会 津 の 歴 史 年 表[戻る] [TOP] [行く] [遊ぶ] [知る]江戸時代/前半 (保科/松平家) |
慶長16(1611)年 | |||
5月 | 7日 | ※藩主となる保科正之公が、2代将軍/徳川秀忠の4男として生れる。 | |
元和2(1616)年 | |||
4月 | 17日 | ※保科正之公の祖父/徳川家康が没 (75歳)。 | |
元和3(1617)年 | |||
※保科正之公が、高遠藩主/保科正光の養子となる。 | |||
寛永6(1629)年 | |||
※保科正之公が19歳の時、父/徳川秀忠の継室/江の死により父と初面会。 | |||
寛永8(1631)年 | |||
10月 | 7日 | ※保科正之公の養父/保科正光が没 (71歳)。 | |
11月 | 12日 | ※保科正之公が高遠藩3万石の藩主となる。 | |
寛永9(1632)年 | |||
1月 | 24日 | ※保科正之公の実父である2代将軍/徳川秀忠が没 (54歳)。 | |
寛永12(1635)年 | |||
9月 | 17日 | ※保科正之公の実母/於静 (浄光院) が没 (52歳)。 | |
寛永13(1636)年 | |||
7月 | 21日 | ※保科正之公が、山形藩20万石に移封。 | |
寛永16(1639)年 | |||
9月 | 26日 | ※保科正之公が、芝新銭座に、3万余坪の地を与えられ、中屋敷とする。 | |
寛永18(1641)年 | |||
※江戸四大飢饉の1つ「寛永の大飢饉 (寛永19年〜同20年)」 (寛永18年〜同20年の説も) |
寛永20(1643)年 | |||
1月 | 10日 | 夜半に数度の大地震。 この年の前4半期に磐梯山の鳴動が頻発。 |
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5月 | 3日 | 加藤明成公が、御家騒動の不手際で会津藩40万石を没収される。 前日の2日に明成公が封土の返上を願い出ていた。 |
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7月 | 4日 | 保科正之公が、会津藩を拝領する。 | |
8月 | 8日 | 保科正之公が、会津藩23万石 (+新田2万石+預所5万5千石) に移封。 | |
8月 | 12日 | 初めて大町/札之辻に、制札が掲示される。 | |
8月 | 〜 | お供の建福寺、善龍寺、大龍寺、浄光寺、大法寺などが会津に移る。 | |
10月 | 2日 | ※会津で生まれ育った天海大僧正が没 (108歳とされる)。 | |
10月 | 19日 | 5日、10日、15日、20日、25日、晦日の月6回を米市と定める。 | |
12月 | 1日 | 8品目「漆/鉛/蝋/熊皮/巣鷹/女/駒/紙」の藩外持出制限の留物令を出す。 | この年 | 保科正之公に従った最上/幸甫により長命寺に改称。 |
叶津番所 (只見町) が設置。 | |||
西円寺 (猪苗代町) が、火災のため現在の地に移る | |||
正保元(1644)年 | |||
12月 | 9日 | 江戸に蔵元を立てて、蝋の売買を藩の直売とする。 | |
正保2(1645)年 | |||
2月 | 保科正之公が、瀬戸出身の水野源左衛門を招聘し、本郷に住まわせる。 | ||
3月 | 14日 | 住吉神社の拝殿から出火し、材木町42戸が焼失。 | |
6月 | 17日 | 初の吉利支丹奉行を置く。 | |
正保3(1646)年 | |||
4月 | 26日 | 大地震が発生。 | |
7月 | 27日 | 洪水が発生。 | |
9月 | 27日 | 建福寺に、長福寺跡を下げ渡す。 | |
11月 | 23日 | 樹林寺に、建福寺跡を下げ渡す。 | |
12月 | 27日 | 第2代藩主となる保科正経公が生れる。 | |
この年 | 落合村の肝煎/鈴木四郎右衛門が、中の湯 (磐梯町) を開く。 | ||
正保4(1647)年 | |||
3月 | 6日 | 漆の苗木の植栽を奨励する。 | |
6月 | 15日 | 諸宿駅を制定。 | |
11月 | 29月 | 本郷焼の陶祖/水野源左衛門が没。 弟/長兵衛が招聘。 | |
正保5〜慶安元(1648)年 | |||
7月 | 13日 | 姥堂村一帯が大洪水、穀類8千石を水損。 | |
この年 | 保科正之公が、人身売買を禁ずる。 | ||
慶安2(1649)年 | |||
3月 | 13日 | 年季・一季の奉公人御仕置十六ヶ条が制定。 | |
4月 | 23日 | 猪苗代本町から出火、30軒焼失。。 | |
5月 | 3日 | 飯豊山麓から湧出。 | |
11月 | 13日 | 柳津村 (柳津町) から出火、焼失80戸。 慶安3(1650)年3月2日とも。 | |
慶安3(1650)年 | |||
4月 | 1日 | 季節外れの積雪。 | |
7月 | 保科正之公の生母/浄光院の遺骨を、身延山/篤信廟 (山梨) へ再改葬。 | ||
7月 | 4日 | <大雨洪水、氾濫で穀類1千石の損害。 | |
この年 | 一箕山滝沢寺が、 一箕山八幡神社に創建。 | ||
慶安4(1651)年 | |||
3月 | 27日 | 南山御蔵入の人数書上。 男/12,817人、女/11,048人、合計/23,865人 | |
4月 | 20日 | ※兄の3代将軍/家光が没 (48歳)。 家光の遺言により、保科正之公が次の幼い将軍/家綱の後見人となる。 |
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7月 | 9日 | 「星あり月を貫く」 | |
11月 | 16日 | 御救金を、藩士に貸与する。 (閏6月15日とも) | |
この年 | 観音寺<竹屋> (喜多方市) が、現在地へ移転。 | 岩瀬郡勢至堂村が会津藩の支配地となる。 翌年には預り地となる。 | |
慶安5〜承応元(1652)年 | |||
12月 | 1日 | 保科正之公が、幼君/家綱の教育書として編纂させた「輔養篇」を献上。 | |
この年 | 山鹿素行が、播州赤穂藩に1千石の高禄で仕官する。 | ||
承応3(1654)年 | |||
6月 | 19日 | 高田村 (会津美里町) で、初の馬市が開かれる。 | |
10月 | 28日 | 農民たちに、年貢を納めた後の副業を奨励する。 | |
承応4〜明暦元(1655)年 | |||
2月 | 7日 | 磐梯山「夜地震、終日鳴動す」 | |
3月 | 27日 | 飢饉時に領民を救済するための社倉制を創設。 | |
8日 | 10日 | 大風雨が吹き荒れる。 窮民に施米を実施する。 | |
明暦3(1657)年 | |||
1月 | 23日 | 明暦の大火が発生、保科正之公が見事な統率力・行動力を発揮する。 | |
2月 | 23日 | 会津松平家墓所として、院内御廟が開山。 明暦の大火の消火活動が原因で保科正之公の次男/正頼が没し遺骸を埋葬。 6月に墓碑建立。 |
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万治元(1658)年 | |||
3月 | 8日 | 倹約令が公布される。 | |
3月 | 28日 | 山崩れで、沼尻温泉 (猪苗代) が沸き出る。 | |
5月 | 15日 | [江戸] 三田に下屋敷を構え。実質的な本拠地となる | |
万治2(1659)年 | |||
2月 | 30日 | 江戸に大地震。 田島地域 (只見町・南会津町) で、倒壊236棟・死亡8名・負傷79名。 会津の総数、倒壊309棟・死亡28名・負傷100余名。 |
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4月 | 21日 | 岩代大地震、倒壊309棟・死亡39名。 | |
5月 | 8日 | 価格高騰のため、他領へ米を移出することを禁ずる。 | |
6月 | 22日 | 麦・大豆などの穀物類の作付けを奨励。 | |
7月 | 2日 | 大雨洪水。 | |
万治3(1660)年 | |||
4月 | 3日 | 博奕の制禁など6ヶ条を定める。 | |
7月 | 23日 | 空前の大雨、大洪水。 猪苗代湖の湛水で40ヶ余村、大川の氾濫で57ヶ村に水損。 |
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8月 | 20日 | 大風。 | |
11月 | 6日 | 飢饉に備えるための囲い米を、奨励する。 | |
この年 | 山鹿素行が、播州赤穂藩への仕官を辞して、江戸に戻る。 | ||
寛文元(1661)年 | |||
6月 | 27日 | 「迅雷大風雹が降る」 | |
7月 | 18日 | 大風雨により、只見川が決壊。 | |
閏8月 | 6日 | 藩士の殉死を禁ずる (幕府に建議、遅れること2年後に幕府も採用) | |
寛文2(1662)年 | |||
1月 | 25日 | 門前 (柳津町) より出火し、町が悉く焼失。 | |
3月 | 11日 | 南町で類焼、焼失46戸。 | |
寛文3(1663)年 | |||
4月 | 8日 | 領内の組々23ケ所に籾蔵が建てられる。 | |
〃 | 〃 | 土湯街道が開通。 | |
7月 | 25日 | 身分を問わず90歳以上の者へ、養老の玄米5合/日の支給開始。 日本初の年金制度。藩士4人、町方/男4人・女7人、郷村140人の合計155人。 |
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寛文4(1664)年 | |||
5月 | 20日 | 一般庶民としては日本最古の学問所「稽古堂」が開校。 | |
10月 | 10日 | 土葬の埋葬地として、大窪山、郷之原坊主山、小山を定める。 | |
この年 | 儒葬の教えにより火葬を禁止する。 | ||
寛文6(1666)年 | |||
4月 | 「会津寺社縁起」全二十四巻成る。 | ||
5月 | 2日 | 大風雨で各河川が氾濫し、特に湯川の決壊で被害甚大。 同月18日に大風の追い打ち。 |
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8月 | 6日 | 「会津風土記」が編纂。 | |
10月 | 3日 | 朱子学を非難した山鹿素行が、赤穂藩預けの処分となる。 | |
この年 | 鶴ヶ城稲荷神社が、保科正之公により三の丸から本丸に移築。 | ||
寛文7(1667)年 | |||
2月 | 10日 | 郷頭・肝煎が開墾して新田は、収納の半分が開墾者に与えると布告。 | |
閏2月 | 29日 | 長命寺が、甲賀町から現在地に移る。 | |
4月 | 1日 | 会津の主要街道に一里三十六町の制度を施行し、一里塚を築く。 | |
7月 | 5日 | 蚕養国神社が再興される。 | |
7月 | 17日 | 、7月27日、8月18日、大雨・大洪水。 | |
10月 | 22日 | 博労町に馬市を開く。 | |
寛文8(1668)年 | |||
1月 | 28日 | 「白気西方に見える」 | |
2月 | 1日 | ※江戸で火事が多発し、芝藩邸が類焼。 同年3月4日に箕田藩邸も類焼。 | |
4月 | 11日 | 保科正之公が、子孫への遺訓とし「家訓十五条」を定める。 | 10月 | 24日 | 「二程治教録」が完成。 |
寛文9(1669)年 | |||
1月 | 29日 | 第3代藩主となる松平正容公が生れる。 | |
4月 | 27日 | 初代藩主/保科正之公が隠居し、保科正経公が家督を継ぐ。 |
寛文10(1670)年 | |||
3月 | 4日 | 御薬園に薬草園を設け、各種の薬草栽培を始める。 | |
4月 | 28日 | 初の城下に時刻を知らせる半鐘が打たれる。 | |
6月 | 3日 | 大暴風雨、大川や日橋川が大洪水。 | |
6月 | 8日 | 猪苗代湖での、荷物運送の規定を定める。 | |
この年 | 赤穂浪士/堀部安兵衛が、会津坂下町に生れる。 | ||
寛文11(1671)年 | |||
2月 | 9日 | 若松/湯本村の羽黒山が崩壊。 | |
3月 | 7日 | 赤井町から出火、焼失670戸。 士邸204軒、卒家68軒、町家188軒、寺6宇が焼失とも。 |
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5月 | 6日 | 猪苗代湖での、運送船の規則を定める。 | |
8月 | 27日 | 大洪水で、牛沢組・坂下組・青津組の刈り取り稲が流失。 | |
10月 | 24日 | 大風。 | |
(この年) | 会所 (藩の役所) を割場から、本二之丁と大町通りの角地に移す。 敷地面積は、1千6百余坪に及ぶ。 |
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寛文12(1672)年 | |||
1月 | 23日 | 火消七ヶ条が定められる。 | |
2月 | 6日 | 〜、疫病大流行。 | |
5月 | 28日 | 名家老/田中正玄が没 (62歳)。 | |
6月 | 3日 | 向井吉重が「会津旧事雑考」を完成。 8月6日に九巻を献上。 | |
10月 | 1日 | 山崎闇斎や服部安休たちが携わった「会津神社志」全1巻、及び「会津寺社総録」全5巻の編纂が完成。 | |
12月 | 18日 | 保科正之公が箕田藩邸で没 (63歳)。 | |
延宝元(1673)年 | |||
3月 | 27日 | 保科正之公を、見弥山 (猪苗代町) の寿蔵に埋葬する。 | |
6月 | 長雨が続き、各地で洪水。 | ||
延宝2(1674)年 | |||
1月 | 13日 | 豪雪、柳津など被害甚大。 | |
2月 | 22日 | 大町に、火の見櫓が設置される。 | |
6月 | 10日 | 藩士学問所である「講所」が、甲賀町通/本一ノ丁に創設。 | |
〃 | 〃 | 但心寺が、僧/行春により草創。 | |
6月 | 11日 | 川々洪水。 同月26日、霖雨。 | |
8月 | 1日 | 「會津増風土記」「會津外風土記 (会津四郡以外の藩領を記述)」が完成。 | |
11月 | 13日 | 柳津村 (柳津町) で大火。 | |
この年 | 延べ8万人を動員して土田堰が開削され、土津神社を維持するための土田新田村の本格的な開墾が開始。 | ||
延宝3(1675)年 | |||
4月 | 1日 | 門田堰が完成。 | |
4月 | 20日 | 若松/袋丁より出火、焼失165戸。 | |
8月 | 19日 | 保科正之公を御祭神とする土津神社 (猪苗代町) が、造営される。 | |
10月 | 2日 | 猪苗代方面で大風。 竜巻か? | |
この年 | 正法寺 (昭和村) が、現在地に移築。 | ||
延宝4(1676)年 | |||
4月 | 20日 | 米代二ノ丁〜河原町から出火、焼失158戸。 | |
7月 | 13日 | 年3回に分けて、禄米を支給する。 | |
8月 | 12日 | 大雨、湯川や大川などが洪水。 | |
延宝5(1677)年 | |||
1月 | 14日 | 〜23日、「赤雪降る 」 | |
延宝6(1678)年 | |||
4月 | 28日 | 柳津村 (柳津町) で大火、焼失88戸。 | |
8月 | 17日 | 地震。 | |
延宝7(1679)年 | |||
横山家主屋を、滝沢本陣とする。 | |||
延宝8(1680)年 | |||
2月 | 30月 | 大風。 | |
8月 | 11月 | 保科正経公に子がいないため、弟の保科正容公を養嗣子とする。 | |
閏8月 | 6日 | 大暴風、湯川や大川などが洪水。 | |
延宝9〜天和元(1681)年 | |||
2月 | 19日 | 保科正経公が隠居し、弟の保科正容公が家督を継ぐ。 |
4月 | 11日 | 大町二ノ丁から出火、焼失53戸。 (544軒とも、650戸とも) | |
4月 | 13日 | 本三ノ丁から出火、焼失680戸。 (315軒とも、11〜13日で1200余戸とも) | |
5月 | 友松氏興が「見弥山由来記」を著す。 | ||
8月 | 3日 | 表町から出火、焼失13戸。 (50戸とも) | |
8月 | 7日 | 「風雨甚しく、川々洪水」、「風雨、洪水家を漂す」 | |
10月 | 3日 | 第2代藩主/保科正経公が没 (36歳)。 | |
この年 | 正蓮寺が、現在地に再建。 | ||
天和2(1682)年 | |||
4月 | 23日 | 塩川村 (喜多方市) で出火、焼失26件。 | |
11月 | 家臣/伊南與八郎が「続太平記 全三十巻」を著す。 | ||
この年 | 保科正経公が着手した小平潟天満宮 (猪苗代町) の現在地移転が竣工。 | ||
天和3(1683)年 | |||
1月 | 幕府の命により、百姓や町人の帯刀、華美な衣服を禁止する。 | ||
9月 | 1日 |
日光大地震、南山領の被害甚大。 五十里湖が出現し、南山通りが寸断され、舟運となる。 |
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貞享元(1684)年 | |||
2月 | 3日 | 横田俊益が「土津神霊言行禄」を著す。 | |
3月 | 佐瀬与次右衛門が「会津農書」3巻、和歌に託した「会津歌農書」を著す。 12月6日とも。 |
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6月 | 2日 | 猪苗代・桧原・北方に降霜による冷害で、作物被害が甚大。 | |
10月 | 27日 | 松平正容公が、大手前竜ノ口の屋敷を拝領。 | |
12月 | 27日 | 領内での心学を禁止する。 翌/貞享2(1685)年12月25日に禁を解く。 | |
貞享2(1685)年 | |||
9月 | 26日 | 儒学者であり軍学者の山鹿素行が江戸で没 (64歳)。 | |
この年 | 諏方社が幕府から暦を発行する権利を与えられ「会津暦」誕生。 | ||
貞享3(1686)年 | |||
1月 | 19日 | 洲谷沢村 (喜多方市) で山崩れ。 | |
閏3月 | 24日 | 古町村 (田島町) で火災。 | |
6月 | 11日 | 東尾岐村西沢 (会津美里町) で火災。 | |
6月 | 11日 | 藩/村方の人口が、159,003人。 | |
貞享4(1687)年 | |||
6月 | 15日 | 高田村 (会津美里町) 一帯を中心に大雨、洪水。 | |
11月 | 27日 | 幕府に請うて南山領を返却、幕府直轄となる (1回目)。 | |
12月 | 4日 | 漆を直納とし、納入日を定める。 | |
貞享5〜元禄元(1688)年 | |||
2月 | 20日 | 猪苗代新町 (猪苗代町) から出火し93軒焼失。 元禄6(1693年に91軒とも。 | |
3月 | 15日 | 逆瀬川村 (会津美里町) の大中丸山が崩壊。 | |
元禄2(1689)年 | |||
1月 | 2日 | 家中の衣・住・器材・婚・葬の規制を施行。 | |
2月 | 26日 | 徳川綱吉の生母/桂昌院の館新築の手伝いを命じられる。 | |
4月 | 市人の学問所として町講所が設立される。 | ||
元禄3(1690)年 | |||
3月 | 12日 | 「大風」 | |
3月 | 12日 | 桧原村 (北塩原村) が火災。 | |
元禄6(1693)年 | |||
2月 | 新町 (猪苗代町) で出火、焼失91軒。 | ||
3月 | 6日 | 猪苗代一帯、大風雨。 | |
3月 | 17日 | 慶徳村 (喜多方市) で出火、焼失50戸。 | |
この年 | 興性寺が、善久町から現在地の西名子屋町に移る。 | ||
西光寺<奥川> (西会津町) が、真ヶ沢村から現在地に移る。 | |||
元禄7(1694)年 | |||
7月 | 28日 | 〜8月3日まで連日大雨。 湯川・大川・鶴沼川など洪水、田畑1,389余町が流失。 |
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元禄8(1695)年 | |||
5月 | 8日 | 保科正之公が着手した調査が終了し、遺志を継いだ松平正容公が、佐原義連公の墓の側に碑文などを建立。 | |
10月 | 南山の新道として松川街道 (会津中街道) が開通。 | ||
元禄9(1696)年 | |||
4月 | 6日 | 遠州流をくむ目黒浄定を招き、御薬園を本格的な回遊式借景園に大改修。 | |
6月 | 28日 | 大雨洪水、鶴ヶ城下の南町・川原町など浸水。 | |
5月 | 27日 | 大塩村 (北塩原村) で山崩れ。 | |
12月 | 9日 | 将軍の命により、保科を改め松平姓と葵の紋章とする。 | |
元禄10(1697)年 | |||
1月 | 25日 | 軍制を甲州流から河陽流に代える。 | |
2月 | 22日 | 黄檗村 (喜多方市) で山崩れ。 3月10日、同村で再び山崩れ、阿賀川を埋める。 |
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11月 | 17日 | 山林保護のため、農民の木材採取を制限する。 | |
元禄11(1698)年 | |||
1月 | 23日 | 火印入墨などの肉刑を廃止する。 | |
5月 | 26日 | 大雨で湯川・大川・鶴沼川が洪水。 水損1,200石を超える。 | |
7月 | 27日 | 大雨で大川筋が洪水、田畑1,109町歩が冠水。 | |
8月 | 1日 | 御蔵入三十三観音が認可制定。 | |
元禄12(1699)年 | |||
8月 | 15日 | 大暴風雨、倒壊家屋1,045軒・半壊900棟・死者多数。 松川街道も崩落。 9月8日とも。 |
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この年 | 田子倉村 (只見町) に鉛山発見 (田子倉鉱山)。 | ||
元禄13(1700)年 | |||
8月 | 24日 | 柳津村沢町 (柳津町) で大火。 前年の元禄13(1700)年とも。 | |
この年 | 光性寺を興性寺と改称。 | ||
元禄14(1701)年 | |||
3月 | 23日 | 藩の銭札 (藩札) を発行する。
[元禄16(1703)年に廃止] |
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7月 | 5日 | 正宗寺弁天堂に飯盛山を寄進。 | |
7月 | 21日 | 大雨で大氾濫、湯川や日橋川筋で大被害。 | |
元禄15(1702)年 | |||
3月 | 26日 | 「松橋村で出火、人馬焼死」 (猪苗代町) | |
7月 | 2日 | 新宮村 (喜多方市) の竪石山が崩壊。 | |
10月 | 2日 | 烈風雨で大川が洪水、穀類1万5千石が水損。 | |
この年 | 善導寺 (南会津町) の本堂が改築され、現在に至る。 | ||
元禄16(1703)年 | |||
11月 | 18日 | 江戸大火で、箕田下屋敷の塀が類焼。 | |
11月 | 23日 | 南関東大地震、箕田下屋敷の破損甚大。 | |
この年 | ※赤穂浪士/堀部安兵衛が切腹 (享年34)。 | ||
元禄17〜宝永元(1704)年 | |||
3月 | 田島村北町 (南会津町) から出火、焼失150戸。 | ||
6月 | 18月 | 融通町から出火、焼失59軒。 64軒とも。 | |
宝永2(1705)年 | |||
6月 | 5日 | 大雨、大川や鶴沼川が洪水。 損害2,200余石。 | |
6月 | 28日 | 大雨、大川筋で被害甚大。 | |
7月 | 2日 | 大雷風雨。 | |
4月 | 11日 | 南山領が会津藩預りに戻る。 | |
宝永3(1706)年 | |||
6月 | 3日 | 「川々洪水」 | |
宝永4(1707)年 | |||
2月 | 17日 | 「泥雨が降る」 | |
4月 | 10日 | 新宮村・慶徳村 (喜多方市) で、山崩れる。 | |
6月 | 21日 | 暴風雨で各河川が洪水。 北宇内村 (会津坂下町) で山崩れ。 | |
宝永5(1708)年 | |||
6月 | 2日 | 大雨洪水、所々で山崩れ。 田畑の冠水324町歩に及ぶ。 | |
7月 | 25日 | 綱吉の養女/竹姫と、松平正容公の長子/久千代が婚約する。 (12月26日に久千代が死去したため中止 ) |
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10月 | 26日 | [江戸] 幕府より小川町に藩邸を賜う。 11月13日、松平正容公が移る。 | |
この年 | 一ノ堰六地蔵の地蔵尊に、巡業中の向誉上人が会津に至リ、入仏供養。 | ||
宝永6(1709)年 | |||
3月 | 20日 | [江戸] 幕府より和田倉門内に藩邸を賜う。 | |
4月 | 9日 | 7日とも。 馬場町から出火、焼失1,100余戸・寺10余宇。 | |
5月 | 4日 | 町講所が焼失。 | |
宝永7(1710)年 | |||
4月 | 24日 | 馬場町二ノ丁〜上町から出火、焼失393戸。 600余戸とも。 | |
8月 | 4日 | 大地震、倒壊家屋多し。 | |
正徳元(1711)年 | |||
11月 | 5日 | [江戸] 朝鮮信使いの上々官が和田倉藩邸を訪ねる。 | |
正徳2(1712)年 | |||
3月 | 15日 | 大雨、諸川洪水 (会津美里町)。 | |
3月 | 28日 | 野沢村本町〜原町 (西会津町) が大火、焼失400戸。 | |
6月 | 13日 | 南山領が幕府直轄となる (2回目、通知は 3日)。 | |
[江戸] 会津の苧麻(まお→からむし) が「和漢三才図絵(寺島良安)」に掲載。 | |||
正徳3(1713)年 | |||
焼失した泉光寺 (南会津町) の本堂を再建。 | |||
正徳4(1714)年 | |||
1月 | 29日 | [江戸] 幕府より利根川・荒川の普請手伝を命じられる。 同年6月13日に終了。 |
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8月 | 9日 | 大風。 | |
正徳6〜享保元(1716)年 | |||
観音寺<竹屋> (喜多方市) が再建され、現在に至る。 | |||
享保2(1717)年 | |||
4月 | 1日 | 地震。 | |
享保3(1718)年 | |||
9月 | 6日 | 二の丸南門番所で火災が発生。 | |
この年 | 自在院の回転式経蔵が建立。 | ||
この年の会津藩の民数 (総人口) 169,217人。 | |||
享保4(1719)年 | |||
この年 | 磐梯山の小規模/水蒸気噴火が頻発。 | ||
享保5(1720)年 | |||
3月 | 24日 | 柳津村 (柳津町) の渡舟が転覆し、溺死50余人。 | |
享保7(1722)年 | |||
4月 | 23日 | 高田村 (会津美里町) 一帯が大雨による大洪水。 | |
8月 | 8日 | 南山領が会津藩預りに戻る (通知は 7月21日)。 ※前々年に南山領で大規模な農民一揆が起きていた。 |
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8月 | 23日 | 大雨が続き、大川や湯川が洪水。 | |
享保8(1723)年 | |||
4月 | 1日 | 坂下 (会津坂下町) で大火、焼失311戸。 | |
4月 | 21日 | 桂林寺町五ノ分より出火、郭内外1,256軒が焼失。 | |
5月 | 2日 | 赤井町から出火、焼失50戸。 | |
8月 | 7日 | 〜10日 大雨、只見川・湯川・大川が大洪水で被害甚大。 次郎水洪水より4尺満水。 |
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8月 | 10日 | 湯川・大川・只見川筋で大洪水、田畑・人馬の被害甚大。 坂下の塩蔵へ水が入り、塩1,340俵が損失。 ※大雨のため五十里湖も決壊、鬼怒川筋も大洪水。 |
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享保9(1724)年 | |||
閏4月 | 5日 | 越後/魚沼郡630余村/7万余石が会津藩預り地となる。 | |
6月 | 25日 | 湯川が洪水。 | |
8月 | 16日 | 第4代藩主となる松平容貞公が生れる。 | |
9月 | 6日 | 大風、多くの家屋や樹木が倒壊。 | |
享保10(1725)年 | |||
6月 | 12日 | 洪水。 | |
享保12(1727)年 | |||
7月 | 6日 | 罪人を尋問する際、海老責めなどの拷問が停止される。 | |
享保13(1728)年 | |||
4月 | 1日 | 坂下村 (会津坂下町) で大火、341軒が焼失。 3月30日とも。 | |
9月 | 2日 | 大雨洪水、多くの家屋が流失。 | |
享保14(1729)年 | |||
1月 | 28日 | 小荒井村 (喜多方市) で出火、焼失14軒。 | |
享保15(1730)年 | |||
1月 | 24日 | 早稲谷村 (喜多方市) の上之山が崩れる。
同月30日、同村の端郷川角の高館が崩れる。 |
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8月 | 30日 | 大風雨、洪水。 | |
この年 | 檜枝岐の六地蔵が、建立される。 | ||
愛宕神社に、現在の本殿が建立される。 | |||
享保16(1731)年 | |||
3月 | 18日 | 南町分晒屋町から出火、19日までに1, 119件が焼失。 1,076戸とも。 | |
5月 | 19日 | 大雨洪水。 | |
9月 | 10日 | 第3代藩主/松平正容公が没 (63歳)。 |
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