保科正之公の時代は鍜治橋内にあり、後に桜田門内に移る。
 貞享元(1684)年、正容公が、大手前竜ノ口の屋敷を拝領。
 宝永6(1709)年、9,150余坪の和田倉門内を拝領し、本邸として替わることなく幕末まで使用する。
 安政2(1855)年10月2日、江戸大地震で全建物が倒壊。
 速やかに再建。
 ▲(千代田区皇居外苑3附近  和田倉噴水/辺り一帯)
    出典元:江戸切絵図/人文社
 中屋敷とは本邸/上屋敷の控え屋敷であり、藩主が登城しない時の居住屋敷でもある。
 寛永16(1639)年、保科正之公が、希望していた海の見える景勝地を拝領。 北は伊達屋敷、南は新銭座町、東は舟路を隔てて後の浜御殿、西は露月町や柴井町、に接する25,129坪。
 延宝5(1677)年、正経公が隣接する地を拝領し、29,490余坪の広大な屋敷となった。
 堀を隔てた伊達屋敷との間に「会仙橋」と呼ばれる橋が架かっており、よく行き来していた。
 後に濱御殿 (浜離宮) 造営の埋め立てで、海原への眺望は失われている。
 天保6(1832)年頃の中屋敷が、歌川広重の「江戸勝景 (国会図書館蔵)
」に描かれている。
 安政2(1855)年10月2日の江戸大地震では全建物が倒壊し、165人の圧死者が出た。
 船入場に築かれていた石垣の一部が、野口英世青春広場に移築されて現存している。
 ▲(港区東新橋1丁目附近・ホテル/ヴィラフォンテーヌ汐留/辺り一帯〜浜離宮に至るまで)
    出典元:江戸切絵図/人文社
 万治元(1658)年5月15日、三田の高台に下屋敷を構え実質的拠点とした。
 御田下屋敷、三田綱坂とも呼ばれていた。
 今の慶応義塾中等部
・慶応義塾女子高や、三井倶楽部の南半分、綱町グラウンドから古川の河岸 (渋谷川の支流/新堀川) までの 32,972坪という広大な敷地。
 屋敷内で軍事調練ができるほどの広さがあった。
 ▲(港区三田2丁目〜松坂町〜豊岡町附近)
   出典元:江戸切絵図/人文社
 敷地脇を通る坂が、「綱坂」である。
 河岸に架かる三之橋は、松平肥後守の下屋敷脇にあるので「肥後殿橋」と呼ばれていた。
≪箕田藩邸の西南≫
 買い増した758坪の敷地。