会 津 の 歴 史 年 表[戻る] [TOP] [行く] [遊ぶ] [知る]江戸時代初期 (伊達〜蒲生〜上杉〜加藤家)
蘆名氏を滅ぼした伊達政宗公は、会津の黒川城 (鶴ヶ城) に入り、中通り地方、山形県の南部、宮城県の南部を領し、南陸奥の諸豪族や、岩手県の一部を支配していた大崎氏や葛西氏も勢力下に入れ、全国的にも屈指の領土を有した。 |
弘治元(1555)年 | |||
11月 | 27日 | ※会津藩主となる上杉景勝公が、越後国魚沼郡上田庄の樺沢城で生れる。 | |
弘治2(1556)年 | |||
※会津藩主となる蒲生氏郷公が生れる | |||
永禄6(1563)年 | |||
※会津藩主となる 加藤嘉明公が生れる。 | |||
永禄10(1567)年 | |||
8月 | 3日 | ※会津藩主となる伊達政宗公が米沢城にて生れる。 | |
天正11(1583)年 | |||
※会津藩主となる蒲生秀行公が生れる。 |
天正17(1589)年 | |||
6月 | 5日 | 伊達政宗公が、櫂上原の戦いで蘆名義広公を破る。 《絵図》 | |
会津侵攻した伊達政宗公が、慧日寺 (磐梯町) に放火し焼失させる。 奇跡的に金堂だけ焼け残るが、その他の神社仏閣は大半が焼失。 |
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6月 | 4日 | 摺上原で勝利した伊達政宗公が、猪苗代城に入る。 | |
6月 | 11日 | 摺上原で勝利した伊達政宗公が、蘆名氏の居城/黒川城に入る。 | |
7月 | 4日 | ※豊臣秀吉が上杉景勝公と佐竹義重に、伊達政宗公の討伐を命じる。 | |
8月 | 17日 | 伊達政宗公は、秀吉に会津侵略弁明のため家臣/遠藤不入斎を上京させる。 | |
この年 | 養泉院が、僧/宥覚により現在地に移転。 | ||
栄泉山一渓庵 (会津美里町) が、元慶寺と改称。 | |||
旭田寺 (下郷町) が、僧/福蔵により長福寺として開山。 | |||
天正18(1590)年 | |||
1月 | 1日 | 伊達政宗公が、黒川城で新春祝賀の佳例/鉄砲打ち始めを行う。 | |
1月 | 3日 | 新春祝賀の佳例/鷹狩りが向羽黒 (本郷町) で挙行される。 | |
1月 | 13日 | 山内氏勝の元に石田三成から本領安堵の書状が届き、河原田盛次と結んで政宗公への反抗を再開する。 しかし、後に書状は反故にされた。 | |
4月 | 5日 | 伊達政宗公が小館で毒を盛られるも、一命を取り戻す。 | |
4月 | 5日 | 伊達政宗公が、毒殺を図った弟/小次郎を手討ちにする。 小次郎に家督を継がせようとした母のはかりごとであった。 |
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8月 | 9日 | 秀吉が黒川の興徳寺に入り、小田原攻めに参加しなかった伊達政宗公から会津領を没収し、小田原討伐に功のあった蒲生氏郷公に与える。 (会津および白河郡・石川郡・岩瀬郡・安積郡) これにて奥州が平定され、秀吉による日本統一が完成する。 |
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8月 | 10日 | 秀吉が黒川城 (鶴ヶ城) に入る。 | |
この年 | ※天海大僧正が、徳川家康に謁見し絶大な信任を得る (前年とも)。 | ||
※天海大僧正が、江戸崎城主の招聘を受け、江戸崎不動院の住職を兼務。 |
8月 | 12日 | 秀吉が、反対するものあらば“なで斬り”せよとの検地令「奥州会津御検地条々」を出す。各地で起きた検地反対の一揆は実際に“なで斬り”された。 | ||
8月 | 中旬 | 蒲生氏郷公は奥州仕置のため出陣し、中新田城・岩手沢城・登米城を接収。 | ||
9月 | 1日 | 蒲生氏郷公が、円蔵寺に200石を寄進。 | ||
9月 | 12日 | 蒲生氏郷公が、示眼寺に100石を寄進。 | ||
この年 | 恵倫寺が、蒲生氏郷公により父/賢秀のため創建、曹月存禅師が開山。 | |||
愛宕神社が、蒲生氏郷公により現在地に戻す。 | ||||
天正19(1591)年 | ||||
1月 | 11日 | 蒲生氏郷公が、会津に帰着。 | ||
1月 | 27日 | 蒲生氏郷公が上洛のため会津 (二本松城) を出立。 | ||
6月 | 17日 | 蒲生氏郷公が、九戸の討伐を命じられ会津に帰着。 同行させた千利休の婿養子/少庵を鶴ヶ城にて庇護する (約2年間)。 |
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7月 | 27日 | 蒲生氏郷公が、兵士23,000を従え、九戸へ向け会津を出発する。 9月1日に九戸の城を攻め落す。 |
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文禄元(1592)年 | ||||
1月 | 21日 | 会津藩主となる加藤明成公が生れる。 | ||
6月 | 1日 | 蒲生氏郷公は、黒川を若松と改称し、城下町の大改造を命令する。 | ||
観音寺<大町>、金剛寺、自在院、実相寺、清林寺、本光寺<南町>、弥勒寺、 融通寺、蓮華寺などが、蒲生氏郷公の町割りで現在地に移転。 漆器製法伝習所設ける。 |
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10月 | 4日 | 京都/百万遍知恩寺の第三十世住職を努めた岌州が死去 (68歳)。 (蘆名氏の重臣/生江大輔の子、青木村出身) |
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12月 | 16日 | 大洪水、太郎水 (太郎氾濫) と呼ばれる。 | ||
この年 | 観音寺 (猪苗代町) が、越後/蘭室により現在地に再建、宗ァが再び開山。 | |||
福証寺が、釈/玄海により草創。 | ||||
紫雲寺が、僧/中悦により草創。 | ||||
蒲生氏郷公が、文禄の役で肥前名護屋に出陣。 | ||||
文禄2(1593)年 | ||||
6月 | 1日 | 只見川が大洪水し、片門が流される。 | ||
6月 | 13日 | 、望楼型七層に改築した天守閣が完成し、蒲生氏郷公が鶴ヶ城と命名。 | ||
9月 | 9日 | 大暴風。 | ||
11月 | 20日 | 蒲生氏郷公が、肥前名護屋から帰着。 | ||
11月 | 庇護されていた千少庵を、京都/楽焼2代目/常慶が引き取りに来る。 | |||
この年 | 城下町の大改造も完成する。 | |||
蒲生氏郷公が播磨国の瓦工/石川久左衛門を呼び寄せ本郷焼が始まる。 | ||||
蒲生氏郷公が城下町に六斎市を開く。 | ||||
田中稲荷神社が、奉祀。 | ||||
千石町に千手院、西名子屋町に秀翁てらが創建。 | ||||
後に泰雲寺となる庵を、僧/雲嶺本龍が結ぶ。 | ||||
文禄3(1594)年 | ||||
6月 | 17日 | 〜18日、只見川が大洪水、柳津虚空蔵の舞台が支える大石と共に流失。 | ||
この年 | 検地が終了し、所領が92万石と判明。 西福寺 (下郷町) が、僧/了順により開山。 |
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岌正が若松/大和町に大安寺を創建。 | ||||
文禄4(1595)年 | ||||
2月 | 7日 | 蒲生氏郷公が京都で急死 (40歳)、遺髪が興徳寺に葬られる。 子の蒲生秀行公 (13歳) が家督を継ぐ。 |
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6月 | 15日 | 〜18日 大雨が続き大洪水、多くの家屋が流失。 | ||
7月 | 21日 | 蒲生秀行公が、会津に初めて入る。 13日とも。 | ||
10月 | 27日 | 坂下村〜栗村 (会津坂下町) で大火、栗村が全焼し坂下村と合併。 | ||
この年 | 後に滝沢本陣となる横山家主屋が建てられる。 | |||
※後に会津藩主となる上杉景勝公が、豊臣秀吉の五大老となる。 | ||||
慶長元(1596)年 | ||||
12月 | 28日 | 蒲生秀行公が、家康の3女/振姫と婚約。 2月とも。 | ||
修験中常坊が、金山の桧原鉱山 (北塩原村) を発見。 | ||||
この年 | 薬師寺<旭市川>が、天台の徒/長覚により市野村に創建。 | |||
光照寺<宮沢>が、宮沢村に創建。 | ||||
大口村 (会津坂下町) に永徳寺が創建。。 | ||||
※天海大僧正がが、無量寿寺北院 (後の喜多院) 住職に就任し再興着手。 | ||||
慶長2(1597)年 | ||||
若松/当麻中町に長泉寺が創建。 | ||||
会津郡西柳原村に徳王寺が創建。 | ||||
慶長3(1598)年 | ||||
1月 | 10日 | 蒲生秀行公が、92万石から下野/宇都宮18万石に移封。 同月16日、その旨が、会津に伝えられる。 |
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1月 | 20日 |
上杉景勝公が加増移封され、会津藩の藩主となる。 (92万石/会津四郡、仙北八郡、田川遊佐、置賜、佐渡) |
3月 | 3日 | 上杉景勝公が、会津に向けて、伏見城を出発する。 | |
3月 | 24日 | 上杉景勝公が、石田三成とともに会津に入府する。 旧会津藩領、米沢などの出羽3郡、佐渡3郡を合わせて120万石となる 直江兼続は、米沢に入る。 |
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この年 | 上杉謙信の墓が、越後/春日山城より鶴ヶ城内に移される。 | ||
上杉景勝公に従って会津に来た菩提寺/林泉寺を越後から移築。 | |||
上杉景勝公に従った越後/弘長寺の僧/信随が、光徳寺を弘長寺と改称。 | |||
長福寺が、僧/守応により草創。 | |||
正法寺が、越後/天倫寺の僧により開山。 | |||
越後の僧/量外が石塚観音堂の側に東昌寺を建立。 | |||
慶長4(1599)年 | |||
常慶寺が、越後/常慶寺の慶巌により開山。 | |||
上杉景勝公が、漆木の調査を行い殖産を発布。 | |||
願成就寺が、若松/徒之町に創建。 | |||
常慶寺が、南町に創建。 | |||
慶長5(1600)年 | |||
2月 | 2日 | [神指城]上杉景勝公が、神指ヶ原への築城を決める。 この築城が、直江兼続の「直江状」へとつながる。 出羽仙道諸城の修築を早期に行うよう督励する。 |
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2月 | 10日 | [神指城]上杉景勝公が、直江兼続に新城を築くよう命じる。 | |
3月 | 13日 | 上杉景勝公が、養父/上杉謙信の二十三回忌法要をする。 | |
3月 | 18日 | [神指城]本丸の築城を開始。 佐竹義宣が築城の職人300人を送る。 総監/直江兼続の下、弟の大国実頼、普請奉行/ 甘槽景継が指揮を執る。 |
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3月 | 21日 | 徳川秀忠より、書状が届く。 | |
3月 | 23日 | 田島の藤田信吉が家康方に寝返る。この功績で長らく直轄領 (御蔵入)。 | |
4月 | 13日 | 直江兼続宛に、家康から弁明の上洛を促す書状 (4月1日付け) を、僧/承兌が届ける。 | |
4月 | 14日 | 直江兼続が、家康の返書を書く。 | |
4月 | 27日 | ※徳川家康が、会津出兵の意向を表明する。 | |
5月 | 3日 | 上杉景勝公からの返書(直江状)を読んで激怒した家康が、諸大名に会津出兵を命じる。 | |
5月 | 10日 | [神指城]12万人を動員し、二ノ丸の工事が始まる。 | |
6月 | 1日 | [神指城]本丸の土塁と石垣、水掘、二ノ丸の土塁と水掘が完成。 | |
6月 | 2日 | ※徳川家康が、会津出征を関東の諸藩に通告する。 | |
6月 | 6日 | ※家康が大坂城に諸藩の将を集め、会津遠征の陣容と進路、担当を通達。 | |
6月 | 10日 | 上杉景勝公が、家康の会津遠征の報告を受け、部下に決戦の意を通達。 防備のため白河や横川、福島に家臣を派遣し、城の修理などを指示する [神指城]臨戦態勢を命じ、堀に水を入れる。 |
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7月 | 2日 | ※徳川家康が、会津出征の途中で江戸城に入る。 | |
7月 | 7日 | ※徳川家康が、江戸城で会津出征の期日など、軍令を下す。 横川に防塁と、堂谷坂に陣を築く。 佐竹義宣は、家康の命で棚倉/赤館城に陣を築くが、景勝公と通じ動かず。 |
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7月 | 9日 | 白河城の芋川に急きょ城塁を修築し、兵士を増員し軍備を強化。 | |
7月 | 21日 | ※徳川家康が江戸城を出発し、会津攻めが開始される。 | |
8月 | 5日 | ※会津出征を中止した徳川家康が、江戸城に帰るため発つ。 | |
8月 | 10日 | 上杉景勝公に直江兼続が、家康追撃を願い出るも許されず。 「退く者を討つは、“義”に反する」 |
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8月 | 25日 | ※徳川家康が伊達政宗公に「百万石」の保証 (8月22日) をしたため、防御のため福島に増派兵する。 | |
9月 | 3日 | 伊達政宗公から上杉景勝公と組したいとの願いを、直江兼続は保留。 | |
9月 | 13日 | 上杉景勝公が、最上義光の密約違反に対し、直江兼続に攻撃を指示。 | |
9月 | 15日 | ※関ヶ原の戦いが勃発。 上杉景勝公は恩顧に報いるため西軍に就く。 | 9月 | 29日 | 関ヶ原の戦いで西軍が敗退との報で、直江兼続は全軍に退却を命ずる。 |
10月 | 1日 | 直江兼続が、長谷堂城の包囲を解き撤退する。 | |
10月 | 3日 | 直江兼続が、荒砥城からも撤退し、会津へ引き返す | |
10月 | 20日 | 直江兼続が、鶴ヶ城に入る。 | |
11月 | 3日 | 上杉景勝公が、本多正信らを頼って家康に謝罪する。 | |
この年 | 大林寺が、天寧寺14世の住職/嶽翁怒山により隠居寺として草創。 | ||
慶長6(1601)年 | |||
7月 | 3日 | 上杉景勝公が、直江兼続を伴って、京都に向けて出発する。 | |
7月 | 24日 | 上杉景勝公が、京都に到着する。 | |
8月 | 8日 | 上杉景勝公が、家康と会見。 | |
8月 | 17日 | 上杉景勝公が、家康から米沢への移封を内示される。 | |
8月 | 24日 | 上杉景勝公が、会津藩120万石から米沢藩30万石移封と通告される。 蒲生秀行公が、会津藩60万を受領。 |
9月 | 26日 | 蒲生秀行公 (19歳)が、鶴ヶ城に入る。 | |
11月 | 26日 | 熊倉村に六斎市を開く。 | |
11月 | 28日 | 上杉景勝公の米沢への移封が完了。 | |
この年 | 淨教寺 (喜多方市) が、下三宮村に草創。 | ||
安穏寺 (猪苗代町) が、猪苗代城代/関十兵衛により創建、僧/圓愚が開山。 | |||
慶長7(1602)年 | |||
後に会津藩主となる蒲生忠郷公が生れる。 | |||
高田/小俣の龍門寺の僧/翁吉が、角館から蘆名盛氏公の像を持ち帰って、 宗英寺に納める。 |
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慶長8(1603)年 | |||
滝沢村石ヶ森で金鉱が見つかる。 《慶長14(1609)年までに産出量が228万両に達する》 |
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蒲生秀行公の家臣/倉垣の支援により、僧/良然が阿弥陀寺を開創。 | |||
※天海大僧正が徳川家康の帰依を受け、平将門の霊や不動尊を要所に配置し、東海道五十三次の整備など仏法による江戸の都市造りに着手。 | |||
慶長9(1604)年 | |||
7月 | 22日 | 大雨のため各地で氾濫。 | |
この年 | 久福寺が、法華の僧/日円により甲賀町に創建。 | ||
青龍寺が、僧/松鶴により大江村に創建。 | |||
慶長10(1605)年 | |||
2月 | 桧原山で金鉱が見つかる | ||
この年 | 長命寺が、教如上人により草創。 | ||
秀安寺が、天寧寺の住職/恕山により草創。 | |||
慶長13(1608)年 | |||
極楽寺<本町>が、僧/大聴により半兵衛町に創建。 | |||
※天海大僧正が、織田信長により疲弊した延暦寺の再興に着手。 | |||
慶長14(1609)年 | |||
3月 | 12日 | 蒲生家内で紛争が起こり、蒲生郷成と関一利らが出奔する。 | |
3月 | 15日 | 赤井町西光寺裏の失火が、大風で大火となる。 | |
慶長15(1610)年 | |||
9月 | 1日 | 永楽銭を廃して、京銭にする。 | |
この年 | 若松/徒之町に一乗寺が創建。 | ||
宮昌寺が、宮下村に創建。 | |||
慶長16(1611)年 | |||
1月 | 3日 | ※江戸藩邸が焼失。 | |
7月 | 蒲生秀行公が只見川 (魚渕など) で大規模な毒揉み漁を行う。 | ||
8月 | 13日 | 大地震が発生。 | |
8月 | 21日 | 再度の大地震が発生し、倒壊家屋2万戸、死者3千7百人を出す。 鶴ヶ城も倒壊し、円蔵寺菊光堂、鳥追観音堂なども壊滅する。 青津観音 (会津坂下町) が大地震で壊れ、現在の亀ヶ森古墳の後円部の頂上に再建。日橋川/山崎の山崩れで山崎湖が出現、越後街道が通行不可。 「辰刻 大地震 会津川下流崩填塞 故洪水氾濫 欲浸四郡」 |
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9月 | 24日 | スペインの探検家/セバスティアン・ビスカイノが会津へ来る。 | |
この年 | 若松/千軒道に定善寺が創建。。 | ||
本泉寺が、僧/行運により本多村に創建。 | |||
慶長17(1612)年 | |||
恵倫寺が、鶴ヶ城/西の米代から現在の地に移築。 | |||
5月 | 14日 | 蒲生秀行公が没 (30歳)。 嫡男の蒲生忠郷公が10歳で家督を継ぐ。 | |
この年 | 若松/甲賀町に智光寺が創建。 | ||
若松/手明町に宝泉寺が創建。 |
慶長18(1613)年 | |||
6月 | 18日 | 後の名家老/田中正玄が生れる。 | |
9月 | 2日 | 大風。 | |
10月 | 5日 | 蒲生忠郷公と弟/忠知の兄弟が、江戸に向かい若松を出発。 | |
10月 | 15日 | 蒲生忠郷公と弟/忠知の兄弟が、若松に帰る。 | |
この年 | 蒲生忠郷公が、弘真院を創建。 | ||
若松/材木町に栄岸寺が創建。 | |||
遅越渡村 (会津美里町) に善応寺が創建。 | |||
2年前の大地震で倒壊した鳥追観音堂が再建され、現在に至る。 | |||
慶長19〜元和元(1615)年 | |||
3月 | 24日 | 東六日町の出火が大火となる。 | |
7月 | 25日 | 幕命により煙草を禁止する。 | |
この年 | 元慶寺 (会津美里町) が、現在地に社殿を建立し移転。 | ||
長福寺 (只見町) が、水害により現在地に移転。 | |||
金龍寺が、滝谷村に創建。 | |||
長徳寺が、針生村に創建。。 | |||
元和2(1616)年 | |||
1月 | 3日 | 江戸の蒲生邸が、御成門を残して焼失。 | |
2月 | 9日 | 桑原村と宮下村 (三島町) の農民が、二ノ沢の表層雪崩で21名が死亡。 | |
この年 | 松明寺が、鶴沼村に創建。 | ||
普門寺が、安田村に創建。 | |||
正覚寺が、西勝村に創建。 | |||
西光寺 (喜多方市) が草創。 | |||
※徳川家康が死去し、神号について「権現」「明神」の論争に勝利した天海大僧正が東照宮建立に着手。 | |||
元和3(1617)年 | |||
9月 | 15日 | 大地震。 | |
この年 | 大運寺が、寂誉上人により草創。 | ||
東明寺が、本二之丁から大町名古屋町に移る。 | |||
※天海大僧正 が、コ川家康の霊柩を久能山東照宮から日光東照宮へ遷座する一式を執り行う。 | |||
元和4(1618)年 | |||
10月 | 9日 | 間方村 (三島町) 一帯に大降雪。 作物の被害甚大。 | |
12月 | 2日 | 船渡村 (会津坂下町) から野沢村 (西会津町) へ至る束松峠が開通。 | |
本覚寺が、良乗上人により開山。 | |||
元和5(1619)年 | |||
見性寺が、良然上人の隠居寺として草創。 | |||
遍照寺が、京都から帰郷した僧/宥栄により浜崎村に草創。 | |||
元和6(1620)年 | |||
3月 | 28日 | 〜4月20日まで雨が降り続き、藤沢村 (喜多方市) の沼が決壊。 | |
7月 | 16日 | 利田村 (喜多方市) 阿賀川で大岩が川へ崩れ、1丈の滝となる。。 | |
元和7(1621)年 | |||
2月 | 25日 | 若松大火。 | |
9月 | 20日 | 城下での浪人宿泊や請人、借金や口入れ、人身売買、夜番などについての藩令が出される。 | |
この年 | 泰雲寺が、創建される。 | ||
西光寺(西会津町)に、京都/妙心寺の僧逸伝作「紙本著色蒲生氏郷像」が奉納。 | |||
元和8(1622)年 | |||
8月 | 16日 | 儒学者/山鹿素行が、浪人/山鹿高道の子として会津若松で誕生。 | |
8月 | 16日 | 長泉寺<松山>が、村松新田村に創建。 | |
元和9(1623)年 | |||
3月 | 20日 | ※上杉景勝公が没 (69歳)。 | |
4月 | 24日 | 天海大僧正が、常光寺を天台宗に改宗。 | |
この年 | 正教寺が、伊予の栄玄により開山。 | ||
実成寺が、日謡上人により現在地に移転。 | |||
徳正寺が、福原新田村に建立。。 | |||
天王寺 (会津美里町) が、現在地に再建され移転。 | |||
寛永元(1624)年 | |||
後に桂松院となる松園寺が、日舜により開山。 | |||
円福寺 (下郷町) へ、「紙本着色胎蔵金剛両界曼荼羅」が寄進される。 | |||
光照寺 (会津坂下町) が、僧/順覚により開基。 | |||
長栄寺が、郡山村に創建。 | |||
若松/糠塚町に松円寺が創建。 | |||
光照寺が、僧/順覚により坂下村に創建。 | |||
※天海大僧正が、江戸城の鬼門に当たる忍岡に寛永寺創建を発願する。 | |||
寛永3(1626)年 | |||
3月 | 12日 | 唯一、戦火を免れた慧日寺金堂 (磐梯町) が、火災により焼失。 薬師像が焼失。 |
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寛永4(1627)年 | |||
1月 | 4日 | 蒲生忠郷公が、鶴ヶ城で没 (26歳)。 世継ぎがなく、蒲生家の会津藩統治は終わる。 弟/忠知は出羽国/上山藩4万石から伊予国/松山20万石へ移封。 |
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1月 | 23日 | 蒲生忠郷公の遺体が、高巌寺に埋葬される。 |
2月 | 10日 | 加藤嘉明公が、伊予国/松山20万石より会津40万石に移封となる。 | |
5月 | 4日 | 加藤嘉明公が、鶴ヶ城に入る。 | |
この年 | 法華寺が、加藤嘉明公に従い四国/松山の法華寺を移し、僧/日栄が開山。 | ||
白川街道の険しい背炙峠を廃し、滝沢峠を通る道を開く。 | |||
鴫山城が廃城。 | |||
寛永7(1630)年 | |||
9月 | 19日 | 只見川が氾濫し、柳津虚空蔵の鐘楼が流失。 翌年の6月19日とも。 | |
寛永8(1631)年 | |||
9月 | 12日 | 加藤嘉明公が江戸で没 (69歳)。 嫡子の加藤明成公が家督を継ぐ。 | |
9月 | 16日 | 〜19日、大洪水。 黒川 (湯川) が氾濫。 日橋川の氾濫で、再び山崎が塞がる。 後に「次郎水」と呼ばれる。 |
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南山/南郷の伊奈川流域が氾濫、大洪水。 | |||
寛永9(1632)年 | |||
滝沢峠の修復/整備を開始する。 | |||
寛永10(1633)年 | |||
9月 | 19日 | 只見川が氾濫し、柳津虚空蔵の鐘楼が流失。 翌年の6月19日とも。 | |
寛永12(1635)年 | |||
3月 | 14日 | 高田村 (会津美里町) で大火、賜った森林の地を開墾し境新田村を開く。 | |
寛永13(1636)年 | |||
5月 | 24日 | ※伊達正宗公が桜田の上屋敷にて没 (70歳)。 | |
寛永14(1637)年 | |||
7月 | 8日 | 「星月を貫く」 | |
この年 | 吹屋村 (喜多方市) に長円寺が創建。 | ||
寛永16(1639)年 | |||
3月 | 1日 | 鶴ヶ城の大改修が着手される。 | |
4月 | 9日 | 坂下村 (会津坂下町) で大火。 | |
4月 | 16日 | 加藤明成公の家臣/堀主水が一族郎党300余人を連れて出奔 (会津騒動)。 | |
寛永17(1640)年 | |||
5月 | 28日 | 「夕赤雲天に満つ」 | |
寛永18(1641)年 | |||
3月 | 15日 | 会津騒動が、幕府に知られる。 | |
6月 | 18日 | 「大雨雹」 | |
この年 | 鶴ヶ城の大改修が終了。 七層から五層塔型/白亜の総塗籠天守閣となり、西出丸と北出丸も拡張され、幕期末まで威容を誇る。 | ||
北宮諏方神社 (喜多方市) が、現在地に社殿を建立。 | |||
寛永19(1642)年 | |||
全国的に凶作、会津も不作の状況下、加藤氏の誅求により、 ◇ 南山/黒谷組の百姓144戸が逃散。 ◇ 南山/伊南の百姓300余人が逃散。 など領内で百姓2千余人が逃散。 |
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岩尾村 (喜多方市) に白銀が出る。 後の加納鉱山。 | |||
寛永20(1643)年 | |||
1月 | 20日 | 磐梯山「地鳴動する」 | |
5月 | 2日 | 加藤明成公が、家臣/堀主水と争う会津騒動の責で、所領を返上する。 | |
10月 | 2日 | ※天海大僧正が天寿を全うし、寛永寺の子院/本覚院にて入滅 (108歳)。 | |
正保3(1646)年 | |||
6月 | 13日 | 大川が氾濫し、2〜3千石の田畑が損亡、年貢が減額される。 | |
慶安元(1648)年 | |||
7月 | 13日 | 姥堂川が氾濫し、7〜8千石の田畑が損亡。 | |
慶安3(1650)年 | |||
7月 | 4日 | 大洪水、多くの堤防が決壊。 | |
承応4(1655)年 | |||
8月 | 11日 | 大洪水。 | |
万治2(1659)年 | |||
7月 | 2日 | 豪雨が続き、大洪水。 | |
万治4(1661)年 | |||
1月 | 21日 | ※加藤明成公が没 (70歳)。 |
ツールチップあり .
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