《現地観光案内板》
会津美里町 本郷エリア(310KB)
旭地区文化財絵地図(344KB)
文禄2(1593)年、蒲生氏郷公が黒川城 (鶴ヶ城) 改修のために、播磨国から瓦工/石川九左衛門らを呼び寄せて、黒瓦を作らせたのが始まり。
正保2(1645)年、保科正之公が瀬戸 (愛知県) 出身の陶工/水野源左衛門らを招き、本格的な陶器の基礎が築かれた。
安永6(1777)年、江戸の陶師/近藤平吉を招き、更に発展。
正保4(1647)年、本郷焼が創業。
寛政12(1800)年に新たな製法を開発、文化13(1816)年に完成し、東北で最古の白磁の産地となる。
このことにより、蚕養焼など会津各地にも藩窯を興し、大いに栄える。
更に、戊辰の役で藩を失ったお抱え絵師が、陶磁器の絵付けに生計の場を求めたため、本郷焼きの絵付けが芸術品と評価されるまで昇華し、国内はもとより海外へ輸出されるようになる。
国の伝統的工芸品にも指定されている。
旧/本郷町には、大小の窯元が多数立ち並ぶ。
釉薬「飴釉」を使ったニシンの山椒漬けを入れる「ニシン鉢」は有名。
毎年8月の第1日曜日に、「会津本郷せと市」が開かれる。
本通りから入った道は、昔のままで狭い。
各窯元にも駐車場はあるが、数台程度のところが多い。
“会津美里町インフォメーションセンター”の駐車場が利用できる。
≪陶磁器会館≫
窯元の作品を、一堂に展示・販売している。
各々の窯元でも購入できるが、各窯元の特徴を比較できる。
駐車場もあり、ここでの購入がお勧め。
見ているだけでも楽しい。 旧/会津本郷陶磁器会館が装いも新たに、「窯の美里 いわたて」の1階に移転。
“会津美里町インフォメーションセンター”の隣りにある。
▲(会津美里町字瀬戸町甲3162 Tel. 0242-56-5181 〔HP〕)
・9時〜17時
・休館 4月〜11月は無休、12月〜3月は火曜日
[公共交通]
参拝者が一番多い神社。
古来より、奥州屈指の名神大社で、会津総鎮守、岩代の国一之宮、奥州二之宮として崇敬を集めている。
神話のイザナギノミコトと、イザナミノミコトの夫婦神が、名前の由来とされている。
崇神10(紀元前88)年、天津嶽山頂(本名御神楽)に降臨。
その後、博士山を経て、明神ヶ岳へと移す。
欽明13(552)年、高田南原を経て、欽明21(560)年に現在の地に遷座した。
延長5(927)年に完成した延喜式の会津式内3社 (蚕養国神社・磐梯神社) の1つ。
永正11(1514)年、蘆名盛高公が再興。
国指定重要文化財「朱漆金銅装神輿 (室町時代)」などを所蔵。
四道将軍の大毘古命と建沼河別命の父子が、天津嶽で出会ったことから、「会津」の地名ができたといわれている。
会津六詣出の一つ。
会津七福神の壽老人。
ふくしま緑の百景の1つ。
≪あやめ苑≫
東北一のあやめ苑で、150種、10万株が植えられている。
神社の正面入り口側にある。
6月15日から7月5日までに「あやめ祭り」が開催される。
祭りは盛大で、多数の露店が並ぶ。
高田梅の梅市も行われ、観光客で大混雑する。
たくさんの錦鯉が泳いでいる庭園内の池と、あやめの花との調和は見事である。 解放されており、見学自由。
緋鯉の餌やりもあり。
≪薄墨桜≫
伊佐須美神社の御神木で、会津五桜の1つ。
▲(会津美里町高田字宮林甲4377 Tel.0242-54-5050 〔HP〕)
・御祭事 4月15日 鎮火祭
4月29日 太々神楽
7月12日 御田植祭
9月1日〜17日 例大祭
9月15日 渡御祭
11月23日 秋祭
・見学時間 40分
[公共交通]
伊佐須美神社の境外末社の一つで、宮川に面して鎮座。
昔々、川の氾濫や落雷による火災などの天変地異が多発し、住民を苦しめていた。 宮川は大きな川でもないのに、洪水によって多くの犠牲者が出ていた。
飛来した殺生石の祟りであるとのお告げがあり、祠を建立し祀ったところ、災害は激減したと云う。
境内に、歌人/佐治斗牛 (佐治雄平) の歌碑がある。
▲(会津美里町宮林甲4377-4)
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7月11日〜13日、最大の御例祭である「お田植祭り」が執り行われ、五穀豊穣を祈願する。 “高田の昼田”と称され、「伊勢神宮の朝田、熱田神宮の夕田」とともに、日本三大御田植祭の1つ。 国指定の重要無形民俗文化財、選択無形民俗文化財。 田を荒らす動物などを追い払う「獅子追童子」から始まる。 次いで、“かすりの着物”、“編みがさ姿”に女装した長男だけで行われる「早乙女踊り」が行われる。 |
午後は、「神輿渡御」の後に「田植式」まで、古式に則って奉納される。 「獅子追童子」は、全国で唯一、ここだけに継承されている。
日本の北限とされた御田植祭「会津の三大御田植祭 (慶徳稲荷神社・栗村稲荷神社)」の1つでもある。
▲(会津美里町谷地前)
文永元(1260)年、下野/雲源寺の僧/厳知が移り住み、一宇を建立し中田庵と称する。
文永11(1274)年、長者/江川常俊が前年に死去した娘の菩提を弔うために観音菩薩像を鋳造し安置。
普門山、曹洞宗。
昭和3(1928)年、本尊の「銅造十一面観音菩薩 (187cm)」と、「金銅造/立像2躯の不動明王 (95cm)・地蔵菩薩 (94cm)」が、国宝に指定。
文化財保護法施行後は、「弁天堂」と共に国指定重要文化財。
弘安2(1279)年、地頭/富塚盛勝が伽藍を造営、臨済宗に改宗し、年号から「弘安寺」と改名。
寛永19(1642)年、天寧寺の僧/通厳が再興する。
慶安元(1648)年、曹洞宗に改宗し、天寧寺の末寺となる。
宝暦7(1757)年、堂宇が改築され、現在に至る。
ころり観音として、人々の信仰を集めている。
「だきつき柱」で願うと、長患いをしないで済むという。
元々は懐妊した人の安産祈願であった。 大正時代に東宮妃殿下が安産を祈念して無事ご安産されてから、安産の神としても全国に知れ渡った、
遠くへ旅をしたり出征する者が御守「土守り」を持てば、他の土地で土になることなく、無事に家に帰れるとの習わしがある。 海外旅行の際には是非どうぞ。
「土守り」には、観音像を鋳造した時に使用した土や厨子の床下の砂が入っている。
会津六詣出の一つ。
会津三十三観音の第三十番札所。
会津十二薬師の第九番。
世界的な医聖・野口英世の母/シカが、信仰していた御仏でもある。
毎月の月例祭には猪苗代の家から、30キロほどの道のりを歩いてきたという。
日付が変わる真夜中に到着し、一晩、観音堂に「おこもり」をする「月詣り」をして、息子の無事を祈願し続けた。
大正4(1915)年、帰省した英世が母/シカ、小林教師でお礼参りをしたことでも有名。
▲(会津美里町米田字堂ノ後甲147 Tel.0242-78-2131)
・正月三ヶ日新年御開帳 (1月1日〜1月3日)
・おこもり大祭/四万八千日大祭 (8月9〜10日)
・菊まつり大祭 (11月1〜10日)
[公共交通]
天海大僧正の誕生を記念して、両親 (船木景光夫妻) が屋敷の敷地内に建立したと云われる。
「天一」の陰刻が残っており、天海が日輪を拝んだ遥拝石とも云われる。
平成23(2011)年、風雪から守ろうと屋根落慶式が行われた。
昭和53(1978)年、建立。
句碑「長生きの教え」も傍らにある。
天海大僧正については、こちら。
▲(会津美里町字高田甲2907)
[公共交通]
・会津美里町公民館の入口敷地 → 公民館が撤去
大正4(1915)年、歴史学者/黒板勝美・辻善之助の両博士 (後に東京帝国大学教授) により この地が天海の生地であることが確認された。
大正13(1924)年、輪王寺門跡の大照円朗大僧正の書による石標が、船木氏屋敷跡地に建立された。
護法石のある会津美里町公民館の道路向かいにある。
会津美里町 (旧/高田町) /船木 (舟木とも) 家にて誕生し、兵太郎と名付けられた。
蘆名氏の女婿/船木兵部少輔景光の息子との説が有力。
「東叡山開山慈眼大師縁起」にも、
「陸奥国会津郡高田の郷にて給ひ 〜 蘆名修理太夫平盛高の一族」
と記されている。
本堂脇の浮身観音堂裏の墓域にある。
徳川時代の初めに権勢を誇った天海大僧正は、この地で生まれ育ち、この寺で出家したと伝えられていた。
大正4(1915)年、東京帝大教授の歴史学者/黒板勝美と初代東大史料編纂所所長/辻善之助の両名が、土中に埋没していた五輪塔2基を発見した。調査の結果、天海の父/船木景光と その妻の墓であることが確認された。
「東叡山開山慈眼大師縁起」にも、「陸奥国会津郡高田の郷にて給ひ 〜 蘆名修理太夫平盛高の一族 〜」とある。
天海大僧正の墓所は日光山の他に、東京に天海僧正毛髪塔、比叡山に慈眼堂、喜多院に慈眼堂がある。
天海大僧正については、こちら。
▲(会津美里町龍興寺北甲2222-7 Tel. 0242-54-2446)
[公共交通]
・龍興寺については、こちら。
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中世の会津黒川城主/蘆名盛氏公が、向羽黒山の自然を利用して築いた山城。 観音山・羽黒山・岩崎山から成る山城は、東北最大規模で、東西 1.4キロ、南北 1.5キロにも及ぶ。 連続する3山の切り立った展望台から若松市街を眺めると、防御に最適な砦と実感できる。 永禄4(1561)年、築城を開始し、永禄11(1568)年に完成。 居住期により、弁天山城、岩崎城、巌館とも呼ばれた。 |
向羽黒山の名は、山頂の羽黒神社が東山/羽黒山神社へ向いて建立されたことから。 |
15世紀、在地の領主/渋川氏が居城を築くと伝わる。
資料の初記載は、渋川刑部太輔義清が住むとある。
東西63間 (113m)、、南北49間 (88m)。
文明11(1479)年5月27日、蘆名盛高公が渋川の家臣/荒川数馬の内通を得て攻め入り、城主/渋川上総介義基・嫡男/下野義純・次男で西勝城主/西勝安芸芳春・従兄弟の尾岐領主/小俣永嶺・左馬介義則・甥の永井野館主/白井宗四郎憲基など一族を悉く討ち取り、滅亡させた。
その後は、蘆名氏の家臣/松本氏の持城となる。
後に、再び渋川氏一族が、蘆名氏の家臣として居住を許される。
天正年間(1573〜1572)の末期に廃城とされる。
今では、本丸南東部/土塁の一部に雷神社があるだけ。
▲(会津美里町舘ノ越甲556/布才地570)
蘆名盛隆公の側近/荒井萬五郎が築き居住していたとされるが、詳細は不詳。
天正9(1581)年、盛隆公から織田信長へ馬3頭と蝋燭千挺を進献したが、その時の使者として知られる。
▲(会津美里町荒井) 説明板があるのみ
蘆名盛興公の家臣/沢田兵庫光高が築く。
元亀元(1570)に勧請した稲荷社と、その際に植栽されたとされるケヤキが現存。
▲(会津美里町和田目字杉免)
昭和49(1974)年12月1日、「肝煎の家に伝わる門」として会津美里町文化財に指定。
肝煎や組頭の家にのみ建てることが許された「四脚門」。
会津美里町指定文化財
寛永四年 (一六二七) 会津の領主加藤嘉明より遠藤常康が当地方の肝煎を命じられた折に建てられたもので、この四ツ脚門は肝煎の家の格式を表徴している。
▲(会津美里町本郷)
文化財 | 道標 | 窕堰碑 |
明神ヶ岳登山道入口 |
駒谷不動滝 | 堅木岩洞窟 | ||
本郷発電所 | 宮川発電所 | 新宮川ダム | |
《一里塚》 | 栃沢一里塚 | 新屋敷一里塚 | |
道路元標 | 道路元標/東尾岐村に並びの道標 |
《参考 (車では行けず)》
上平不動滝 | 天狗岩とノッチ | 松坂の大滝 |
《雑草に覆われていた》
窯元が住んでいた土蔵造り住宅を、外壁や土台などを修復して美術館にした。
古い本郷焼や、掛軸・屏風など染付作家の絵画作品などを展示されている。
今の作家の作品も、紹介されている。
▲(会津美里町瀬戸3131-2 Tel. 0242-57-1678)
・9時〜17時
・休館 毎週火曜日