“峯の薬師”とも呼ばれる。
“二つ児参り”で信仰を集めている。
大同2(807)年、徳一大師が五薬師の1つとして開創。
祭礼は、9月8、9日の両日に催され、山車が集落をまわる。
会津五薬師の北方薬師。
会津十二薬師の第二番。
大石(腹打石)の由来 慶長年間、会津藩主秀行公の 長男亀千代君 幼少の折 身体が弱く 共を従い北山薬師を参拝、御帰りの際 此の石に触れ腹を討ちてた所、 たちどころ健康になった事から 腹打石 (はらうちいし) と言うように なったと伝えられている 子供が抱きつけば体が丈夫になり、 大人が抱きつけば胃腸が丈夫になり、 若い女子が抱きつくと良縁に恵まれ、 子宝が授かると言われ、御利益豊かな 石と言い伝えられて居ります。 (現地版より) |
永禄2(1559)年、僧/宥範が開基。
寺名は、綱取城主/松本勘解由左衛門宗輔の1字「松」からと伝わる。
鷲嶺山浄運院、真言宗豊山派。
本尊は、行基菩薩作と伝わる釈迦如来立像。
▲(北塩原村北山北畑4255 Tel 0241-22-5407)
永正元(1504)年、蘆名氏家臣/穴沢越中俊家が創建。
天正13(1585)年、伊達政宗に焼き払われる。
承応2(1653)年、現在地に再興され、浄土宗の崇徳寺と改称する。
桧原山、浄土宗。
会津二十一地蔵尊の第十九番。
日帰り温泉「湖望」の裏手の小高い所にあり、桧原湖が一望できる。
▲(北塩原村桧原字巣ノ山1133)
旧地名/漆村から"漆大正寺"とも呼ばれる。
弘仁5(814)年、徳一大師 (空海との説も) が北山薬師堂の守護として草創。
打越山、天台宗。 本尊は薬師如来立像。
永禄年間(1558〜1569)、真言宗から浄土宗に改宗。
慶長5(1600)年、僧/常海が天台宗に改宗し中興。
慶長年間(1596〜1614)、蒲生氏郷公が再興。
藩主の蒲生秀行公は、子の亀千代丸が身体の弱いことを按じて北山薬師に参拝した。
その帰り道、途中にあった大石の上にのせて抱きつかせると、瞬く間に元気になったという。
ここの大石は「子育て石 (腹打霊石)」と記載されている。
ただし、数え2歳でないと御利益はないとのこと。
▲(北塩原村大字北山字寺ノ前4590 Tel. 0241-24-3629)
・北山薬師如来堂は、こちら。
大永2(1522)年、蘆名氏の重臣で地頭/佐瀬安石が建立し、法相宗の僧/林光が開山。
空海の従弟僧/伝隆が開山とも。
弘仁3(812)年、空海の法力により大塩村に温泉が湧き出て、創建したとも伝わる。
石用山、曹洞宗。 本尊は延命地蔵。
南の墓地の五輪塔は“佐瀬河内”墓と云われ、無方塔「佐瀬氏佐州常平」もある。
寛文8(1668)年、僧/春恕が天寧寺14世/恕山に請うて再興。
明治6(1873)年、第4区18小区大塩分校が設けられ、明治20(1887)には大塩簡易小学校、大塩小学校の分校/滝ノ原分校、季節分校となり、昭和57(1982)に廃校となる。
寺 (曹洞宗) としては、太平洋戦争後に無住となってしまう。
5月中旬からは、シャクヤクが見ごろ。
寺内に、雄国新田村を開拓した功労者/大塩平左衛門 (五十嵐平左衛門吉実) の墓がある。
「省巌道悟信士 五十嵐吉実塚 貞享三丙寅二月十七日塩塩丙寅二月十七日焉」。
▲(北塩原村大塩4436)
創建の詳細は不詳。
長享2(1488)年、穴沢越の中越家が再興。
後に金銀鉱山が発見されるや、採掘で大いに栄えた桧原宿の総鎮守であった。
明治21(1888)年7月15日、磐梯山の大爆発で川が堰き止められ、戦国時代より繁栄した桧原宿は水没してしまう。
冬季など渇水期 (6mほど低下) には参道並びに一の鳥居が姿を現すとのこと。
▲(北塩原村桧原金山)
北 : 寺の前 |
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東 : 中在家 |
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西 : 原田 |
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南 : 柿木田 |
岩松寺 | 吉祥寺 | 正福寺 | ||
温泉神社<大塩> | 大山祗神社<早稲沢> | 桧原神社の燈籠 | ||
穴沢氏の墓 | 下吉の板碑 |