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旧 町 名 の 表 示 板
◇
鶴ヶ城周辺
◇
大町/七日町
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馬場町/行仁町
◇
市街地北部
≪ 日 新 町 / 本 町 周 辺 ≫
大和町 (やまとまち)
当麻町
の北側に通じる幅4間ほどの通り。
∬
慶長年間(1596〜1615年)、
蘆名盛氏公
の四天王の1人/佐瀬大和が朗等を居住させていたことから。
開城後、「上大和町」「中大和町」「下大和町」に分割。
昭和41(1966)年、「日新町」に統合。
▲
説明板
(会津若松市日新町)
北小路町 (きたこうじまち)
老町
の北側にある区域。
幅4間ほどの通り。
応永27(1420)年、
蘆名盛政公
が慶徳の新宮城主/新宮時康入道を攻め落し、
新宮城下
/北小路町の人家を移転させた。
昭和40(1965)年〜昭和42(1967)年、「中町」「日新町」「大町」「七日町」に分割統合。
▲
説明板
(会津若松市日新町)
針屋町 (はりやまち)
善久町
の北側に位置する区域。
幅3間ほどの通り。 針工が数多く居住していたことから。
針工などの職人のほか、商人も多く住んでいた。
開城後、「針屋町」と「針屋名子屋町 (元/針屋町の西半分)」に分割。
昭和41(1966)年、「日新町」に統合。
▲
説明板
(会津若松市日新町)
善久町 (ぜんきゅうまち)
当麻中町
の北側に位置する区域。 幅3間ほどの通り。
佐瀬大和の名子が居住していたため大和名子屋町と呼ばれていたが、法光寺の別名/善叫寺から善叫町に変わり、後に善久町となる。
主に塗職人が居住。
昭和41(1966)年、「日新町」に統合。
▲
説明板
(会津若松市日新町)
西名子屋町 (にしなごやまち)
融通寺町
の北側に位置する区域。
名子譜代を置いていたことから。
昭和40(1965)年〜昭和41(1966)年、「本町」「日新町」に分割統合。
▲
説明板
(会津若松市日新町)
[絵図]
当麻中町 (たいまなかまち)
当麻丁
から西黒川分までの区域。 幅4間ほどの通り。
当麻丁から分かれた通りであることから。
主に塗職人が居住。
昭和41(1966)年、「日新町」に統合。
▲
説明板
(会津若松市日新町)
当麻丁/当麻町 (たいまちょう)
北側/
大和町
から南側/
赤井丁
、東側/
桂林寺町
までの区域。
南北に幅4間ほどの通り。 職人や商人などが居住。
当麻山/
東明寺
があったことから。 ただし寺の縁起に記載は無い。
「
當麻丁に當麻山東明寺ありし故この名ありとぞ、大町東明寺の縁起には伝えず
」。
昭和41(1966)年、「日新町」に統合。
▲
説明板
(会津若松市日新町)
赤井丁/赤井町 (あかいちょう)
諏訪四谷
の北側に位置する区域。
蘆名盛舜公
の家臣/
赤井因幡
が、郎等とともに居住していたことから。
赤い水の出る井戸があったからとの説も。
昭和40(1965)年〜昭和41(1966)年、「本町」「日新町」に分割統合。
▲
説明板
(会津若松市日新町)
諏訪四谷 (すわよつや)
桂林寺町
から
融通寺町
までの区域。
蒲生氏郷公
の町割り (外濠) による。
元は、
諏方神社
の境内であった。
多くの職人が居住。
昭和40(1965)年、「本町」に統合。
▲
説明板
(会津若松市本町)
融通寺町 (ゆづうじまち)
融通寺口郭門
から西名古屋町までの区域。
幅4間ほどの通り。
文禄元(1593)年に大町へ移転した
融通寺
(跡地に
城安寺
が創建) があったことから。
昭和40(1965)年〜昭和41(1966)年、「本町」「日新町」に分割統合。
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説明板
(会津若松市本町)
水主丁 (かこちょう)
蒲生氏郷公
の時代、水運を取り仕切っていた家臣/岡半兵衛が、配下の水主 (下級船乗り人) が居住していたことから。
▲
説明板
(会津若松市新横町)
∬
ツールチップあり .
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