会津側からは 「越後街道」、越後からは 「会津街道、会津通り、若松街道」 と呼ばれていた。
◇ 佐渡金山への街道 「佐渡三道」 の1つでもあることから「佐渡街道 、 佐渡道」
◇ 新発田藩と村上藩などが参勤交代に使っていたことから、「殿様街道」
◇ 各地域では、「越後路」 「津川街道」 「赤谷街道 、 赤谷通り」 「新発田街道」
とも呼ばれ、いかに重要な街道であったかがわかる。
道標が西福寺境内の柿本稲荷神社に湯殿山碑として現存。 「右 日光街道」 「左 江戸街道」 |
高久宿
阿賀川 (大川) の手前に位置し、全戸数64軒で宿を受け持った。 舟渡し特権は東原村であったが、郭外の舟運基地として大量の廻米や西入塩 (越後からの塩) が集積され、代官所・藩籾倉なども設置。 代官屋敷と郷頭屋敷の間に設置されていた金比羅大権現/常夜燈籠が道端に移設されたものの現存している。 |
坂下宿
最初の宿場町であるが、若松・喜多方・高田・越後と四方への街道の分岐として要衝の地であった。 当初の越後街道は、喜多方の高郷から勝負沢峠を経ていた。 慶長16(1611)年、大地震で峠の街道が崩壊し再建不能となり、新たな経路として坂下宿が整備された。 寛永元(1624)年、藩主/蒲生忠郷公に町割を嘆願。 寛永 2(1625)年、忠郷公による町割が実施され、上町・中町・下町が形成、ほぼ宿場町の形態が完成した。 その後、寺町・新町・茶屋町・新々町・鉄砲町も形成され、大いに発展する。 天明2(1782)年、郷役所が設置される。 天明8(1788)年、下荒井村郡役所配下の代官所が設置され、周辺集落の行政や経済の中心となり栄え、越後街道の三大宿場と称されるまでに発展する。 城下から3里ほどしかなく、宿泊よりも休息に利用された。 本陣も設置されなかったが、本陣を兼ねた郷頭/石本家屋敷跡の標柱が役場の前の広場にある。 愛宕神社<新舘>前の小道 200mほどが旧/越後街道。 戊辰の役で、照姫護衛の中野竹子たちが終結 (婦女隊) したことで知られる。 明治11(1878)年、イギリス人女性紀行家/イザベラ・バードも来訪している。 |
《鳥屋山軽沢登山口》 登山道の途中の分岐点までは、旧/越後街道。 |
甲石と軽沢の間に人家はなく、降雪の季節には難渋する区間であった。 安永8(1779)年、青坂の治兵衛が不動川の傍ら (一里塚近くでガラメキ橋の手前) に「大畑の茶屋」を開くと、たちまち評判になった。 甲石 その先に、村名の由来の冑神社がある。 |
縄沢宿
家数20〜30軒の宿場町。 古く野沢盆地が湖だった頃は、船継ぎ場だった事から「船繋沢 天正年間(1573〜1593)の初め、土着した生江浩春/主従18人が開墾し、「綱沢」に改めた。 寛永2(1625)年、上町集落と侍屋敷集落が移され、宿場として整備された。 正保4(1647)年、藩主/保科正之公により越後街道の整備が進展したことから、「縄沢」に改められた。 |
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《愛馬之碑》 |
野尻宿
古来より、阿賀野川舟運で栄えていた。 延宝2(1674)年、越後街道が整備されるに伴い、街道と川湊の要衝の地に近くの集落を移転させ、舟運の川港町としての宿場とした。 徳沢港と野尻宿の間に難所の「銚子の口」があり舟運で通行ができないため、上りと下りの荷物は陸揚げされ、馬輸送や人が背負って徳沢港や津川宿まで運ばれる。 舟運の湊が下野尻宿の方へ移動したため舟荷の分の行き交いが増え、街道で五指に入るほど栄えた。 輸送量の増加に伴い、新たに上野尻村が開村した。 上野尻宿と下野尻宿は、両方とも相の宿である。 両宿は近いにもかかわらず、間に極めて深い蟹沢川がり、1つになることが出来なかった。 寛政(1791)年〜文政2(1819)年、藩も重要な宿場として、野澤・山三郷・津川の代官所を統括する郡役所が設置し監視させている。 明治11(1878)年、イギリス人女性紀行家/イザベラ・バードが野尻宿を訪れると、集落の風情や車峠の茶屋からの眺望が大変気に入ったようで2泊し、著書/日本奥地紀行に「絵に見るような集落」と記している。 |
《根折(ねさく)神社》 永仁2(1294)年、下野尻村の鎮守として勧請されたと伝わる。 寛永5(1628)年、、祭神/大天大明神が車峠開削の工事を無事に完遂させると、安座村の肝煎/二瓶七左衛門の霊夢に現れたという。 明治元(1868)年、大矢神社と村中の諸神を合祀して創建。 《車峠 (茶屋跡)》 寛永年間(1624〜1644)、鶴ヶ城修復の資材を運ぶために、安座の肝煎/二瓶七左衛門が使った獣道が、後に峠道として整備された。 見晴らしの良い峠の頂には茶屋もでき、参勤交代の大名も休憩の場とした。 イザベ・ラードも称賛している。 |
白坂宿
寛文7(1667)年、相の宿場町 (戸数 21軒) として整備された。 文政3(1820)年、周囲の熊沢・楢木平・柞畑などが合併して、新たに屋敷村となる。 宝川宿と半月交代で、運輸や通信の業務を行っていたとのこと。 |
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福取宿
旅籠「泉屋」を中心に、それなりに栄えていた。 現在は人口20人ほどの、いわゆる限界集落となり残念である。 |
野村宿
戸数33軒余り。 集落の出口に一里塚があったとのこと。 本陣を務めた郷頭/玉木家の邸宅が、昔を偲ぶ。 (花立宿) 街道沿いに点在する小さな宿場町。 難所/銚子の口で舟運が使えないため、陸路の荷物運搬に従事する者が数多く行き交っていた。 越後側には大きな津川宿、野沢側には新発田藩と村上藩が休息するための本陣があり、中間に位置する花立宿は運搬従事者を相手とする宿場であった。 |
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天満宿
阿賀野川の支流/常浪川の渡し場にある集落。 時折、常浪川は暴れ川に変貌したという。 |
《大船戸の河湊跡》 阿賀川 (新潟側は阿賀野川) 舟運の最大の拠点として会津藩への物資集積・中継地として、帆掛け舟150余隻が発着、荷揚要員100余名が在職、「日本三大河港」の一つと称された。 明治に入り、会津藩の消滅を目論む極悪人・県令/三島通庸の三方道路が強行建設されたが、物資の輸送には船運が有利だったため、津川宿は衰えなかった。 やがて、鉄道が開通し、自動車輸送の時代を迎え、ダム建設で港の機能を失い、長い歴史を閉じた。 |
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行地宿
越後街道で最大の難所/諏訪峠を控える宿場町。 戸数26余軒。 文化11(1814)年、通過し終えた十返舎一九は、下記とも記している。 「あいづより ゑちごしばたまで いたる かいどうのうち このとうげほど たかく なんぎなるはなし」 |
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新谷宿
旅籠が5軒で、戸数が40余軒の集落。 村上藩の本陣 (阿部家) が設けられていて、新発田藩主も休息で利用していた。 戊辰の役で、西軍により焼き払われたが、翌年に再建。 その後に移築され、今は 「ノラクチーナ新潟鐙店」 として現存している。 文化11(1814)年、この地を通った十返舎一九が、著書「諸国道中金草鞋」に駕篭かきとの掛け合いを面白く記している。 |
《六軒町地蔵堂》 赤谷宿へ入る手前にある。 元々は、集落に邪気が入らないように設置されたのだろうが、いつしか旅人の安全を授かる御利益があるとして、行き交う人々が往路には安全を祈願し、復路には無事に戻れた御礼にとの参詣人で賑わっていたという。 |
越後から北方を経て米沢へ至る越後街道の脇道で、通称/越後裏街道。
《舘原の道標 (山都町)》
舘原は、あががわと只見川が合流する水上運送の重要な地であり、天明8()年には代官所が設置されている。
現存する道標は、文久2(1862)年に建立されたもので、平成18()年1月4日に喜多方市指定有形民俗文化財 (15号)となる。
「南 若松 西 津川 東 小荒井」
脇に建つ塔は、途中で街道の露となった旅人の慰霊塔とのこと。