《現地観光案内板》
西会津町観光案内マップ(159KB)
西会津町観光案内図(157KB)
大同2(807)年、行基菩薩の作/聖観世音菩薩を本尊として勧請し、仏都会津の祖/徳一大師が草創。
参拝は、本堂の東口から入り、西口から出るのがここでの習わし。 東西向拝口とで、三方開きになっている。
わが国で唯一の構造で、西方極楽浄土へ 「ころり」 と導くとされる。 観音様にお願いし、「身代わりなで仏」 をなで、御守りを念持すれば、心願成就するといわれる。
天平8(736)年の春、行基菩薩が会津巡錫の折、野沢の農家が快く宿を供した。
子にも恵まれず、鳥獣の害で田畑の穀物が食べつくされ、非常に困っているのを聞き、一寸八分の念持仏/聖観世音菩薩像を彫り、授けた。 すると霊験著しく、鳥や獣が追い払われて豊作となり、子宝をも授かった。 その後、観音様を「鳥追観音」と尊称するようになったという。
慶長16(1611)年、2年前の地震で崩壊した観音堂を、蒲生秀行公の筆頭家老で津川城主/岡半兵衛重政が再建。
左甚五郎が鳥追観音の霊験にあやかりたいと願い、一心を込めて「隠れ三猿」を彫ったと伝えられている。
・災難より隠れザル (鷹が、猿を狙っている)
・災難より逃れザル (鷹が、猿を見失っている)
・安楽に暮らしザル (安堵して、丸くなって手枕で眠っている)
2匹までは簡単に見つかるが、心に迷いがある者は、3匹目を見つけられない。
見つければ、牡丹のつぼみが開くように福を授かるとのこと (ヒント)。
会津六詣出の一つ。
ころり三観音の第一霊場として、人々の信仰を集めている。
縁結びや子授け、子育ての御利益があるとされる。
会津三十三観音札所の番外結願所で、二世安楽が叶うとされる。
《高野槙》 県指定天然記念物、県指定緑の文化財。
樹齢約1,200年で、高さ31メートル、幹周り5メートルの巨木。
福島県が北限の日本特産/常緑高木だが、これほどの巨木は稀。
大同二年(八〇七)徳一大師當山御開創の時
記念植樹と伝えられ東北最大の高野槙で
ある。 昭和三十六年九月十六日室戸台風に
より大枝がさけ落ち県の調査にて樹令
千二百年と判明した。 (説明板より)
▲(西会津町野沢字如法寺乙3533 Tel. 0241-45-2061 〔HP〕)
・8時〜16時
・主な行事 ・元旦祭 1月 1日
・初観音 1月17日
・若葉祭 5月 1日〜 6月30日 (春例大祭)
・紅葉まつり 10月 1日〜11月30日 (秋例大祭)
・除夜の鐘 12月31日
・見学時間 30分
[公共交通]
・如法寺については、こちら。
御祭神は、治山治水の大山祇命、健康長寿の岩長比売
奈良時代の宝亀9(778)年からの歴史をもつ。
通称「野沢の山の神さま」 「山の神」として親しまれている。
三年続けて参拝すれば、一生に一度のどんな願いでも聞いてくれるとの意味の 「なじょな願いも聞きなさる」 で、信仰を集めている。
駐車場のある遙拝殿から、徒歩4キロほどの大倉山8合目に御本社があり、山頂には奥の院が祀られている。
不動の滝、弥作の滝、御本社近くの杉並木など、聖なる風景と静寂さは、安らぎを得ることができる。 子供の頃は、「二年参り」といって旧暦の大晦日から元旦にかけて参拝した。
旧暦の大晦日の夜に旧年のお礼参りをし、午前0時の一番太鼓を合図に2度目の参拝をすると、2年分のお参りをしたことになり、祈願が成就するとされる。
治山治水は治産治米に通じ、下流である新潟県からの参拝者の方が多いようだ。
新潟の他にも、山形一円にまで厚い信仰が寄せられている霊場である。
例大祭には、遥拝殿のある大久保集落まで車の渋滞が発生するほど賑わう。
会津六詣出の一つ。
▲(西会津町野沢字大久保甲1445-2 Tel. 0241-45-2323 〔HP〕)
・主な行事 ・元旦祭 旧暦の1月1日
・大山祭り 6月1日から30日
・例大祭 旧暦の9月9日・19日・29日
・月次祭 毎月9日・19日・29日
念仏杉 大山祇神社へ向かう大久保街道沿いにある。 かつて、この杉を起点に急な坂道が続くため、杉の下にあった供養塔で一休みし、念仏を唱えたことから。 樹齢450年以上とされ、慶長16(1611)年の大地震で寺が崩壊し、他の杉並木も土石流になぎ倒されたが、この杉だけは生き残った。 ▲(西会津町野沢字地蔵ヘツリ甲748-4) |
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上野尻駅と徳沢駅間にある阿賀川の3キロほどの峡谷。 水深は浅いが急流で、岩を洗う水流と岩肌、周囲の樹木とのバランスが良く、只見柳津県立自然公園の中の景勝地の一つ。 特に、紅葉の時期は賑わう。 長寛2(1164)年の大地震で、地すべりが起こり、堰き止められて出来たとされる。 川幅が狭くなっている形が、酒を入れるお銚子のくびれに似ていることから名付けられた。 |
車が通れるかと心配するほどの幅の踏切を渡れば、あとは一本道。 ▲(西会津町群岡) |
国道49号沿いで、野沢街外れの新潟寄りにある。
磐越道の西会津IC出口からは、1キロほど。
平成16(2004)年9月に、オープンした。
大型スーパーの隣に位置しており、珍しい道の駅である。
《交流物産館 よりっせ》
ミネラル米、ミネラル野菜など、健康のための"ミネラル"がテーマ。
入り口近くに、無料のレンタルサイクルが置いてあった。
なぜか、沖縄県宮古島の物産も売っている。
道の駅の入り口にも、"赤ベコ"と共に"シーサー"がある。
聞いてみると、友好都市の提携をしているからだそうである。
▲(西会津町野沢字下條乙1969-26
Tel. 0241-48-1512
〔HP〕
〔HP〕)
・9時〜19時(冬季は別)
・休館 年末年始
野澤宿 (野澤宿の変遷)
昔、野沢盆地は湖底だったが、銚子の口が決壊したため、水が引いたとされる。 鎌倉時代、当地に就任した地頭/荒井信濃守頼任が館を築く。 文亀〜大永年間(1501〜1527)、野澤原町の有力者6人により町割りが行われる。 江戸時代に入り、阿賀野川舟運の要衝地/津川宿と鶴ヶ城下の中間に位置し、各々1日の行程であることから、さらに重要な宿場と注視される。 元和6(1620)年、野澤原町村が駅所となる。 代官所や藩の郷蔵なども設置され、六斎市 (3・8・13・18・23・28日の6日間) が開かれ、名刹/鳥追観音(如法寺)と大山祇神社への参詣者も加わて、越後街道の三大宿場に数えられるほど発展する。 新発田藩と村上藩は、本陣を設けて参勤交代の宿所とした。 文化3(1806)年、馬継ぎ宿の野澤本町と合併し、野澤宿となる。 戊辰の役で、松平容保が8月1日〜13日まで野澤本陣で指揮を執った。 |
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かつて、現在地に移る前の江戸時代には脇本陣であった。
文化11(1814)年、十返舎一九が宿泊したとのこと。
「金草鞋 会津・小出・新潟紀行」に狂歌を記載。
「三味線の 野澤の宿は
旅人の袖を無性に引いて とどめる」
本陣と違い、脇本陣には一般客も泊まることができた。
▲(西会津町野沢上原乙2404 Tel. 0241-45-2015)
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