《現地観光案内板》
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市の中心部の東側にあり、標高314メートルの山で市内が一望でき、飯を盛ったような山の形から名付けられた。 山頂には、4世紀代の前方後円墳 (65m) と円墳があり、その後に山城 (飯盛山城) にもなっている。 [城図] 白虎隊自刃の地としても知られ、「白虎隊十九士の墓」には年間200万人もの観光客が訪れる。 日本で初めてお土産用の木刀が発売された場所でもある。 |
寛政7(1795)年、僧/郁堂と棟梁との創意により飯盛山の中腹に着工され、翌寛政8(1796)年に完成した。
旧正宗寺三匝堂として、国指定重要文化財。
高さ16.5メートル、真径6.3メートルの六角形の三層の不思議な建物で、木造二重らせんは世界で唯一とのこと。
時計周りに螺旋状のスロープで上り、頂上の太鼓橋で反時計回り下りとなり、裏面から出る。
上りと下りがつながっており、一方通行になっている。
サザエの巻貝殻のの中のようで、平衡感覚がおかしくなような体験ができるだろう。
堂の中を3回めぐることから、三匝堂の名がある。
戊辰の役で奇蹟的に現存する江戸期建築の三仏閣の1つ(善龍寺/山門・法用寺/三重塔)。
以前には、通路の内側に西国三十三観音像が祀られ、一回ですべての巡礼を終えることができるように造られていた。
仏像は、戊辰の役での略奪と、大罪/廃仏毀釈という仏教弾圧により、惜しむらく残っていない。
▲(会津若松市一箕町飯盛山 Tel. 0242-22-3163 <旧/滝沢村>
) 鶴ヶ城から 3.2km
・8時15分〜日没まで(冬期は、9時〜16時)
・年中無休
文禄4(1596初)年建築の横山家主屋を、本陣としたもの。
延宝6(1678)年に藩から本陣の命を受け、東側の追加増築に着手し、翌年から本陣として使用される。
古い農民住居の姿を残しており、屋根は茅葺きで書院づくりの建物。
現存する東北地方最古の民家である。
横山家は、飯盛山城を城館としていた現在16代の旧家。
国の史跡に指定、横山家住宅主屋と座敷は国指定重要文化財。
白河街道の滝沢口にあるため、領内巡視時の休憩場としてや、土津神社の祭礼、参勤交代の時の旅装を整える場として用いた。
当時のままの御入御門、御座之間、御次之間などが保存されている。
藩主の身回り品、参勤交代の道具類、古文書なども保管されている。
戊辰の役では、藩主/松平容保が本陣をおく。
白虎士中二番隊が、戸ノ口原戦場への初陣命令を受けた場所でもある。
無数にある弾痕や刀傷が、戦闘の激しさを物語っており、生々しい。
城下の建造物は、略奪後に焼き払われるか破壊されたが、当時の戦いの痕跡が完全な形で残っているのは、ここ滝沢本陣だけである。 開城後に
は居残り組の監禁場所として使われた。
▲(会津若松市一箕町大字八幡字滝沢122 Tel. 0242-22-8525) 鶴ヶ城から 3.1km
・早朝から夕刻まで (9時〜17時)
・休館 年中無休 (冬期/12〜3月は予約が必要)
士中二番隊19人の少年たちの自刃を通して、会津藩のみならず、武士の終焉を後世に伝えようとする資料館。
飯盛山の参道を挟んで、スロープコンベアの反対側にある。
肖像写真・肖像画などや幕府軍の資料、四斤大砲、鉄砲などの武器など1万2千点が展示されている。
敵兵が名付けた娘子隊と記載したり、案内のビデオで降伏開城を落城と呼ぶなど史実に難点はあるが。
日本経済新聞の「女性がすすめる歴史資料館」では、5位にランキングされている。
「会津復古会」加盟館。
▲(会津若松市一箕町大字八幡字弁天下33 Tel. 0242-24-9170 〔HP〕) 鶴ヶ城から 3.2km
・9時〜16時
・休館 火曜日 (祝日の時は翌日)
・館内撮影禁止
白虎隊を中心にして、戊辰の役の資料を約5千点が展示されている。
隊士が学んだ会津藩校日新館、戊辰の役にまつわる新選組なども含め、会津藩の歴史を今に伝える資料館。
一昔前には、館長みずからが、わかりやすく解説してくれていたのだが。
▲(会津若松市一箕町大字八幡字弁天下 Tel. 0242-26-1022) 鶴ヶ城から 3.1km
・8時〜17時 (12月から3月は、9時〜16時30分)
・年中無休
・館内撮影禁止
飯盛山で自刃した白虎隊士の遺体を、最初に葬った場所。
戊辰の役で開城後に、松平容保・藩主/喜徳公の父子などが約1か月間 (28日)、蟄居謹慎した寺でもある。
[逸話]
戦いが終了した後にも、敵兵は遺体の埋葬を禁じた。
自刃した白虎隊士の屍も例外ではなく、放置された。
滝沢村の肝煎/吉田伊惣次 (治) が、密かに敵兵の目を盗んで、この寺に仮埋葬した。
すぐに発覚し捕らわれ、遺体は掘り起こされて元の場所に投げ捨てられた。
平成5(1993)年4月、コンピュータサイエンスに特化した日本初のコンピュータ専門大学として開校。
全世界から教師を募集し開校時の82人中48人が外国人教師、語学系学部でもないのに学位論文の執筆および発表に英語を義務付ける日本で前例のない体制でスタートを切った。
以降、創立間もない大学にもかかわらず、次々と功績を残している。
藩校/日新館の例をとるまでもなく教育に力を入れる地域である。
しかし、長賊末々の卑劣な妨害により短期大学しか開校できなかった。
優秀な人材は進学のため会津から去らざるを得ず、4年制大学の設置は長年にわたる会津人の悲願であった。
技術の進化が大きく変革する世界情勢を鑑み、姑息な邪魔だての続く中、平成4(1992)年4月に国立を断念し、公立大学として文部省に設置認可を申請、同年12月に認可を取得する。
古道/滝沢坂の中間ほどにある大きな石。
太古の昔、神が会津に来る際に乗ってきた船が、後に石と化したと語り継がれている。
厚さ1メートル、幅3メートルほどで、座イスの形にも見える。
平らな石の背に、船の帆のような八角形の岩が直立している。 昔は、民踊/磐梯山の歌詞に載るほどの名所であった。
近くに舟石茶屋跡、芭蕉の歌碑がある。
滝沢本陣の前の道を直進し古道/滝沢街道を進めば至るが、お勧め道順は、金堀集落から古道/滝沢街道の長坂を上り、車止めから徒歩で5〜10分ほど下る。
戊辰の役には、悲劇も起こっている。
▲(会津若松市一箕町八百山近く) 鶴ヶ城から 9.4km
前方部は幅23メートル高さ3.5メートル、後円部は径45メートル高さ6メートルあり、全長114mの前方後円墳である。
4世紀末に造られたと推測され、東北地方最古の古墳の一つ。 国指定の史跡。
大きさは、東北地方で第4位で、県内では会津坂下町の亀ヶ森古墳に次いで第2位の大きさ。
飯盛山古墳、堂ヶ作山古墳などの一箕古墳群の中の一つ。
昭和39(1964)年5月14日〜27日、発掘調査。
昭和52(1977)年、出土品が一括して国指定重要文化財/考古資料になる。
出土した三角縁神獣鏡や三葉環頭太刀、銅鏃など多くの遺物は、県立博物館と天守閣郷土博物館に保管 (一部は展示) されている。
大塚山城として蘆名氏の家臣/大塚氏の居城があった。
土塁、堀、平場、虎口などが残るのみで、墓園になっている。
▲(会津若松市一箕町北滝沢) 鶴ヶ城から 3.6km
《堂ヶ作山古墳》
大塚山古墳より小さいが、4世紀前半に築造と年代は古い。
前方後円墳、全長84m、標高380mの山頂に築造。
《飯盛山古墳》
4世紀前半か、5世紀前半に築造と推定されている。
前方後円墳、全長70m、一箕町弁天の丘陵上に築造。
《天子宮古墳》
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