幕  末  の  領  地  ( 会 津 藩 )

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江    戸    藩    邸

上屋敷 (和田倉門邸)

上屋敷

 保科正之公の時代は鍜治橋内にあり、後に桜田門内に移る。
 貞享元(1684)年、正容公が、大手前竜ノ口の屋敷を拝領。
 宝永6(1709)年、9,150余坪の和田倉門内を拝領し、本邸として替わることなく幕末まで使用する。
 安政2(1855)年10月2日、江戸大地震で全建物が倒壊。
 速やかに再建。

 ▲(千代田区皇居外苑3附近  和田倉噴水/辺り一帯)
    出典元:江戸切絵図/人文社

 明治2(1869)年7月8日、は旧幕府側の残党を威嚇する目的で兵部省を設置し、占拠した此の地を全国から徴用した兵士の軍事教練の場とした。
 明治5(1872)年2月26日、兵部省官舎から出火し、会津藩中屋敷のあった築地に至るまでの34ヶ町/28万余坪を焼失 (銀座大火) してしまう。
 虐殺された会津藩士の霊魂による怨念説が巷に広まり、恐れをなし慌てたは、2日後の2月28日に兵部省を廃止して、陸軍省と海軍省とに名を変えて移転した。

中屋敷 (芝藩邸、芝新銭座邸)

中屋敷

 中屋敷とは本邸/上屋敷の控え屋敷であり、藩主が登城しない時の居住屋敷でもある。
 寛永16(1639)年、保科正之公が、希望していた海の見える景勝地を拝領。 北は伊達屋敷、南は新銭座町、東は舟路を隔てて後の浜御殿、西は露月町や柴井町、に接する25,129坪。
 延宝5(1677)年、正経公が隣接する地を拝領し、29,490余坪の広大な屋敷となった。
 堀を隔てた伊達屋敷との間に「会仙橋」と呼ばれる橋が架かっており、よく行き来していた。
 後に濱御殿 (浜離宮) 造営の埋め立てで、海原への眺望は失われている。
 天保6(1832)年頃の中屋敷が、歌川広重の「江戸勝景 (国会図書館蔵) に描かれている。
 安政2(1855)年10月2日の江戸大地震では全建物が倒壊し、165人の圧死者が出た。

 船入場に築かれていた石垣の一部が、野口英世青春広場に移築されて現存している。

 ▲(港区東新橋1丁目附近・ホテル/ヴィラフォンテーヌ汐留/辺り一帯〜浜離宮に至るまで)
    出典元:江戸切絵図/人文社

箕田藩邸 (下屋敷、三田邸)

 万治元(1658)年5月15日、三田の高台に下屋敷を構え実質的拠点とした。
 御田下屋敷、三田綱坂とも呼ばれていた。
 今の慶応義塾中等部慶応義塾女子高や、三井倶楽部南半分綱町グラウンドから古川の河岸 (渋谷川の支流/新堀川) までの 32,972坪という広大な敷地。
 屋敷内で軍事調練ができるほどの広さがあった。
 ▲(港区三田2丁目〜松坂町〜豊岡町附近)    出典元:江戸切絵図/人文社

肥後殿橋 (三之橋) 綱坂

 敷地脇を通る坂が、「綱坂」である。
 河岸に架かる三之橋は、松平肥後守の下屋敷脇にあるので「肥後殿橋」と呼ばれていた。

< 以 下 、確 認 で き ず >    .

お抱屋敷

 買い上げた土地に建てた屋敷。
 お抱屋敷は、2ヶ所あった。

≪深川御屋敷≫
 敷地は、3,293坪。
 会津からの廻米を貯蔵しておく米蔵や、特産品などを保管しておく蝋燭蔵などが建てられていた。    出典元:江戸切絵図/人文社

≪箕田藩邸の西南≫
 買い増した758坪の敷地。


大川端御屋敷

 若年寄/水野壱岐守忠見から借りていた約500坪ほどの敷地。
 両国橋の少し南の矢ノ倉 (日本橋矢ノ倉町) にあった。
 当初は、5代藩主/容頌公の隠居地として借り受けた。

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