会 津 を 構 成 す る 市 町 村

[戻る]  [TOP]  [行く]  [遊ぶ]  [知る]    [会津坂下町]    [メニュー]  会津美里  猪苗代  金山  喜多方  北塩原  下郷  昭和  只見  西会津  磐梯  檜枝岐  三島  南会津  柳津  湯川

名 刹 と 神 社 (会津坂下町)

恵隆寺(立木観音)については、こちら

貴徳寺           堀部安兵衛両親の墓

貴徳寺

 長元元(1028)年、直愚により開山。
 長光山、浄土宗。
 本尊は、阿弥陀如来立像。
 若松/高巌寺の末寺。
 境内には、子安観音を安置する観音堂がある。
 殉難者墓あり
 天文14(1545)年、享保12(1727)年、明治24(1891)年の3回焼失している。
 ▲(会津坂下町字茶屋町甲3873 Tel. 0242-83-2656)

金上寺 (きんしょうじ)

金上寺

 一大文化圏を築いて「高寺三千坊」と称され繁栄した高寺が、宝亀6(775)年に突然、謎の滅亡をする。
 平安時代に再び「高寺三十六坊」までに隆盛したが、その1つの「金上坊」が独立した寺。
 正平18/貞治2(1363)年、僧/雪道が堂宇を建立し、運慶作の薬師像を安置し金上寺とする。
 鐘鋳山、曹洞宗。本尊は阿弥陀如来。若松/善龍寺の末寺。
 昭和32(1957)年の火災で、本尊を含む寺宝の多くは焼失。
 昭和57(1982)年、本堂が再建される。
 蘆名氏一族で津川城主/金上氏の菩提寺でもあった。
 猪苗代町には、三忠碑がある。

 ▲(会津坂下町金上字館178)

栗村稲荷神社

栗村稲荷神社

 創建など詳細不詳。
 祭神は、倉稲魂神(うかのみたまのかみ)
 地頭/栗村氏の守護神として、館の内地内に祀られていた。
 明治の西軍が施行した大罪/神仏分離令 (廃仏毀釈) により、旧/諏訪神社の境内に移され末社となる。
 明治44(1911)年、火災により焼失。
 昭和6(1931)年、現在地に再建。
 本来は諏訪神社の境内なのだが、平成21(2009)年の火災で焼失している。
 7月7日、「会津の三大御田植祭 (伊佐須美神社慶徳稲荷神社)」の1つ「坂下の御田植祭」が開催される。
 大正時代から始まったものだが、国の選択無形民俗文化財に指定されている。
 五穀豊穣を祈願して早乙女踊りが奉納される。

 ▲(会津坂下町中岩田1930)

気多神社<坂下>

 越後街道の宿場/気多宮宿の名称の由来となったとされる神社であるが、創建の詳細は不詳。
  ◇ 文治2(1186)年、武蔵坊弁慶の脊板 (背負子) を拾った縁
   起から、気多大社 (羽咋市) の分霊を勧請した。
  ◇ 延宝2(1674)年、豊臣家の旧家臣/平野権兵衛長泰の孫
   が土着し、旧領に鎮座していた気多大社を遷座した。
など諸説あり。
 ▲(会津坂下町大字気多宮字船渡口176)

 
塔寺・気多宮宿
 慶長16(1611)年、大地震で峠の街道が崩壊し修復不能となり、新たな越後街道の経路が開削されたため、坂下宿とともに整備された。
 隣接する気多宮宿が沼田街道との分岐点でもあり、両街道を行き交う人々に加え、名刹/恵隆寺心清水八幡神社への参拝者で大いに潤っていた。 分岐点の角には、戊辰の役の痕跡を留める道標がある。
 気多宮の地名は、現地の気多神社によるものとされるが、詳細は不詳。

≪弾痕の残る気多宮の道標 (追分石)≫
気多宮に立つ道標 道標の弾痕
 越後街道と沼田街道の分岐点に建つ道標。
  「是より右 越後路
  「是より左 柳津路
と刻まれている。
 尖頭角石柱、高さ2mほど。
 戊辰の役での弾痕が確認できる。
<「殉難者」と併記>  .

光照寺

光照寺

 寛永元(1624)年、僧/順覚が坂下村に開基。
 摂取山、真言宗大谷派。
 本尊は、阿弥陀如来。 京都/東本願寺の末寺。
 境内に、句碑がある。
 殉難者墓あり

 ▲(会津坂下町字茶屋町甲3911 Tel. 0242-83-2770)

光明寺<茶屋>

光明寺

 元亀2(1571)年、岌岸上人が光明院として開山。
 後に、光明寺と改称した。
 正覚山、浄土宗。 本尊は阿弥陀如来。
 若松/高巌寺の末寺。
 境内に、句碑が2基ある。
 殉難者墓あり
斎藤清の墓 斎藤清の墓
 世界的に有名な版画家の斎藤清(夫妻)の墓がある。 「会津の寺」シリーズの中に、光明寺の山門と六地蔵の2点が描かれている。
 斎藤美術館については、こちら。
 斎藤清アトリエ館については、こちら。
 略歴については、こちら。

 ▲(会津坂下町字茶屋町甲3913 Tel. 0242-83-3527)  [本尊]

心清水八幡神社 (こころしみず ―)

心清水八幡神社

 天喜3(1055)年、源頼義が霊夢に導かれ、戦勝を祈願して勧請。  塔寺八幡宮と呼ばれている。
 祭神は、誉田別命、息長帯比売命、比淘蜷_。
 文久3(1863)年、松平容保が現在の社殿を造営。
 現存する「塔寺八幡宮長帳 (通称:異本塔寺長帳)」は、貞和6(1350)年から寛永12(1635)年までの286年間分で、全長約120mにも及ぶ日記。
 昭和4(1929)年、塔寺八幡宮長帳は、旧国宝 (現/国指定重要文化財/古文書) に指定。
 昭和34(1959)年国指定重要文化財/工芸品に指定された「鰐口 (南北朝時代)」は、直径61.8センチ、厚さ13.4センチ、重さ約75キロもある。
 こちらは、至徳4(1387)年に、葦名氏一族の性覚とその子息が、奉納したもの。
 会津十二支守り本尊の戌・亥 (阿弥陀如来)

 ▲(会津坂下町大字塔寺字松原2859 Tel. 0242-83-2553)


 心清水八幡神社/一の鳥居の東側近くに悲恋物語が伝わる「茶碗塚地蔵」がある。
  茶碗塚地蔵  この「茶碗」とは「飯茶碗」のことで、行脚中の若い僧侶と名主の娘 (門前町の飯盛り女とも) の悲恋物語が伝わる。
 恋に落ちた娘が僧侶の使った茶碗を自分で使っていたら子供ができるも、子供も思い出だけ残して夭折してしまい、供養のため建立されたと云う。

西光寺

西光寺

 開創など詳細不詳だが、高寺の1つとされる。
 天正元(1573)年、僧/春廣が小池 (御池) 村に建立。
 羽黒山、曹洞宗。
 本尊の聖観音菩薩像は、弘法大師作と伝えられる。
 会津三十三観音の結願所
 竹田(武田)惣吉
 ▲(会津坂下町大字御池田字寺ノ前152 Tel. 0242-82-2479)

浄泉禅寺

 開創など詳細不詳だが、高寺の1つとされる。
 浄土宗の道場として創建とも。
 康歴2/天授6(1380)年、蘆名氏の家来/生江大膳 (岌州の父) が堂宇を建立し、本尊/木造阿弥陀如来立像を安置する。
 清光山。
 文明年間(1469〜1487)、僧/薫山が曹洞宗として中興。
 永禄11(1568)年、僧/松岩が西青津村に建立。
 今は若松/恵倫寺の末寺とのこと。
 会津三十三観音の青津観音と、国指定重要文化財 (木造薬師如来坐像) の上宇内薬師も管轄。
 ▲(会津坂下町大字青津字本丁71 Tel. 0242-83-4777)  [本尊]

青津観音
 永禄11(1568)年、僧/松岩が正徳寺の境内に創建。
 慶長16(1611)年、大地震により堰止湖が出来て全村水没し御堂が流出、壊れた観音堂が下流の青津に漂着した。
 新たな観音堂が現在地/亀ヶ森古墳の後円部の頂上に再建され、その後は青津観音として浄泉寺の管轄となる。
 会津三十三観音の第三十二番
 ▲(会津坂下町大字青津字館ノ腰)

正徳寺 (しょうとくじ)

正徳寺

 開創など詳細不詳だが、高寺の1つとされる。
 本現山、浄土宗。 本尊は阿弥陀如来。
 天文20(1553)年、岌円上人が中興。
 現在は、若松/高巌寺の末寺。
 蘆名氏の重臣/生江大輔の子/岌州 (青木村出身)は、この寺で岌円上人により得度し、後に京都/百万遍知恩寺の第三十世住職となる。
 ▲(会津坂下町大字青木字青木66 Tel. 0242-82-3660)

定徳寺 (じょうとくじ)

定徳寺

 草創など詳細不詳。
 応永年間(1394〜1427)、僧/円誠が住職に就く。
 徳栄山、真言宗豊山派。
 本尊は釈迦如来だったが、現在は薬師如来とのこと。
 勝常寺の末寺。 現在は無住のため勝常寺が管轄。
 木造薬師如来座像は、会津十二薬師の第五番
 ▲(会津坂下町中泉中屋敷1729)  [本尊]

勝方寺 (しょうほうじ)

勝方寺

 永正11(1514)年、僧/大沖元甫が草創。
 曹洞徒/麟覚とも。
 慶雲山、曹洞宗。
 草創時は、高さ1.5メートルほどの五輪塔が建つ村南の場所と伝えられている。
 近くの裏山に、「町野家/南摩家 家族殉難の地」がある。
 ▲(会津坂下町大字勝大字沢口1336 Tel. 0242-82-3204)

定林寺 (じょうりんじ)

定林寺

 建久4(1193)年、高寺三十六坊の1つの常林坊が栗村に移転し独立、定林寺と改称し開創。
 益葉山(えきようざん)、曹洞宗。 本尊は大日如来坐像 (高さ 84cm)。
 応永14(1407)年、示現寺の天海空広が廃寺の寺を中興。
 天文21(1552)年、蘆名氏重臣/栗村弾正の家臣/平田尾張守八郎盛が再開基。
 栗村弾正盛俊 渋谷東馬 殉難者墓あり
 本尊は徳一大師作の観音菩薩だったが、戊辰の役で長岡藩の本陣になったこともあって西軍に略奪され、今は諏方社から寄贈された大日如来 (84cm) と阿弥陀仏が祀られている。

 ▲(会津坂下町字舘ノ内甲2561 Tel. 0242-83-3626)

立木観音(恵隆寺)については、こちら

長栄寺

長栄寺

 草創など詳細不詳。
 多宝山、真言宗豊山派。 本尊は不動明王。
 天正8(1580)年、僧/俊源が住する。
 勝常寺の末寺。

 ▲(会津坂下町大字宮古字中西46)

調合寺

調合寺

 高寺の「高寺三十六坊」の1つ調合坊として開山。
 高寺が滅亡したため、建仁2(1202)年に現地へ移り、調合寺と改称し独立。
 瑠璃光山、曹洞宗。 本尊は阿弥陀如来。
 弘治元(1555)年、真言宗の僧/浄玄が中興。
 正保2(1645)年、僧/祖伝が曹洞宗に改宗。
 現在は、近くの浄泉禅寺が管轄。
≪上宇内薬師如来堂≫
 大同2(807)年、徳一大師が五薬師の1つとして開創。
 「木造薬師如来坐像及び脇侍/日光・月光」は、国指定重要文化財。
 平安中期の作と云われるケヤキの一木造り (丈6尺強)。
 元禄年間(1688〜1704)、僧/道安が現在地に移し中興。
 大正9(1920)年、本尊の木造薬師如来座像が国宝 (現/国重文) に指定。
 会津五薬師の西方薬師
 会津十二薬師の第六番

上宇内古墳(白山神社) ≪上宇内古墳 (白山神社)≫
 薬師如来堂の西隣にあり、円墳とも、前方後円墳とも云われる。
 前方後円墳ならば、北北西にある雷神山古墳と向かい合っている。
 白山神社とされるが、今では墳丘に小さな石祠があるだけ。

 ▲(会津坂下町大字大上字村北甲803)   [本尊] [寺宝]

長龍寺 (長竜寺)

長龍寺

 天正元(1573)年、片門村主/赤城 (木) 平七が開基。
 天正年間(1573〜1591)とも。
 高寺の八薬師の一つと伝えられる。
 峰松山、曹洞宗。 本尊は木造薬師三尊 (地蔵菩薩)。
 恵倫寺の末寺。

 ▲(会津坂下町片門字寺東1054-1)

徳正寺

徳正寺

 元和9(1623)年、遠藤九郎左衛門が新たに拓かれた福原新田村に建立。
 浄土宗。
 殉難者墓あり

 ▲(会津坂下町大字福原字福川原951 Tel. 0242-83-1424)

法界寺           中野竹子の墓  ネットで墓参

法界寺

 永享10(1438)年、淳宗が創建、天寧寺9世/善恕が開山。
 虚空山(こくうざん)、曹洞宗。
 本尊は、木造/釈迦牟尼仏の座像 (座高35cm)。
 慶長元(1596)年、堂宇が建造。
 若松/天寧寺の末寺。
 猪俣公章
 ▲(会津坂下町字光明寺東甲3944 Tel. 0242-83-3519)

満蔵寺

満蔵寺

 流古山、天台宗。
 会津三十三観音の第十一番札所

 ▲(会津坂下町束原字東1516)

薬王寺

 開創など詳細不詳だが、高寺の1つ「薬師坊」とされる。
 醫王山、真言宗豊山派。
 本尊は、木造阿弥陀如来像。
 玉眼で割矧造、像高67.5センチメートル。
 道路際に八脚門の仁王門が建つ。
 天正12(1584)年、現在地に移築。
 慶長年間 (1596〜1614)の火災にも、本尊は類焼を免れた。
第七番 杉薬師如来  本堂の脇に薬師堂がある。
 薬師堂の本尊は、木造薬師如来像。
 彫眼で、像高68センチメートル。
 会津十二薬師の第七番
 「杉薬師如来」と呼ばれ、近隣だけでなく会津一円からも信仰を集めている。
杉の糸桜  境内にある「杉の糸桜」は、会津五桜の一つ。
 品種は、エドヒガン種 (枝垂桜)。
 天正12(1584)年、宮城郡から3株 (2株とも) を移植。
 今の樹木は、その内の1本の2代目で樹齢 230年とされる。
 樹高 : 7.0m、幹周り : 3.2m
 会津坂下町指定天然記念物、県指定緑の文化財。

 ▲(会津坂下町船杉北杉大道上乙1170)   [本尊]

安楽寺 円城寺 圓性寺(円性寺) 延命寺 圓養寺
恩乗寺 光明寺<合川> 最勝寺 常安寺 浄福寺
浄運寺 真福寺 真養寺 青龍寺 善明寺
泉養寺 長泉寺 重福寺 東善寺 徳源寺
本光寺 妙運寺 妙福寺 無量寺<新館> 林昌寺
立川寺
坂本観音堂 京出観音堂 坂の下地蔵
愛宕神社<新舘> 鬼渡神社<勝大> 諏訪神社<片門> 念仏石+合祀3社

高寺 (たかでら)

 欽明天皇元(540)年、梁の国から渡来の高僧/青巌 (青岩とも) 一行の船が越後の浜に漂着、仏意と感じ取り上陸する。
 携えた1体の仏像と連れてきた白鹿に導かれるまま、阿賀野川を遡って会津の地に至る。
 近くの塩峰峠に上ってみると、東南の方角の山頂に、光り輝く紫雲が現れた。
 すぐさま山頂へ向かうと、何とも言えぬ霊気に満ち溢れており、聖地と悟り庵を結んだ。
 稲川荘宇内村の山頂とされる。
 高僧渡来による日本初の仏教伝来であった。
  「欽明天皇之年 梁国ノ僧青巌 会津ニ来タリテ一寺を開ク
   我国ニ仏教東漸スル以前ノコト也 〜 〜 〜
   是日本庵室の始めという

 この庵は、後に高寺と呼ばれる。
  「当山はもと人皇三十代欽明天皇元年庚申に唐僧青岩を開祖とす。
   蜷川荘高寺山頂にあり 〜 〜 〜
   未だ和朝寺山号を知らず。故に山を恵隆峯と号し寺を高寺と曰う

  「此の辺は昔高寺ありしといひ傳ふ
   高寺は欽明天皇元年草創せしと云 其時は佛教未東漸せざる以前なれば
   如何なるものゝ開基せるかは詳ならず

 古来から在来の鹿より大きく、白ぶちのはっきりした白鹿は縁付き、会津鹿と呼ばれるようになって脈々と棲息し続けたが、明治に入りに絶滅した。
 欽明天皇6(545)年、仏教文化の基礎を開いた高僧/青巌が入滅。
 舒明天皇6(634)年、梁における青巌の高孫弟/恵隆が渡来し、青巌の遺志を嗣ぎ、本格的な堂塔伽藍を次々に建立する。
 斉明天皇4(658)年、青巌・恵隆の徳を慕って入山した高僧/蓮空が、寺名を「石塔山恵隆寺」と改称し、新たな本尊/観世音菩薩を安置し大伽藍を造営する。
 宝亀6(775)年、中央集権化を武力で推し進める一派の侵略「勝負沢の戦い」による兵火で、すべての堂宇が焼失・破壊され、初代の高寺は滅亡した。
 延暦23(804)年、高僧/利仁が高寺 (恵隆寺) の再興に着手、子院「高寺三十六坊」が建立され、「高寺三千坊」と呼ばれるほどの全盛期を取り戻す。

 大同2(807)年、高僧/利仁が高寺の再興に着手して間もなく、南都仏教の学僧/徳一によって慧日寺が創建される。
 寿永元(1182)年、当初は競い合って共に発展していくが両雄並び立たずの例え 興隆する慧日寺と城氏連合軍との戦いで、徐々に衰退。
 建久元(1190)年、滅亡、高寺は“伝説”となった。

 猪苗代湖の西岸に篠山庵を開祖していた梁僧も、慧日寺に下り僧籍を離れた。
 しかし、各支院の住持が守り抜いた古い仏像などの一部が、現在の恵隆寺など小金塔村 (塔寺) の周りに移され、次々に「高寺おろし」と称する寺院が建立された。
 幕末まで、高寺山と呼ばていた小高い山の頂上には小石を敷き詰めた戒壇跡や護摩壇跡・経塚が残っていたが、長賊に媚び諂う極悪人/県令三島通庸により破壊され、腰巾着の学者を使って結果ありきの欺瞞に満ちた報告書を作成させ、歴史からも意図的に葬られた。
 高寺山・見明集落・宇内集落などの周辺には、高寺の遺構が数多く眠っていると伝わる。
 「寺屋敷」の地名は統合で消えたが、「塔寺」「宇内」「寺内」「本寺」「大門」「見明」「鐘撞堂」「笊屋敷」など、高寺の存在を裏付ける多くの地名が現在でも残っている。
 さらに、「高寺三十六坊」の半数以上が、「高寺おろし」された地の寺として現存している。
   金上坊極楽坊東源坊西光坊慈光坊浄泉坊常法坊常林坊真徳坊
   清松寺大泉坊 大徳坊中眼坊調合坊長龍寺無量坊法蔵坊薬師坊
   蓮華坊  など。

 平成30(2018)年10月、戊辰の役から150年を経て禁断の発掘調査が実施され、寺院の礎石や托鉢で使用される鉢の破片などが見つかり、「伝説」 から 「歴史上の事実」 として確認・再認識された。
 今後の調査で、更なる事実が明らかになるであろう。
 ▲(会津坂下町高寺一帯)
[戻る]  [TOP]  [行く]  [遊ぶ]  [知る]    [会津坂下町]    [メニュー]  会津美里  猪苗代  金山  喜多方  北塩原  下郷  昭和  只見  西会津  磐梯  檜枝岐  三島  南会津  柳津  湯川