用明天皇年代(585〜587)、京都/石清水八幡宮の分霊を勧請し、前方後円墳の頂に創建。 当初は小さな祠であったという。
祭神は、品陀和気命 (最初に仏名「八幡大菩薩」を持った神)。
総本社は、大分/宇佐八幡宮。
寛治年代(1087〜1094)、源義家が出羽国/清原氏征伐の御礼として社殿を建立。 その時に、動員した農民1万人に一箕ずつ土を運ばせて築いたことから、「一箕」の地名が生まれた。
前方後円墳 (全長90mほど、富士通と団地の造成で消滅) の増築時とも。
寛永年間(1624〜1644)、加藤嘉明公が修復。
寛永20(1643)年、初の会津入りをした保科正之公が、門前の道路沿いで大勢の領民から歓迎のお出向いを受けた。
宝暦8(1758)年に奥殿、万延元(1860)年に拝殿が再建されたが、戊辰の役で焼失した。
戊辰の役では、国産奉行/河原善左衛門の親子兄弟3人が境内で壮絶な戦死をしている。
別当寺/泉明院 (本山派) は消滅。
自然景観指定緑地の1つ (第4号)。
お日市 7月15日。
≪日什大正師の生誕地≫
子宝を祈願し身ごもった母/清玉姫が、社殿前の参道石段で玉千代丸 (日什大正師) を出産したと伝わる。
≪旧滝沢観音堂≫
慶安3(1650)年、拝殿の西側に創建。
明治の神仏分離令により、不動川上流の滝沢不動院内に移される。
建物は残されており、献額も掲げてある。
▲(会津若松市一箕町八幡字八幡53 Tel. 0242-22-7842 <旧/滝沢村>)
日什大正師の母/清玉姫が参道石段で産気づいた時、拝殿裏から突如として湧き出し、産湯に使ったと伝わる。
当時は社領地内であったが、現在は拝殿の裏手にある會津学鳳高校の東側で、市民ふれあいスポーツ広場のテニスコート奥に碑が建つのみ。
かつては、眼病に効くとされていた。
▲(会津若松市一箕町八幡字八幡2-1)
会津の八幡宮として全国的に知られているのは会津坂下町/心清水八幡神社であるが、大小を問わなければ会津若松市内だけでも数多くの八幡神社がある。
一箕山、御山、北会津のほかに、主な八幡宮をピックアップ。
大和田八幡神社 自然景観指定緑地の1つ (第30号)。 ▲(会津若松市河東町大田原字村中215/字宮腰15-3 Tel. 0242-75-3030) |
||
八幡神社 <金田>▲(会津若松市河東町金田字村前丙276) |
||
八幡神社 <年貢>▲(会津若松市東年貢2-2) |
||
八幡神社 <中野>▲(会津若松市門田町大字中野字屋敷599) |
慶安3(1650)年、一箕山八幡神社の拝殿西隣に創建。
聖観音菩薩。
明治の神仏分離令により、現在地に移される。
不動滝の水しぶきと、流れ落ちる音に包まれている。
会津三十三観音の第十八番札所。
▲(会津若松市一箕町滝沢道下 <旧/滝沢村>)
・祭礼 旧7月9日
応永元(1394)年、顕本法華宗を開祖した日什大正師の生誕・入滅の霊場として、弟子の日仁上人が開山 (宝光山
全国に日什門流の寺院500寺を擁し、日蓮宗の本山に列しているとのこと。
太平洋戦争前までは顕本法華宗の本山であった。
日什門流八別格本山の一つ (会津/妙国寺・妙法寺、京都/寂光寺、品川/天妙国寺・本光寺、飯田/本興寺、吉美/妙立寺、見附/玄妙寺)。
什門四本山の一つ (妙国寺、本興寺、玄妙寺、妙立寺)。
大塚山熊野神社 | 円通三匝堂(さざえ堂) | 宇賀神堂 | 諏訪神社<北滝沢> |
三浦家の三島神社 | |||