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「ウィキペディア (角川日本地名大辞典7)」より
材木町
1610年、それまで集中して米代の西、城郭内にあった木材売買関連の商家が移って成立したとされる。 河原町の西から南方向に続く町で、会津藩により治められていた江戸時代においては若松城下のうち城郭外西部に位置する5間の通りであった。 また、当時の材木町周辺は、湯川などの洪水によりたびたび被害を被っており、家屋が流されることがあったほか、町割が改めて行われることもあったとされる。
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材木町分
材木町の西南に続く地域に位置し、若松城下の町分では当時の東黒川に属していた。 また、新屋敷、太郎兵衛新田、芋茎新田(いもがらしんでん)などの地名も見え、太郎兵衛新田では青物の市も立っていたとされる。
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河原町新丁
材木町の北側から柳原組町に至る通りで、正保年間以降の成立とされている。
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石堂分
若松城下の町分で、当時、西黒川に属し、糠塚町の北側に存在していた。 化政期には38軒の家があったことが記録されている。
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糠塚町
若松城下の城郭外北部、大町の北側に位置しており、足軽同心が居住していたとされている。また本町の起源は江戸時代初期に原組赤井村において、糠塚に神殿を開発して歩卒を置いたことによっており、その後、大町北側に移転したものとされている。通丁、裏町、外裏町、木椎町、新田丁、松円寺前通の地名があった。
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徒之町
若松城下の城郭外東部に位置していた数条の通りのことを指しており、町名は慶長ごろに徒 (下級武士) が住んでいたことによる。
上長丁、下長丁、薬園前通、新丁、一乗寺前通、中丁、浄光寺通、隍端通、
下隍端、六軒丁、東大工丁、浄光寺前通、法林寺前通、横通、願成就寺前通、
清水丁、高井丁 |
開城後、本丁・米代・小田垣・横道・権現下郭と、小田町・半兵衛町・外小田垣の一部が合わさり、栄町となる。
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