太政大臣/藤原仲麻呂 (恵美押勝) の11男 (9男とも) として誕生する。
・父 藤原不比等の孫
・母 大伴犬養の娘
・兄弟 藤原刷雄(6男)
・異母兄弟
真従(長男)、真先(次男)、久須麻呂(3男)、朝狩(4男)、
小湯麻呂(5男)、薩雄(7男)、辛加知(8男)、執棹(9男)、真文(10男)、
児従(長女)、東子(次女)、額(3女)
※ 天平宝字4(760)年誕生の説、天応元(781)年誕生の説も。
父/恵美押勝 (藤原仲麻呂から改名) が反乱を企てるも、鎮圧・斬首される。
一族はことごとく処刑されたが、6男/刷雄は隠岐国への流罪、徳一は東大寺に預けられ出家する。
筑波山/大御堂を開山し、本来の奈良仏教を再生するための拠点とする。
現在に伝わるだけでも、近隣に42寺を開山している。
茨城県にある ご縁の名刹は、こちら。
磐梯山が噴火し、2千メートル以上あった円錐型の山が4峰 (大磐梯、小磐梯、赤埴山、櫛ヶ峰) と姿を変える。
「磐梯吾妻の二峰 互に鳴動して止まず、〜
暴風猛威の天候不純にして、悪病蔓延し 〜」
大災害に苦しむ庶民を救うべく会津へ向かうと、磐梯山の山麓が霊地と悟り、清水寺 (翌年に慧日寺) を草創。
会津へ向かうため上陸した石城の小名浜 (いわき市) にあるご縁の名刹は、こちら。
延暦23(804)年、高僧/利仁が高寺の再興に着手しており、その後は慧日寺と競い合って発展し、共に隆盛を極める。
※ (初の仏教伝来を認めたくない中央集権化側の武力侵略で、 宝亀6(775)年に初代の高寺は滅亡していた) しかし、両雄並び立たずの例え、やがて慧日寺との争いが始まり、380年後の建久元(1190)年に高寺は再び消滅した。 |
五薬師を安置した五薬師堂を草創する。
◇ 中央薬師として薬師堂 (勝常寺)
◇ 東方薬師として薬師堂 (慧日寺)
◇ 西方薬師として上宇内薬師如来堂 (日光寺 → 調合寺)
◇ 北方薬師として北山薬師如来堂
◇ 南方薬師として野寺薬師堂 (火玉堂寺 → 慈光寺)。
福満虚空蔵尊 (圓蔵寺) を開創する。
圓蔵寺の奥之院として奥之院弁天堂を開創する。
鳥追観音を草創する。
次いで、如法寺を草創する。
慧日寺の塔頭として藤倉/延命寺や、仁王寺を開山する。
慈眼寺(示現寺)、中の沢観音(正光寺)、大岩観音を草創する。
石岡/西光院を開山する。
前年に焼失した法用寺 (会津美里町) を、現在地に再建する。
北山薬師堂の守護として、大正寺を草創。
その際、裏山の岩上に梵字で薬師如来像を刻んだと伝わる。
(空海が草創との説も)
4月1日 (5日とも)
弘法大師 (空海) は天台宗の開祖/最澄が東国へ布教に赴いたのを知り、弟子/康守らを遣わして、真言宗布教の協力を請う。
その書簡には、2回も「徳一菩薩」と記載されており、最大の礼を尽している。
「聞くならく 徳一菩薩は戒珠氷珠の如く 智海泓澄たり 斗藪して京を離れ
錫を振って東に往く 始めて法幢を建てて衆生の耳目を開示し 大いに法螺
を吹いて萬類之佛種を発揮す (陸州徳一菩薩宛の書簡/高野雑筆集」
依頼に対して、翌年に真言宗への疑問11ヶ条を述べた「真言宗未決文」を著す。
弘法大師 (空海) は理ありと判断したようで、密教経典の書写 (写経) を依頼する。
最も重要な第11条目の「鉄塔の疑」に対しては、天長元(824)年に「秘密曼茶羅教付法伝」で答えている。
「仏性抄」を著述し最澄を論難、三一権実論争が始まる。
最澄が「照権実鏡」を著し反論する。
「中辺義鏡」「慧日羽足」を著述し、最澄を論難する。
最澄が「守護国界章」を著し反論する。
「遮異見章」を著す。
最澄が「通六九証破比量文」「決権実論」を著す。
最澄が「法華秀句」を著す。
徳一菩薩は、その他として「法華肝心」「法華権文」「義鏡要略」「通破四教章」も著している。
最澄が比叡山/中道院で没、享年56歳/満54歳。
三一権実論争が終焉する。
7月27日
会津にて入滅 (南都高僧伝)。
享年76歳。
慧日寺跡と薬師堂との間の奥に徳一廟がある。
《他にも諸説あり》
◇ 承和2(835)年入滅の説 「常州筑波志」
◇ 承和9(842)年入滅の説 「法相系図」 承和9(842)10月10〜16日の興福寺/維摩会講師の記述から。 この説では、天応元(781)年の誕生で、承和9(842)年11月9日に入滅。 享年62歳。 |
3体の地蔵尊
時は流れ天正年間(1578〜1580)、蘆名盛氏公が
「泥深い葦の中に埋まっている地蔵様を探し出すべし」
と霊夢によるお告げを受けた。
早速、家臣らに黒川城 (鶴ヶ城) 内の沼の中を探させるや、お告げの通り徳一大師作/地蔵尊が3体出現した。
盛氏公は、西光寺に地蔵堂を建立し安置した。
現在、会津二十一地蔵尊の第四番/日限延命地蔵尊として崇められている。
特に3・5・7の付く日に御利益があるという。
残り2体は、東京/松秀寺と兵庫/法音寺に祀られている。
現在の金堂が復元され、落成式が執り行われる。
道の駅/ばんだい「徳一の里 きらり」が開所。
1,200年の長い歴史を経て、源平の戦い、伊達軍の会津侵攻による戦火、戊辰戦争での長賊らによる略奪・放火・破壊、さらに長賊らの大罪/廃仏毀釈という仏教弾圧によって会津のみならず、日本全土の文化遺産の殆んどが失われた。
徳一大師の遺産も例外ではなく、多くが消滅したが、上記に記載した他にも、僅かながら今なお伝承されている寺院が残存している。
空海が「大兄」「徳一菩薩」という尊称を記したほどの名僧であるのに、いわゆる宗教学者の認識が薄く感じるのは、なぜなのか不思議でならない。 |