高田から大内へ向かう途中の関山集落を過ぎた道端にある。
現在は県道131号であるが、当時は大内への本街道。
氷玉峠から関山までの間に散乱していた遺体40柱をまとめで埋葬した墓。
東軍兵士の戦死墓であるが、判明している野村悌之助・渥味保太郎の他も、すべての方が会津藩士と思われる。
当初は、氷玉川沿いの杉林の中にあり、単に重しの石が積み上げられただけであった。 後に現在地へ改葬された。
≪野村悌之助≫ 青龍足軽三番隊/中隊頭。
慶応4(1868)年9月3日に大内峠で戦死。 44歳。 長命寺に慰霊墓。
≪渥味保太郎≫ 朱雀足軽四番隊/横山隊小隊頭。 9月3日に関山で戦死。 30歳。
慶応四年 (一八六八) 正月三日、鳥羽・伏見の戦いが戊辰戦争の端緒
戦いは会津にも及び、日光・田島口の交通の要衝
このあたりに凄惨な戦いがあった名残を止めるが如く、その墓が立っています。
朝敵・賊軍の汚名を着せられたため、最初の墓石は自然石で祀られましたが、後に現在のものに再建されています。
会津藩士で、衝鋒隊半隊頭。
の蛮行を不服とした幕府陸軍の歩兵指図役頭取/古屋佐久左衛門が、梁田の戦いを経て会津に入り、衝鋒隊を組織 (改称) した際に半隊頭として参加、北越戦に出陣。
慶応4(1868)年6月14日、越後/大黒で戦死。
24歳。
▲(会津美里町橋丸字橋爪94 Tel. 0242-54-4876)
・薬師寺については、こちら。
寺から少し離れた畑の中に墓域があり、入口の近くにある。
金兵衛の叔父。
慶応4(1868)年8月23日、大町通りで負傷。
9月18日に佐布川で死去。
66歳。
▲(会津美里町字佐布川)
・観音寺については、こちら。
田畑の中にある墓域。
当地の出身で戦死した8名の合同墓。
・深谷作三郎 | 瀬戸職 工兵渡辺貞之助隊 |
19歳 | |
・湯田忠吾 | 別撰組/組頭樋口万吾付 朱雀寄合三番隊/鈴木隊 | 8月29日、長命寺で戦死 | 21歳 |
・山田重三 | 別撰組頭樋口万吾付 朱雀寄合三番隊/鈴木隊 | 8月29日、長命寺で戦死 | 23歳 (20歳) |
・小池弥久 | 朱雀足軽二番隊/桜井隊 | 7月29日、二本松で戦死 | 36歳 |
・目黒常次郎 | 徒分 | 9月 3日、 関山で戦死 | 19歳 |
・吉田善七 | 工兵渡辺貞之助隊 | 9月 1日、 大内峠で戦死 | 37歳 |
・佐藤政治 | 別楯隊寄合萱野右兵衛隊 | 7月27日、越後/草生水で戦死 | 22歳 |
・小川勇之助 | 別楯隊寄合萱野右兵衛隊 | 8月 1日、 越後/草生水で戦死 | 19歳 |
朱雀士中四番隊/町野隊小隊頭。
戊辰(1868)年9月11日、熊倉で戦死。
享年48歳。
戊辰の役で帰郷した中野竹子の母娘3人は、米代三ノ丁の田母神屋敷に仮住まいをしていた。
善松とも。 上荒井同心。
工兵渡部貞之助隊。 .
慶応4(1868)年9月1日、 .
大内峠で戦死。 37歳。 .
墓碑には9月2日、36歳。 .
奥の墓域にある。 .
徒分。
慶応4(1868)年9月3日、関山で戦死。
19歳。
「忠照院釋賛限誠忠居士」
朱雀足軽二番隊/桜井隊。 .
慶応4(1868)年7月29日、 .
岩代/二本松で戦死。36歳。 .
戦死八人之墓にも記載。 .
「九代 顕心院譽清忠光山居士
明治元辰九月十四日 .
弥久道忠三十六才」 .
順助の長男。 白虎足軽隊/嚮導。
慶応4(1868)年8月23日、鶴ヶ城不明門で負傷し、
9月29日に鶴ヶ城内で死去。
墓は、飯盛山にもある。
「高橋富太郎 白虎隊士 行年十七才
明治元年九月二十九日鶴ヶ城内にて戦死
飯盛山に祀られる」
▲(会津美里町本屋敷 旧/本郷町新町
吉川喜右衛門信成
.
69歳 墓碑は「七十三歳」 |
吉川秀蔵信秋
. 瓦師次番格 38歳 墓碑は「三十七才」 「釋種義亮信士」 |
吉川吉松 16歳 どの墓碑か確認できず |
別楯隊/寄合萱野右兵衛隊 (志願兵)。
慶応4(1868)年8月1日、越後/赤坂山で戦死。
55歳。 「忠道院義観日賢居士」
白鳳山/死節碑に記載。
墓誌に、清兵衛の戦死から2ヶ月も経たず追うように死去した女の名がある。
「行年七十九才」とあり、母なのだろうか。
清兵衛の倅/清七 (当時17歳)も父と共に従軍した。
大正8(1919)年、死去 (68歳)。
普請方瓦師。
慶応4(1868)年9月4日、本郷の自宅で自刃。
63歳。
墓碑は、「六十八才」
寅之助とも。 遠藤盛時の長男。
幼少から武芸を好み、剣術・弓術・槍術・洋式銃を体得する。
文久2(1862)年、京都守護職の任務で藩士1千名が上京したため、その不足を埋める留守備隊に名を連ねる。
慶応4(1868)年、兵火が迫るに及び、陶工仲間31人の血書を集め従軍を志願、別楯隊寄合萱野隊に編入される。
同年8月1日、越後/石間口で左腕を負傷し鉛害を起こし、若松の病院で左腕切断の手術をするも、同月24日に妻の実家/冑
白鳳山/死節碑に記載。
虎之助の長男/平太も父に従い、志願兵 (当時16歳) の一員として越後各地で奮戦し、後に「従軍日記」を書き残している。
開城後は、本郷村の初代村長を務める。
昭和5(1930)年7月8日、死去。 78歳。
水野多門成隆
. 本郷焼窯元/水野瀬戸右衛門家の10代目。 白虎寄合二番隊。 越後各地で奮戦し、籠城戦では三ノ丸の守備に就く。 開城後は猪苗代で謹慎を経て、本郷焼窯元10代目として陶磁器の振興に尽力。 大正6(1917)年10月11日、死去。 66歳。 「徳[示+又+口]院釋種道順居士」 墓碑には旧暦も記載。 |
栗木とも。 墓碑は、「栗城惣[ネ+吾]」。
別楯隊/寄合萱野右兵衛隊の志願兵。
慶応4(1868)年8月1日、越後/赤坂山で戦死。
37歳。
白鳳山/死節碑に記載あり。
▲(会津美里町字上村西道下359-1)
福永村の人。
慶応4(1868)年8月12日、越後/石間口宝昌山で戦死。
21歳。
墓碑は、「八月十四日」。
曹洞宗。
▲(会津美里町氷玉福永丙1482)
士中隊。
戊辰(1868)年9月14日、戦死。
戦闘の場所など不詳。
栄寿山。
天台宗。
▲(会津美里町勝原字西勝94)
最初にある駐車スペース (フィールドアスレチック前) に車を停め、目の前の「かんのん坂」を上り切った頂にある。
なぜか、戊辰戦役の碑群については、案内の標識もなければ、碑群の場所にすら、何の説明板もない。
碑群の中央にある。
明治28(1895)年8月、萱野隊の生存者が観音山麓に建立。
大正7(1918)年、本郷大火により、現在地に移築。
題字は松平容大公、撰文は南摩綱紀。
裏面には、当地から出征の戦死者6名が裏面上部に、その下2段に生存者30名が刻まれている。
≪遠藤虎之助≫ 慶応4(1868)年8月1日、越後/石間口で負傷、24日に中村で死。41歳。
≪岸清兵衛≫ 慶応4(1868)年8月1日、越後/赤坂山で戦死。55歳。
≪小川勇之助≫ 慶応4(1868)年8月1日、越後/草生水で戦死。19歳。
≪新藤仲節≫ 慶応4(1868)年8月1日、越後/草生水で戦死。
≪栗城惣吾≫ 慶応4(1868)年8月1日、越後/赤坂山で戦死。37歳。
≪佐藤政治≫ 慶応4(1868)年7月27日、越後/草生水で戦死。22歳。
昭和32(1957)年9月24日、戊辰戦役90年祭の際に子孫から寄進。
本郷焼に従事していた者など36名の志願兵で結成された。
越後口総督/一ノ瀬要人の番頭隊長/萱野右兵衛の寄合組に属する。
慶応4(1868)年3月12日、36名を含め兵250名を率いて若松を出立、14日に水原陣屋に布陣。
その後、榎峠の戦いなどで奮戦、終戦まで戦い抜いた。
萱野隊の組頭が、伴百悦である。
萱野隊長之碑
. 大正6(1917)年、死節碑を移築する際、生き残った陶工たちが隊長/萱野右兵衛を偲び建立。 萱野右兵衛隊は、有名な萱野権兵衛隊とは別部隊。 斗南藩を経て、かつての部下の招きで本郷に移り住む。 陶工たちのみならず、水原の人たちからも慕われていたという。 明治5(1872)年に死去。 33歳。 ▲(会津美里町船場) ・白鳳山公園については、こちら。 |
「伊佐須美神社の境内には、惨殺された裸体の女たちの遺体が散乱し、
道端には老幼男女の斬殺体が山のようになっており、凄愴せざるはなし、と。」 『明治日誌/荒川類右衛門』 .
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通称:伝吾。 号:紫蘇園。 <歌人> 戊辰の役では、山川隊として日光口で奮戦。 明治18(1885)年、若松中学校の国語科教師に就任。 明治21(1888)年、伊佐須美神社の主典に就任。 明治25(1892)年、死去。 |
通称:万太郎、満之助、完平、官平、五峰。 嘉永6(1853)年、江戸湾防備で房州へ赴く。 文久2(18962)年、松平容保公に従い京都に赴く。 西軍との親しい内通を疑われたが、戊辰の役では各地で奮戦。 明治7(1874)年、息子/庸が伊佐須美神社宮司に就任したため、高田村に移り住む。 明治28(1895)年5月23日、死去。 73歳。 |
親善兵衛の倅。 14歳で講釈所試学及第。 会義隊/隊頭。 京都勤務後、命により幕臣/古屋作左衛門の軍目として奮戦。 慶応4(1868)年8月25日、藩兵1千人ほどを入城させるため、坂平四郎の二番新隊とともに囮部隊として奮戦。 成功の軍功により、全隊士が士中に格上げされた。 高田藩謹慎後、斗南へ移住。 明治25(1892)年、伊佐須美神社主典となる。 没年などは不明。 |
▲(会津美里町高田字宮林甲4377 Tel. 0242-54-5050)
・伊佐須美神社については、こちら。
詳細不詳。 開城後は、 高田村下町に和漢の寺子屋を開く。 「壮年故あって致仕。高田村に隠居す (幕末維新大人名事典)」 弟子の自由民権運動家で若松市長に就いた佐治幸平を養子にしているが、後に離籍。 明治6(1873)年、高田小学校の初代校長となる (会津高田町史)。 明治9(1876)年10月25日、死去。 長男/大学(熊之助)、次男/辰次郎(辰二郎とも)は残留組として江戸に残り、彰義隊に加わって奮戦。 辰次郎は、文久2(1862)年に昌平坂学問所へ遊学するほどの秀才。 |
▲(会津美里町字法憧寺南甲3499-1 Tel. 0242-54-3140)
・法幢寺については、こちら。