文治5(1189)、佐原義連公が創建し、義連公に伴って会津にやって来て、土地と共に与えられた赤沼内膳が奉祀。
祭神は、倉稲魂命。
御神体の木像丈8寸8分は、佐原義連公と伝えられている。
伊達正宗公が焼き払ったが、蒲生氏郷公が現在地に再建。
お日市 7月20日。
▲(会津若松市旭町 <旧/行人町>)
文明6(1474)年、蘆名盛高公が創建し、岌天
盛道山
総本山は、京都/知恩院。 空飛ぶ三尊伝説がある。
大永2(1522)年、盛舜公が父/盛高公の像を納め、寺田数百畝を寄贈し菩提寺とした。
天文6(1537)年、岌天上人の死去により、現在地に移転。
末寺30余となるも、蘆名氏が滅亡後は一時 廃寺。
その後の蒲生氏、加藤家、保科正之公の庇護を受け大いに栄える。
しかし、戊辰の役の時、西軍に寺宝すべてが略奪され、堂宇は焼き払われた。
昭和50(1975)年、開宗800年を記念して伽藍が再建される。
区画整理のため全ての墓地は大塚山墓地公園に写されたが、蒲生忠郷公の墓/五輪塔は今も本堂の裏にある。
町廻り三十三観音の二十九番 馬場下五之町。
「冬木沢参り」で有名な八葉寺も管轄している。
殉難者墓あり。
門前に、豆腐地蔵がある。
▲(会津若松市中央2-4-5 Tel. 0242-22-2662 <旧/五之町>)
日本で唯一の養蚕に関する神社である。
弘仁2(811)年、草創。
寛弘7(1010)年、宮殿を創建。
祭神は、保食大神
延長5(927)年に完成した延喜式の会津式内3社 (伊佐須美神社・磐梯神社) の1つ。
境内には、樹齢1000年の峰張桜がある。
文化4(1807)年、火災により社殿が焼失。
文政2(1819)年、松平容敬公が社殿一切を再建し、今に至る。
お日市 8月1日
自然景観指定緑地の1つ (第1号)。
地元では、古くから蚕養神社、蚕神社などと記され、親しまれている。
境内社として、五社稲荷神社・鬼渡神社・護忠霊社・和霊々社・宗像神社もある。
▲(会津若松市蚕養町2-1 Tel. 0242-37-3166 <旧/蚕養宮村>)
4月19〜20日 養蚕祭 (桜花祭、春季大祭)
6月30日 夏越大祓 (茅の輪くぐり神事)
8月1〜2日 例大祭 (太々神楽、神幸祭)
12月30日 歳越大祓
慶長13(1608)年、僧/大聴 (大庁) が磐城/恵称寺の末寺として、半兵衛町に創建。
菩提山、浄土宗。 本尊は阿弥陀如来。
歴代士族の菩提寺として隆盛したが、西軍の悪巧/藩ごと流刑で士族が離散したため衰退し、今では、大運寺が管轄。
岡重政、宗川茂弘
殉難者墓あり
▲(会津若松市本町7-1 Tel. 0242-26-8940 <旧/新丁通>)
お日市 8月3日。
蘆名氏として初めて会津に定住した直盛公は、佐原の館を経て、永徳2(1382)年、この地に館を築いて一時的に移り住み、東黒川館 (小高木館、後の鶴ヶ城) の造営に着手した。
小館を築城する際に、東端に神社が造営された。
東黒川館が竣工後も館は黒川西館と称され、その後も維持され続けた。
別称:古館、西館、西黒川館。
伊達政宗公が会津を侵略し拠点を若松に移した際、この小館を母/保春院の居所とした。
有名な母と弟による「政宗毒殺未遂事件」の現場でもある。
残念ながら、城館/小館の遺構は失われている。
▲(会津若松市本町8-22 <旧/桂林寺町>
)
寛永20(1643)年、保科正之公が最上藩から会津移封に伴い、安部井又左衛門により地蔵尊が移されたとされる。
戊辰の役で西軍に寺宝は略奪され、御堂は焼き払われた。
昭和10(1935)年、桜ケ岡地蔵尊として再建。
通称:桜ケ丘出世地蔵尊。
お日市 7月23日。 興徳寺が管轄。
自然景観指定緑地の1つ (第6号)。
文禄元(1592)年、僧/中悦が草創するが、宗旨すら決まらず、ほどなく荒廃してしまう。
その後、天寧寺の住職僧/恕山が招かれ再開山し、天寧寺の末寺となる。
龍淵山、曹洞宗。 本尊は大日如来。
戊辰の役で、すべて焼失。
町廻り三十三観音の第三十一番 馬場名古屋町。
応永30(1423)年、蘆名盛信公が諏方神社の側に自在院を建立、十一面観音を本尊として天満宮の鎮守として、僧/長巌が開山する。
開山時の本尊は十一面観音だったが、元禄3(1690)年に保科正経公の正室/久萬姫の守り本尊として江戸藩邸に移された。
文禄元(1592)年、蒲生氏郷公の町割りで現在地に移転。
福聚山万蔵寺、新義真言宗豊山派。 本尊は大日如来。
江戸時代には、僧侶の学問所/梅檀林が置かれており、金剛寺・観音寺・自在院・弥勒寺が会津真言四ヵ寺と称され、輪番で触頭役を務めた。
江戸中期に護持院が焼失し再建されなかったので、奈良の総本山/長谷寺の末寺となる。
この寺で剃髪した連歌師/猪苗代兼載の歌碑が門前にある。
「花ぞ散り かからむとての 色香かな」
町廻り三十三観音の第十九番 博労町。
お日市 7月24日。
殉難者墓あり。 高橋誠三郎
▲(会津若松市相生町2-18
Tel. 0242-22-3245 <旧/博労町>)
応安2/正平24(1369)年、神道流槍刀術の祖/飯篠山城守家直が、伊勢宮として勧請。 祭神:天照大神。
蘆名氏から松平家までの歴代領主に庇護され、一時は4郡を拝領。
慶応2(1866)年に南町へ遷宮したが、戊辰の役で全て焼失。
明治2(1869)年、仮殿を建立し現在の地に奉遷。
この時に、伊勢宮から神明神社に改称する。
昭和25(1950)年、神殿が完成。
昭和45(1970)年、神楽殿が現在地に改築。
会津で最大の商店街 「神明通り」 は、この神社に由来する。
お日市 8月4日。
▲(会津若松市中町1-46 Tel. 0242-26-3292 <旧/竪町>)
天正3(1575)年、会津出身の僧/河井慶善が開山。
水登山、浄土真宗本願寺派。
本尊は、阿弥陀如来。
山門だけは、戊辰の役での焼失を免れている。
殉難者墓あり。 内藤貫道
▲(会津若松市行仁町12-53 Tel. 0242-22-4526 <旧/寺町>)
永仁2(1294)年、蘆名盛宗公が創建。
[絵図]
信州/諏訪大社からご神体を迎えたが、総本社と同じ名称では失礼にあたるとして、「諏方社」の名にした。
新宮助成との戦いの前に祈願したところ、戦わずして勝利した御礼であった。
以降、歴代の藩主にも崇敬され、大いに栄える。
永享年間(1429〜1440)、中国の大陰暦/宣明暦をもとに、会津の風土にあわせて補正された会津暦が作成された。 その「会津暦」を作成していたのが、諏方社である。
その後、三橋兼也が伊勢の神職に伝えて“伊勢暦”が出来た。
貞享2(1685)年、保科正之公が推し進めた日本初の暦/貞享暦([Wikipedia])が施行されるや、幕府は「江戸、会津、伊勢、三島、南都など」に、暦を発行する権利を与えた。
[暦]
江戸時代には、諏方神の正一位授与を祝って「授光祭」が、例祭とは別に催された。
藩主が江戸詰の年は「陰祭」、在国の年は「本祭」が開催され、山車などの行列が2千人を超え、他に類を見ない盛大さだったという。
戊辰の役の激戦地の一つで、二の鳥居に当時の
弾痕が残っている。
藩士/西郷寧太郎の妻/やほ子など婦女子4名も、ここで自刃している。
拝観の際は、石灯籠の亀趺もお見逃しなく。
この周辺にまつわる民話がある。
お日市 7月27日。
殉難者墓あり。
自然景観指定緑地の1つ (第3号)。
[閑話]
▲(会津若松市本町2-50 Tel. 0242-27-7427 <旧/本二之丁>) 鶴ヶ城から 930m
柱森稲荷神社
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親鸞の二十四輩の一人/無為信が、一ノ堰に庵を草創するも子がなく、、文永元(1264)年に没すると途絶える。
松井山
応永元(1394)年、一向徒/助観が再興。
米代を経て、7世/助慶の時、蒲生氏郷公の町割りで赤井町御堀端 (井上浄光寺の隣り) に移転。
寛文11(1671)年、火災で現在の地/餌指町に移転。
戊辰の役では、寺の近くで西軍が返り討ちに遭い、多数の負傷者が出て運び込んだため、寺宝は略奪されたものの焼失は免れた (焼き打ちを免れた寺は、この寺と融通寺の2寺のみ)。
戦死した藩士から奪い取った刀剣の品定めに斬り付けた跡が本堂に残っている。
終戦後、西軍の分捕り合戦は凄まじかった。 金目の物は全て持ち去り、運べない重い物・大きい物は町民たちに買い取らせ、持ち主にすら強いた。
殉難者墓あり。 楢林主殿
▲(会津若松市千石町6-35 Tel. 0242-22-5688 <旧/専福寺前通>)
文禄2(1593)年、僧/高清が開山。
南榮山 (補陀落山)、真言宗智山派。
本尊は、千手観音。 子生まれに御利益があるという。
弘法大師・大日如来・両界曼荼羅・不動尊も祀られている。
昭和54(1979)年に焼失し、昭和60(1985)年に再建。
町廻り三十三観音の第三十番 千石町。
お日市 7月23日。
▲(会津若松市千石町6-76)
お日市 7月28日。
▲(会津若松市城前 つばくろ公園内)
古図には、「津島天王社」。
お日市 7月15日。
▲(会津若松市上町 <旧/上一之町>)
中御堂
本尊は、延命地蔵尊 (丈60cm)。
豆腐を一丁お供えすると、子供の夜泣きが治まる御利益があるとされる。
お日市 7月22日。
▲(会津若松市中央2丁目 高厳寺の門前)
傍らに「耳神様 (通称:おわんこ様)」の小さな祠がある。
定善寺(馬場名子屋町)の祠だったが、移転の詳細は不詳。
底に穴をあけて紐でつないだお椀 (わんかけ) を奉納すると、耳の病気が治癒する御利益があるといわれる。
伊予/松本から会津に移り住んだ飯岡和泉が、持参の不動尊像と聖徳太子像の各御堂を建立した。 その地は後に両堂村と呼ばれ今に残る。
文禄元(1592)年、釈/玄海が禅宗から浄土真宗に改め、福證寺として草創。
満光山、浄土真宗本願寺派。
本尊は、阿弥陀如来。
戊辰の役で、堂宇・寺宝すべてが焼失。
殉難者墓あり。
▲(会津若松市中央2-8-26 Tel. 0242-22-7856 <旧/紫雲寺前通>)
寛永4(1627)年、加藤嘉明公が会津拝領の際、四国/松山の妙高山法蔵寺を移し、僧/日栄が隆国山法蔵寺として開山。
隆国山、日蓮宗身延派の寺院。
日栄が住職を務めた妙高山法蔵寺は、元徳2(1330)年に日像が開山しており、日栄は法孫であるからか、これを開創期としている縁起もある。
寛永20(1643)年の保科正之公が入府時は廃寺であったが、貞享年間(1684〜1687)に松平正容公が帰依し、それ以降は松平家の庇護を受ける。
戊辰の役で堂宇すべてを焼失する。
殉難者墓あり。 長道・政長
▲(会津若松市蚕養町8-1 Tel. 0242-22-4032 <旧/御持筒町>)
僧/空山が、本郷の三日町に一宇を創建。
如空山
文禄2(1593)年、蒲生氏郷公の命により城下へ移転する。
元和4(1618)年、下野国/円充寺の僧/良乗が会津に移り、中興し本覚寺に改称した。 これを開山とする説もある。
殉難者墓あり。 渋川善助 須田新九郎 森川善兵衛
江戸中期の開通上人作といわれる七言絶句「本覚寺八景」が残っている。
「石部白桜・桂山秋月・滝沢暮烟・
昭和10(1935)年、壇頭/森川善兵衛は画家/松原石舟に漢詩をもとに絵を描かせた。
近年では「会津吟社」発祥の地として知られ、俳人/久保田万太郎・富安風生たちが訪れて、数々の句を残している。
「先住の 思ひにけぶる 蚊遺りかな」 「蟇なくや 会津若松 本覚寺」 (万太郎)
「この寺の 記憶かへりて 柿の秋」 (風生)
自然景観指定緑地の1つ (第21号)。
▲(会津若松市行仁町12-59 Tel. 0242-22-5396 <旧/寺町>)
明応元(1492)年、僧/唯信 (唯傳) が開山し、浄土真宗の布教を開始する。
飛龍山、浄土真宗本願寺派。 本尊は阿弥陀如来。
永禄3(1560)年、僧/唯心が木戸千軒道に建立。
天正2(1574)年、僧/唯雄が堂宇を整備。
文禄元(1592)年、蒲生氏郷公の町割で大町に移築され、従って来た僧/了性が住職に就き、数100人の近江国/木地師が檀徒となって 今も続いている。
「嘉永安政年間覚書」に、客殿・門・鐘楼にある欅の透彫りは城下で一番優れたものと記載されている。
戊辰の役で堂宇すべてが焼失、その後も火災に見舞われる。
昭和47(1972)年、コンクリート製の本堂となる。
▲(会津若松市中央2-3-21 Tel. 0242-22-6174 <旧/木戸千軒道>)
天文6(1537)年、東本願寺10世/証如 (清源とも) により、湯川に中島満福寺として創建。
文禄元(1592)年、仁王寺の僧/祐観清玄 (3世/重玄とも) が現在地に移転し、真宗に改宗し開山。
片岡山、真宗大谷派。
本尊は、阿弥陀如来。
戊辰の役では病院となったため焼失は免れた。
一時は無住となるが、再興される。
昭和24(1949)年、火災により堂宇は全焼、過去帳のみが残る。
後に、現在の堂宇が再建。
鐘楼は、慧日寺にあったものと伝わる。
▲(会津若松市中央2-6-8 Tel. 0242-22-1128 <旧/木戸千軒道、五軒町>)
大同2(807)年、伊舎須弥 (イサスミ) 神社として創建。
崇神天皇元(BC97)年、この地に天翔船に乗って来た伊弉諾尊と伊弉冉尊の投げ落とした鉾が八角の水晶と化したため、人々が敬って社を建て八角と号したのが起源とされる。
乗り捨てられた天翔船が舟石になった伝説も生まれた。
至徳3/元中3(1386)年、蘆名直盛公が小田山の築城にあわせて、社殿を修築して 「亀の宮」 と称する。
同じ「イサスミ」は会津美里町にもあるが、高田村から穀物が奉納されており、こちらが「會津総鎮守」であった。 松平正容公も「會津総鎮守」の扁額を寄進している
(資料)。
戊辰の役では、薩摩兵の屯所になった。
旧書院の床柱に、神社に奉納されていた宝刀の試し斬り痕がある。
西軍が略奪し、刀剣の品定めに斬り付けた跡が、市内各所に残っている。
終戦後、西軍の分捕り合戦は凄まじかった。 金目の物は全て持ち去り、運べない重い物・大きい物は町民たちに買い取らせ、持ち主にすら買い取りを強いた。
お日市 7月30日。
自然景観指定緑地の1つ (第7号)。
▲会津若松市宮町4-50 Tel. 0242-22-7463 <旧/鳥居町>)
お日市 7月30日。
▲(会津若松市宮町 八角神社境内)
永和4/天授4〜嘉慶元/元中4(1378〜1387)年、僧/仁範が草創。 勝曼山、浄土真宗本願寺派。
本尊は、阿弥陀如来。
天正17(1589)年、伊達政宗公が会津侵攻の時に焼き払った。
文禄元(1592)年、蒲生氏郷公の町割で、現在地へ移転した。
下荒井の会津三十三観音の第十四番札所は、当寺の別当。
佐藤豊助
戊辰の役では、北上する西軍が伊達政宗公の会津侵攻時とは比較にならないほど酷い略奪・放火を繰り返し城下に迫るとの報を受け、十三世教導は家族を二手に分け本尊と聖徳太子像を持たせて逃がした。
案の定、想像を絶する略奪・焼き打ちにあい、1欠片の過去帳すら残らず灰燼に帰したが、本尊と聖徳太子像を今に残すことができた大英断だった。
▲(会津若松市昭和町1-10 Tel. 0242-22-5540 <旧/千軒道>)