慶長8(1603)年、病の治療のため会津に来ていた良然上人が、蒲生秀行公の支援を受け、知り合いだった検断/倉田新右衛門道祐の後援・尽力により、修行道場の寺として開山。
下野国で生まれ、安積郡の山善導寺の住職であった。
なお、道祐の娘/徳の長男が横田俊益。
正覚山 十却院、浄土宗。 本尊は、阿弥陀如来 (2尺7寸)。
総本山は、京都/知恩院。
元和4(1618)年、3ヶ月にもわたる大法会が良然上人を筆頭に僧侶130余人によって催される。
昭和50(1975)年、現在の本堂が建立された。
会津十二支守り本尊の戌・亥 (阿弥陀如来)。
七日町「幸せ回廊」の一番。 境内に芭蕉句碑がある。
御三階・斉藤一の墓
殉難者墓あり。
▲(会津若松市七日町4-20 Tel. 0242-27-7445)
通称「あんこう稲荷」と呼ばれている。
お日市 7月5日。
蚕養国神社が管轄。
▲(会津若松市大町2丁目 <旧/松円寺前通>)
桂松院と統合した「松園寺 (松円寺)」の境内に祀られた稲荷。
蘆名氏の家臣/安部安光が勧請した。
松園寺は、寛永元(1624)年に阿弥陀如来を本尊として日舜が開山。
諏方神社近くに創建したと伝えられるが、詳細不詳。
文禄元(1592)年、蒲生氏郷公のの町割の際、沙門実尊が願い出て現在地に移り中興。
中光山、真言宗豊山派。 本尊は大日如来。
自在院の末寺。
入口に、一般庶民を対象とした学問所としては日本最古の稽古堂跡碑がある。
▲(会津若松市大町1-5-37 Tel. 0242-22-6997 <旧/後之分町>)
お日市 7月22日。
七日町「幸せ回廊」の二番。
蚕養国神社が管轄。
▲(会津若松市七日町5-30)
明徳3/元中9(1392)年、蘆名氏の家臣/武田大和守が城東/八角の地に創建し、仁鑁
その後は、葦名詮盛公の保護を受ける。
馬宝山千手院、真言宗豊山派。
本尊は、大日如来。
天正17(1589)年、伊達政宗公の会津侵攻により焼き打ちされ、堂宇もろとも什宝が焼失した。
文禄元(1592)年、蒲生氏郷公の町割で、現在地 (道場小路) に移転した。
現在の建物は、昭和6(1931)年に再建したもの。
江戸時代には、金剛寺・観音寺・自在院・弥勒寺が会津真言四ヵ寺と称され、輪番で触頭役を務めた。
町廻り三十三観音の第七番 道場小路。
お日市 7月7日。
▲(会津若松市大町1-5-24 Tel. 0242-22-5188 <旧/道場小路町>)
お日市 7月24日 。
田中稲荷神社が管轄。
▲(会津若松市大町2-14-10)
永和2/天授2(1376)年、黒川の僧/宥範が、如意宝珠山寿福寺を創建し、一桂院と号す。
後に、寛永元(1624)年に日舜が開山した「松園寺 (松円寺)」と統合されて「桂松院」となる。
佛光山、真言宗智山派。
本尊は、阿弥陀如来。
会津二十一地蔵尊の第五番。
会津二十一地蔵尊の第七番 (場所は離れている。日本で唯一の御造酒地蔵尊)。
町廻り三十三観音の結願所であり、この寺に至る頃には夕刻になってしまうことから、「日暮寺」や「宵寺」と呼ばれていたという。
▲(会津若松市大町2-4-35 Tel. 0242-22-5532 <旧/松円寺前通>)
永禄元(1558)年、僧/慶了が郭内五之丁にて開基。
僧/道円が開基とも。
車川山、浄土真宗本願寺派。
天正9(1581)年、現在地に移る。
本山は京都/西本願寺で、福證寺が管轄とのこと。
お日市 7月21日。
▲(会津若松市七日町13-53 Tel. 0242-32-7850 <旧/下大和町>)
大治5(1130)年、僧/長宥が現在の恵倫寺の地で開山。
宝珠山華蔵院、真言宗室生寺派。 本尊は大日如来。
応永年間(1394〜1427)年、賢日法師が郭内米代に移築。
文禄元(1592)年、蒲生氏郷公の町割で、郭外の現在地へ移転した。
松平正容公の時代には、金剛寺・観音寺・自在院・弥勒寺が会津真言四ヵ寺と称され、輪番で触頭役を務めた。
大正10(1921)年、本堂が再建。
金銅製双竜双鳥文磬 (鎌倉時代) は、国指定重要文化財。
「持仏堂磬 正應六年十月日」「阿仏 大工伴貞吉」
▲(会津若松市七日町8-48 Tel. 0242-22-1689 <旧/下大和町>)
戊辰の役で、堂宇だけでなく過去帳を含む全てが焼失したため、創建など詳細不詳。
恵日山般若院、真言宗豊山派。
本尊は、大日如来。
昭和25(1950)年 福良千手院の所縁が法灯を継ぐ。
お日市 7月23日。
境内には、明治に入り建立の柿本稲荷神社と
子安観音堂がある。
柿本稲荷神社には、旧/越後街道の道標が湯殿山碑として現存。
入口に、芭蕉の句碑もある。
▲(会津若松市西七日町3-34 Tel. 0242-22-3169)
お日市 7月7日。
蚕養国神社が管轄。
▲(会津若松市七日町 <旧/後之分町>)
嘉元2(1304)年、藤原実成が創建し、日蓮上人の孫弟子/日尊が法華堂として開山。 正和元(1312)年とも(旧事雑考)。
久遠山
本尊は、本門戒壇之大御本尊(板曼荼羅)。
文禄元(1592)年、米代四ノ丁から柳原村に移る。
元和9(1623)年、日謡上人が参詣に不便として蒲生忠郷公に願い出て、現在地に移る。
寛永5年(1628)年、日盈上人が住職となり、後に総本山/大石寺の第18世法主に就任。
明和6(1769)年、 祖師堂が建立。
戊辰の役で西軍に寺宝は略奪されたが、本堂は珍しく戦火を免れた。
殉難者墓あり。
自然景観指定緑地の1つ (第2号)。
▲(会津若松市大町2-6-35 Tel. 0242-22-3553 <旧/大町名子屋町>)
慶雲3(706)年、律宗の寺として草創。
永和4/天授4(1378)年、中興。
元和9(1623)年、教義に疑いを持ち比叡山に上って修めた住職/成秀は、天海大僧正を尊崇し天台宗へ改宗。
松林山、天台宗 (旧市内に現存する唯一の天台宗寺)。
本尊は、阿弥陀如来、 総本山は比叡山延暦寺。
寛政3(1791)年には、劇場人形座が建設され、盆踊り、見世物小屋、相撲、ザーカスなど大勢の人で賑わったのこと。
加藤嘉明公の兜に納められていた守り本尊/虚空蔵菩薩は、代々の藩主に受け継がれてきたが松平容保公が寄進し、戊辰の役での西軍の放火や略奪からも逃れ、現存している。
お日市 8月12日。
町回り三十三観音の第三十二番 めぐりあい観音。
七日町「幸せ回廊」の六番。
殉難者墓あり。
▲(会津若松市七日町7-36 Tel. 0242-22-8530)
慶長6(1601)年、越後の僧/弘信が自在院の末寺として開山。
長命山、真言宗。
「吉祥院 境内 東西二十四間 南北十五間半 免除地
地蔵堂 境内ニアリ
地蔵像長一尺七寸 又外ニ一尺五寸ノ地蔵アリ
此像モト當寺ノ西ニ堂ヲ建テ其内ニ安ス
何ノ頃ニカ 廢シテ此ニ移ス 共に古佛ナリ」
吉祥院は廃されたが、地蔵像2躯を祀る地蔵堂は現存しており、七日町地蔵尊として子供の健やかな成長の御利益を与え続けている。
▲(会津若松市七日町6ー44)
応永32(1425)年、葦名盛政公が諏訪社境内に創建し、諏訪社の社僧/秀哉上人が開山。 盛政公は寺領100石のほかに大般若経六百巻・十六善神画などを寄進している。
陬波山龍華院、真言宗豊山派。
文禄元(1592)年、蒲生氏郷公の町割で、現在地へ移転した。
昭和2(1927)年、本堂が再建。
昭和32(1957)年、観音堂と大日堂が1つになる。
お日市 7月8日。
中善寺薬師如来(喜多方市/中善寺)を管轄。
江戸時代には、金剛寺・観音寺・自在院・弥勒寺が会津真言四ヵ寺と称され、輪番で触頭役を務めた。
戊辰の役で他の寺同様に寺宝のみならず家財一切を略奪する西軍は、毅然として立ち向かう住職の「罰が当たる」の威迫に恐れ慄き、大般若経は置いていったため今に残る
堂宇は消失しているが、寺の敷地が創建以来とほぼ同じ敷地の唯一の寺。
殉難者墓あり。
▲(会津若松市大町1-5-1 Tel. 0242-22-6197 <旧/大町名子屋町>)
康安元/正平16(1361)年、僧/浄縁が八葉寺村 (広田冬木沢)にて草創。 浄縁は融通念仏宗の開祖/光乗房良忍の法孫。
自然山
至徳元(1384)年、葦名直盛公が建立した小館へ移る。
文禄元(1592)年、蒲生氏郷公の町割で、現在地へ移転。
慶長9(1604)年6月、後陽成天皇から直筆による扁額 (縦128cm・横74cm) と宸翰の和歌2幅、勅使文が与えられ、地方では稀有な勅願寺となる。
幕末まで最も多い寺社領 200石の5寺 (建福寺、興徳寺、圓蔵寺、延壽寺) の1つ。
町廻り三十三観音の第十二番 大町。
戊辰の役では、菊の御紋が掲げられていたため西軍も焼き払うことができず、屯所に使った (焼き打ちを免れた寺は、この寺と専福寺の2寺のみ)。
しかし、寺の所蔵品は略奪され、書類などは寺の門前で三日三晩にわたって焼き払われた。
本堂内の数本の柱に、が略奪した刀剣の品定めに試し斬りをした痕が残っている。
終戦後、薩長らの分捕り合戦は凄まじかった。 金目の物は全て持ち去り、運べない重い物や大きい物は町民たちに買い取らせ、持ち主にすら強いた。
府内三十三観音像を有していたが、現在では3躯のみ祀る。
殉難者墓あり。 福田為之進
▲(会津若松市大町2-7-45 Tel. 0242-22-4320 <旧/大町名子屋町>)
建治3(1277)年、時宗の開祖/一遍上人が、平泉に向かう途中に立ち寄り東明寺を黒川に開山した。 弘安3(1280)年とも。
当麻山、時宗。 本尊は延命地蔵尊。
応安6/文中2(1373)年、鐘が成る。 永和元/天授元(1375)年に下津珠阿が鐘を奉納とも。
元和3(1617)年、本二之丁から大町名古屋町に移り、東西1町7軒半・南北1町8軒の敷地に26院を誇る。
明治15(1882)年、三方道路開設の名のもと、寺領の大半が没収される。
昭和37(1962)年、赤井町の西光寺と日新町の常念寺(長念寺とも)を合体し、新たな東明寺として川原町に移るが、地蔵堂は残された。
会津二十一地蔵尊の第六番
お日市 7月24日。
▲(会津若松市大町2-1-45 東明幼稚園脇 <旧/大町名子屋町>)