横田 俊益 |
よこた とします、
元和6(1620)年1月16日~元禄15(1702)年1月6日 (83歳)
幼名:三平、清四郎。 別称:友益。 通称:三友、養拙、何求斎。
<儒学者、藩教学の祖>
山内氏の末裔である∬清兵衛俊次 (入婿) と豪商で検断の娘/倉田徳 (トク) の長男として大町角の倉田邸で誕生。
幼き頃から秀でており、9歳で観音経・般若心経、11歳で連歌・茶道・謡曲、13歳で四書・詩経・論語を学び、諸学・諸芸に長ける。
10歳の時、評判を聞き付けた加藤嘉明公から稚児小姓の命を受けたが、この時は“年が若すぎる”と父/俊次が辞退している。
才能を見抜いた父/俊次から、家業は娘に継がせるとし、次男/俊親と共に本姓の横田が与えられ、勉学に励むよう命じられる。
寛永13(1636)年、17歳で京に上り儒学者・儒医/堀杏庵に師事。
寛永15(1638)年、朱子学派儒学者/林羅山に師事。
帰郷し、加藤明成公に仕える。
寛永20(1643)年、明成公の改易には願い出るも従えず、会津に残留したが、まもなく江戸に上る。
幕府の朱子学派儒学/修得者として高い評価を受け、丹後の京極家から招聘されるが、実家を守る弟が倒れ、止む無く帰郷。
明暦2(1656)年、度重なる招聘を受け翌年保科正之公の侍講に就く。
俊益の考えに感じた正之公は、寛文元(1661)年に殉死を禁止し、寛文4(1664)年には幕府も禁令を出すに至る。
寛文2(1662)年、病身となり侍講を辞任。
寛文4(1664)年、日本初の郷学 (庶民の教育機関) とされる学問所「稽古堂」を創設し、講義を始める。
堂主に無為庵如黙を迎え、武士と庶民の別なく教育に尽力、藩教育の礎を築き、後の藩校/日新館へとつながる。
貞享元(1684)年、「土津神霊言行禄」を著す。
元禄2(1689)年、郭内講所で「大学」序を講じるや、聴講者100人を超える盛大さであった。
著書「養心録」「本草日用集」「大学章句倭字抄」「通鑑跋書」「山内天正記」「四箴倭字訓解」など。
墓は大窪山墓地。
[史料] |
横山 常尹 |
よこやま つねただ、
元禄15(1702)年~明和3(1766)年3月8日
通称(通り名):主税。
松平正容公の継室/祐姫の甥。
寛保元(1741)年、奉行に就任。
宝暦 4(1754)年、若年寄に就任。
明和 3(1766)年、若年寄在任中に死去。
墓は大窪山 (現地図に記載あり)
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大和国郡山藩/本多家の家臣/横山光定は、九・六騒動で浪人となる。
嫡男/横山常定の娘/祐姫が、藩主/松平正容公の継室となったため、常定も会津藩に召し抱えられた。
子孫は 藩の重職を担い、 横山常徳が家老に就任した。
歴代家老は、常徳のみ。
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横山 常徳 |
よこやま つねのり、
寛政10(1798)年~元治元(1864)年8月7日 (数え67歳)
通称(通り名):主税。 <江戸詰家老>
横山伝兵衛常明の次男。
父の兄である家老/横山五八郎常元の養子となり、家督を継ぐ。
安政2(1855)年、江戸常詰の若年寄に就任 (安政3年とも)。
安政3(1856)年、江戸詰家老に就任 (安政5年とも)。
「江戸・三家老」と称された名家老の一人。
(水戸藩/武田耕雲斎、宇都宮藩/間瀬和三郎)
文久2(1862)年、松平容保の京都守護職就任の内命を受けるや強硬に固辞すべきと強く進言したが、反して容保が就任を決めると これに従う。
文久2(1862)年12月24日 、共に上洛し、公用局を設けて体制作りに尽力した。 その際に秋月悌次郎や広沢安任を抜擢した事でも知られる。
文久3(1863)年7月30日、天覧馬揃えの陣将として指揮を執る。
元治元(1864)年4月、将軍/家茂から、小野権之丞
・小室金吾
・手代木直右衛門・外島機兵衛・野村左兵衛とともに時服を賜る。
同年5月、重病のため帰国。
禁門の変の報を病床で聞き、藩の将来を憂いつつ死去。
「智徳院殿勇建日照居士」
墓は大窪山。
2人の実子 (常晴・常義) が早世したため、長男/常晴の許嫁/日向次華 (利衛とも) の娘と結婚した山川源八常道の子/主税常守を養子とするも、戊辰の役にて白河口で戦死してしまう。
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吉村 寛泰 |
よしむら ひろやす、
明和6(1769)年6月16日~嘉永4(1853)年8月13日 (83歳)
嘉永6(1853)年に死去、延享元(1744)年に死去とも。 <儒学者>
幼名:八十之助。 通称:嘉右衛門、新兵衛。 号:千年。
藩士/吉村貞右衛門の長男として鶴ヶ城下にて誕生。
天明 4(1784)年、軍事方平役に就く (16歳)。
寛政 3(1791)年、江戸詰になり、松平容頌公の侍講に就きつつ、儒学者/古屋昔陽に師事して古学を学ぶ。
寛政 9(1797)年、江戸屋敷内学館の助教に就任。嘉右衛門に改名。
寛政10(1798)年、医学館都講に就任。
文化11(1814)年、「日新館志」の撰述を拝命し起稿。
文化13(1816)年、上京して資料収集に励むと同時に、儒学者/林述斎や古賀精里らに序文執筆を依頼。
文政 6(1823)年、「日新館誌/30巻」が完成し、松平容敬公に献上する。
藩校/日新館の構造・学制を中心に、会津の学術・技芸・神道・歌道・天文算術・雅楽謡曲・書学や、伝記・伝説、文武百般などを網羅している力作で、今でも資料として高い評価を得ている。
完成に至るまでは、家屋敷や家財などを売却し資金を捻出するなど苦労の年月だったという。
墓は大窪山 (現地図に記載あり)
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「青雲院遂成日光居士」
母が奉納した灯籠が久福寺に現存している。
久福寺に遥拝墓があったのだが、見つからず。
[写真]
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