偉     人     伝

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徳 一 大 師 (徳一菩薩)

 [肖像]

天平勝宝元/天平感宝元(749)年

 太政大臣/藤原仲麻呂 (恵美押勝) の11男 (9男とも) として誕生する。
  ・父  藤原不比等の孫
  ・母  大伴犬養の娘
  ・兄弟 藤原刷雄(6男)
  ・異母兄弟
      真従(長男)、真先(次男)、久須麻呂(3男)、朝狩(4男)、
      小湯麻呂(5男)、薩雄(7男)、辛加知(8男)、執棹(9男)、真文(10男)、
      児従(長女)、東子(次女)、額(3女)
  ※ 天平宝字4(760)年誕生の説天応元(781)年誕生の説も。

東大寺

天平宝字8(764)年

 父/恵美押勝 (藤原仲麻呂から改名) が反乱を企てるも、鎮圧・斬首される。
 一族はことごとく処刑されたが、6男/刷雄は隠岐国への流罪、徳一は東大寺に預けられ出家する。

〜〜 宝亀元(770)年頃

興福寺  東大寺から興福寺へ移り、修因 (修円) に師事し法相宗を学び神野山で修行に励む。
 弟子/今与もできる。
 中国/唐へ留学 (実兄/藤原刷雄が留学とも)。
  「今ハ昔、陸奥国ニ慧日寺ト云フ寺有リ
   此レハ興福寺ノ前ノ入唐ノ僧、得一菩薩ト云フ人
   ノ建タル寺也

 学ぶにつれ、権力と結びつき堕落した都の仏教に疑問を持つようになり、平城京を離れ東国へ向かい、弊衣粗食に甘んじる雲水の僧となる。

大御堂

延暦元(782)年

 筑波山/大御堂を開山し、本来の奈良仏教を再生するための拠点とする。
 現在に伝わるだけでも、近隣に42寺を開山している。
 茨城県にある ご縁の名刹は、こちら

大同元(806)年

慧日寺

 磐梯山が噴火し、2千メートル以上あった円錐型の山が4峰 (大磐梯、小磐梯、赤埴山、櫛ヶ峰) と姿を変える。
  「磐梯吾妻の二峰 互に鳴動して止まず、
   暴風猛威の天候不純にして、悪病蔓延し 〜

 大災害に苦しむ庶民を救うべく会津へ向かうと、磐梯山の山麓が霊地と悟り、清水寺 (翌年に慧日寺) を草創。
 会津へ向かうため上陸した石城の小名浜 (いわき市) にあるご縁の名刹は、こちら
 
 延暦23(804)年、高僧/利仁が高寺の再興に着手しており、その後は慧日寺と競い合って発展し、共に隆盛を極める。
  ※ (初の仏教伝来を認めたくない中央集権化側の武力侵略で、
    宝亀6(775)年に初代の高寺は滅亡していた)
 しかし、両雄並び立たずの例え、やがて慧日寺との争いが始まり、380年後の建久元(1190)年に高寺は再び消滅した。

大同2(807)年

 五薬師を安置した五薬師堂を草創する。
  ◇ 中央薬師として薬師堂 (勝常寺)
  ◇ 東方薬師として薬師堂 (慧日寺)
  ◇ 西方薬師として上宇内薬師如来堂 (日光寺調合寺)
  ◇ 北方薬師として北山薬師如来堂
  ◇ 南方薬師として野寺薬師堂 (火玉堂寺 → 慈光寺)。
北山薬師如来堂 上宇内薬師如来堂 慧日寺/薬師堂 勝常寺/薬師堂

奥之院弁天堂 福満虚空蔵尊  福満虚空蔵尊 (圓蔵寺) を開創する。

 圓蔵寺の奥之院として奥之院弁天堂を開創する。

如法寺 鳥追観音  鳥追観音を草創する。

 次いで、如法寺を草創する。
 慧日寺の塔頭として藤倉/延命寺や、仁王寺を開山する。
 慈眼寺(示現寺)、中の沢観音(正光寺)、大岩観音を草創する。
大岩観音 中の沢観音 示現寺 仁王寺 延命寺
 石岡/西光院を開山する。

法用寺

大同3(808)年

 前年に焼失した法用寺 (会津美里町) を、現在地に再建する。


延命寺
大同年間(806〜809)に、 .
三島/延命寺を草創する。 .

成法寺 勝常寺

弘仁年間(810〜824)  .

 寺院としての勝常寺を草創する。
 道場として成法寺を草創する。 .

大正寺

弘仁5(814)年

 北山薬師堂の守護として、大正寺を草創。
 その際、裏山の岩上に梵字で薬師如来像を刻んだと伝わる。
   (空海が草創との説も)

弘仁6(815)年

 4月1日 (5日とも)
 弘法大師 (空海) は天台宗の開祖/最澄が東国へ布教に赴いたのを知り、弟子/康守らを遣わして、真言宗布教の協力を請う。
 その書簡には、2回も「徳一菩薩」と記載されており、最大の礼を尽している。
  「聞くならく 徳一菩薩は戒珠氷珠の如く 智海泓澄たり 斗藪して京を離れ 
   錫を振って東に往く 始めて法幢を建てて衆生の耳目を開示し 大いに法螺
   を吹いて萬類之佛種を発揮す
(陸州徳一菩薩宛の書簡/高野雑筆集」
 依頼に対して、翌年に真言宗への疑問11ヶ条を述べた「真言宗未決文」を著す。
 弘法大師 (空海) は理ありと判断したようで、密教経典の書写 (写経) を依頼する。
 最も重要な第11条目の「鉄塔の疑」に対しては、天長元(824)年に「秘密曼茶羅教付法伝」で答えている。

弘仁8(817)年

 「仏性抄」を著述し最澄を論難、三一権実論争が始まる。
 最澄が「照権実鏡」を著し反論する。

弘仁9(818)年

 「中辺義鏡」「慧日羽足」を著述し、最澄を論難する。
 最澄が「守護国界章」を著し反論する。

弘仁11(820)年

 「遮異見章」を著す。
 最澄が「通六九証破比量文」「決権実論」を著す。

弘仁12(821)年

 最澄が「法華秀句」を著す。
 徳一菩薩は、その他として「法華肝心」「法華権文」「義鏡要略」「通破四教章」も著している。

弘仁13(822)年

 最澄が比叡山/中道院で没、享年56歳/満54歳。
 三一権実論争が終焉する。

天長元(824)年

徳一廟

7月27日
 会津にて入滅 (南都高僧伝)。
 享年76歳。
 慧日寺跡と薬師堂との間の奥に徳一廟がある。


   《他にも諸説あり》
 
◇ 承和2(835)年入滅の説  「常州筑波志」
◇ 承和9(842)年入滅の説  「法相系図」
  承和9(842)10月10〜16日の興福寺/維摩会講師の記述から。
  この説では、天応元(781)年の誕生で、承和9(842)年11月9日に入滅。
  享年62歳。
 

日限延命地蔵尊

3体の地蔵尊
 時は流れ天正年間(1578〜1580)、蘆名盛氏公
 「泥深い葦の中に埋まっている地蔵様を探し出すべし
と霊夢によるお告げを受けた。
 早速、家臣らに黒川城 (鶴ヶ城) 内の沼の中を探させるや、お告げの通り徳一大師作/地蔵尊が3体出現した。
 盛氏公は、西光寺に地蔵堂を建立し安置した。
 現在、会津二十一地蔵尊の第四番/日限延命地蔵尊として崇められている。
 特に3・5・7の付く日に御利益があるという。
 残り2体は、東京/松秀寺と兵庫/法音寺に祀られている。

平成20(2008)年

 4月24日

 現在の金堂が復元され、落成式が執り行われる。


道の駅/ばんだい

平成21(2009)年

 8月16日

 道の駅/ばんだい「徳一の里 きらり」が開所。


 
 1,200年の長い歴史を経て、源平の戦い、伊達軍の会津侵攻による戦火、戊辰戦争での長賊らによる略奪・放火・破壊、さらに長賊らの大罪/廃仏毀釈という仏教弾圧によって会津のみならず、日本全土の文化遺産の殆んどが失われた。
 徳一大師の遺産も例外ではなく、多くが消滅したが、上記に記載した他にも、僅かながら今なお伝承されている寺院が残存している。
  宝福寺<門田> 一大師作の薬師如来像を安置し開創
明光寺<門田>開山と伝わるが詳細不詳
舘観音別殿/観音堂の聖観音像は、徳一大師作と伝わる
恵骼徳一大師が再興 (空海との説も)
左下観音堂修験道の入行前に籠る行堂として開山 (伝)
関山観音会津入りをした際に本尊/十一面観音菩薩像を彫刻
田子薬師堂本尊/薬師如来座像は李の霊木から彫刻
示現寺北方の要所に慈眼寺として開山
大正寺北山漆薬師堂の守り寺として開創
般若寺開山と伝わるが面影は何もない
 全国各地に開山した寺も、多くが入滅後に法相宗から真言宗や天台宗などに改宗されたが、徳一大師の名は過去帳などから抹消されることなく残っており、宗派を超えて尊敬されていたことが分かる。
 空海が「大兄」「徳一菩薩」という尊称を記したほどの名僧であるのに、いわゆる宗教学者の認識が薄く感じるのは、なぜなのか不思議でならない。
 
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