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旧 町 名 の 表 示 板
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◇ 大町/七日町
◇ 馬場町/行仁町
≪ 市 街 地 北 部 ≫
博労町 (ばくろうまち ばくろうちょう)
蒲生氏郷公の町割りにより、南側/
六日町
と北側/滝沢町までの地域。 北側を滝沢町に接する幅5間の通りに、馬の売買や周旋などをする博労 (馬喰、伯楽) が多く居住していたことから。
当初は馬市で賑わったが後に行人町に移ると、貞享年間(1684〜1687年)には米屋、塩屋、酒屋、麹屋、茶屋などが住むようになる。
明治32(1899)年、岩越鉄道/若松駅の開通で賑わいは大町に移る。
昭和41(1966)年、「相生町」「上町」に分割統合。
▲説明板 (会津若松市相生町)
妙法寺前通 (みょうほうじまえとおり)
南側/甲賀町と北側/
上河原分
までの地域。
妙法寺の門前を通っていることから。
▲説明板 (会津若松市馬場本町)
堀江町 (ほりえちょう)
加藤明成公の時代に設置された。
町の長を務めた堀江氏の名前から。
▲説明板 (会津若松市旭町)
馬場名子屋町 (ばばなごやまち)
蘆名氏の時代に設置された。
蒲生氏郷公の町割りにより、この地に移転。
名子 (下層農民) を住まわせたことから。
昭和57(1982)年に「中央」などに分割統合。
▲説明板 (会津若松市馬場本町)
木戸千軒道 (きどせんげんみち)
大町名子屋町から馬場名子屋町までの区域。
幅3軒ほどの東西の通り。
通りの両側に木戸があったことから。
▲説明板 (会津若松市中央)
千軒道 (せんげんみち)
大町と馬場町の北側に位置する区域。
紫雲寺前通から妙法寺前通までの東西の通り。
周辺に千軒の家があったことから。
民家のなかった此の地に、郭内から多くの寺院が移築された。
▲説明板 (会津若松市中央)
養蚕口 (こがいぐち)
持筒町から大寺街道 (二本松街道) へつながる通り。
養蚕国神社の西側を通ることから。
白河街道と二本松街道の分岐要所でもあり、鉄砲組の足軽が居住。
戊辰の役での激戦地の1つで、一帯で多くの戦死者が出た。
▲説明板 (会津若松市養蚕町)
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