年4月1日) の一句。
芭蕉は、幕府の隠密だったとの俗説もある。
事実なら、親藩の中でも最も義を重んじる会津藩には、立ち寄る必要もなかったのだろう。
「ひとつ脱て うしろに おひぬ 衣かえ」
同じ句の碑は、坂本宿出口にもある。