永禄元(1558)年、僧/学心が開基。
火災で焼失したため、延宝から天和の頃(1673〜1683)、現在地に再建された。
白鳳山 喜福院、浄土宗。 本尊は阿弥陀如来座像。
高さ41センチで、湛慶の作と伝えられる。
若松/高厳寺の末寺。
▲(会津美里町字本郷甲2866 Tel. 0242-56-3259)
大同元(806)年、磐梯山の爆発に連動して湧水、大沼大明神を祀り草創。
祭~は、水神「水波能女命」。
この一帶は大きな沼地となり、地名「大沼郡」の由来となったが、今では西の脇に名残を残すのみ。
明治32(1899)年、修築し現在に至る。
▲(会津美里町大字勝原字竹原579)
・例祭 9月15日
文永2(1265)年2月20日、草創。
円通山、曹洞宗。 本尊は釈迦如来。
龍門寺の末寺。
寛永元(1624)年、越後国の僧/雲芸が中興。
殉難者墓あり。
村の長者/江川常俊が、娘/千歳 (常姫)の供養に建立した観音堂が境内にある。
文永11(1274)年、木造十一面観音を造像。
弘安2(1279)年、観音堂を建立。
同時期に中田観音(弘安寺) も建立しており、本尊の銅造十一面観音と木造十一面観音とが非常に似ている。
木像で砂型を造り鋳造し、中田観音へ安置したとの言い伝えから、こちらの木像を佐布川姉観音として信仰者が多い。
▲(会津美里町佐布川/宮ノ腰甲131)
宝徳3(1451)年、僧/東泉が栄泉山一渓庵を結んだ。
大戸山、源慶寺、曹洞宗。
本尊は、観音菩薩。
若松/天寧寺の末寺。
天正17(1589)年、蘆名義広公が摺上原の戦いに敗れたため、永島観悦が蘆名盛氏公の座像と蘆名盛信公位牌を背負い逃れ来て、盛氏公の諱から瑞雲庵と改める。
元和元(1615)年、現在地に移し、盛信公の霊碑を安置し元慶寺と改称。
盛信公の「元慶喜公大禅定門」の2字による。
毎年開催される「向羽黒山城跡ふれあい茶会」の前夜には、蘆名氏ゆかりの寺として祈願祭が執り行われる。
▲(会津美里町穂馬堀の内/六枚畑甲522)
天長7(830)年、徳一大師が、修験道の入行前に籠る行堂として開山とされ、造りが京都の清水寺に似ている。
ただし、「徳一大師は天長元(824)年に入滅」との説が支持されており、空海が開山し同年の4月14日に入仏供養が執り行われた
との説もある。
崖に突き出た岩に建てられた懸造りで、高さ四丈六尺(15m)、五間四方(10m)の三層閣。
左下山、臨済宗妙心寺派。
延文3/正平13(1358)年、太守直盛らが観音堂を再建して再興、実相寺の末寺となる。
大檀那が富田監物祐義とも。
会津三十三観音の第二十一札所。
無実の者が観音堂まで逃れてきたが、捕まり打ち首になった。
持ち帰った首を見ると、いつの間にか観音の石首になっていた。 この言い伝えから、「無頸 ▲観音寺 (会津美里町大石東左下り1173)
入口の左手にお堂がある。
寺名すら知らない。 . |
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草創など詳細不詳。
空窪山、曹洞宗。
享保2(1717)年、高橋宗元と吉川浄雲が観音堂を再建、天寧寺/融元和尚が供養。
会津三十三観音の第二十二番札所。
▲(会津美里町氷玉相川丁36-5)
天正10(1582)年、常勝が庵室を結び、後に常勝寺となる。
天正13(1585)年とも。
葦名盛氏公が向羽黒山城から黒川城 (鶴ヶ城) へ移った際、屋敷跡に創建された。
能満山
若松/西蓮寺の末寺から、後に京都/西本願寺の末寺となる。
戊辰の役で、戦火に見舞われる。
明治2(1869)年、三日町から現在地に移り、明治21(1888)年に本堂を再建したが、本郷大火で焼失したため、大正5〜6(1916〜1917)年に再建される。
境内に、本郷焼陶祖の陶祖廟がある。
旧寺跡に残された三日町聖徳太子堂は現存している。
1つの屋根の下に二つの礼拝する所があり、全国的にも珍しい経巻を持つ太子像を所蔵している。
▲(会津美里町本郷上3110 Tel. 0242-56-2389)
永享元(1429)年、松本伊豆実輔と子/図書実政が創建し、守僧/粛芳が開山。
宝珠山、曹洞宗。 本尊は、釈迦如来。
「蘆名四天の宿老」の松本氏輔(通称/図書助)が再興。
会津の神社仏閣を焼き尽くした伊達正宗公も、なぜか天正18(1590)年に、この寺には寄進している。
氏輔父子の肖像画や、幽霊の掛軸がある。
永井野/長福寺が管轄。
昔々、松沢寺の末寺であった猿沢寺に、全良という若い僧がいた。
夫の墓参りきた若い後家「おしゅん」と 好い仲になり、懐妊させてしまう。 発覚を恐れ毒殺してしまうが幽霊に悩まされ、供養碑を建てて悔悛したという。 |
草創など詳細不詳だが、大同2(807)年に空海が開山とも。
醫王山 (若宮山)、真言宗豊山派。
本尊は、大日如来、阿弥陀如来。
若松/蓮華寺の末寺。
延元元(1336)年、常福院に改称し、現在地に移築。
天正元(1573)年、村人の簗田孫市が再建。
慶長2(1597)年、僧/実順が再興。
明治24(1891)年、焼失したため2年後に再建。
離れた場所にある会津十二薬師の第八番 (田子薬師堂) の別当寺。
▲(会津美里町新屋敷村中甲1111)
建久8(1197)年、田子十兵衛道宥法印が創建したことから名付けられた。
唐様建築の薬師堂は、国指定重要文化財。
本尊の田子薬師如来座像は、木造の一本造/丈2尺8寸強。
現在の本尊は江戸初期のものであるが、創建時には大同2(807)年に徳一大師と空海が、高寺で李の霊木から刻んだ2躯の“李の薬師”が祀られていたと伝わる。
▲(会津美里町新屋敷字山王塚甲99)
建長元(1249)年、美濃国の旅僧/常延が開山。
延命山、曹洞宗。
永禄年間(1558〜1570)の頃、領主に庇護され隆盛を極めた。
天正年間(1573〜1579)の頃には無住となり、本尊も失って廃堂となる。
寛文年間(1661〜1673)、僧/尊益が再興。
天保2(1831)年、現在の観音堂が再建。
十一面観音菩薩像は、領家観音として親しまれている。
会津三十三観音の第二十五番札所。
▲(会津美里町藤家館字領家194)
歴応2(1340)年、僧/円済が草創し、文殊堂には運慶作/文殊像を安置する。
護国山 文殊院、天台宗。 本尊は大日如来。
伊佐須美神社の奥ノ院であったが、元禄年間(1866〜1703)に龍興寺の末寺となる。
高田文殊と呼ばれ、「筆の文殊」として親しまれている。
日本三大文殊菩薩 (安倍文殊院/硯の文殊、智恩寺/紙の文殊) の1つ。
2月25日の文殊祭は、受験生などの学生たちで賑わう。
元禄11(1698)年、文殊の像を東叡山中堂へ移す。
天明3(1783)年と明治22(1889)年に火災に遭い、現在の堂宇は大正7(1918)年に再建。
子に恵まれなかった船木景光と妻が、子どもを授かるよう境内にある文殊堂に祈願したところ、天海大僧正を授かったとされる。
会津十二支守り本尊の卯(文殊菩薩)。
隣接して
智鏡塚と
芭蕉塚がある。
▲(会津美里町文殊西甲3611 Tel. 0242-54-2786)
草創など詳細不詳。
常照山、天台宗。 本尊は阿弥陀如来。
東光寺の末寺。
天正元(1573)年、僧/円識が再興。
昭和の中頃から本堂はない。
▲(会津美里町藤家館藤田63)
《大光寺の板碑》
墓域内に、東北で一番古く、全国でも9番目に古い板碑がある (最近は「東北で7番目」とも)。
梵字「阿弥陀如来」と、延応2(1240)年2月19日の銘が刻まれている。
碑高148cm、上幅52cm、下幅70cm、上部は5cmほどの三角形。
同日、藤田村で死去した「藤原秀衡の娘」の供養塔と伝わる。
▲(会津美里町藤家館字村北140)
全国的にも珍しい同一地区 (直線距離で約1,200メートル) に同じ宗派の長福寺が2寺があり、さらに宗派の違う同名を含めると3寺ある。
手兒の宮とも呼ばれる。
欽明天皇13(552)年、伊佐須美神社が明神ヶ嶽から遷座の際、同じく遷座された。
伊佐須美神社と縁故の深い神社。 祭神は須佐能乎命
享禄2(1529)年、宗輔が再建。
▲(会津美里町高田町大字松岸/松岸字北沢田275)
元慶2(883)年、光孝天皇の子である僧/観祐が草創。
この地でまどろむと、夢の中に菩薩が現れため庵を結ぶ。
保元3(1158)年に創建とも。
高田山観音院、天台宗。 本尊は阿弥陀如来。
龍興寺の末寺。
天正18(1590)年、伊達政宗公により占領され廃寺となる。
元和9(1623)年、現在地に小さな堂が再建され移る。
会津三十三観音の第二十八番札所。
十一面観音菩薩像は、33年に1回だけ御開帳の秘仏。
現在の堂は、土蔵造りになっている。
▲(会津美里町宇高田甲2968 Tel. 0242-54-5054)
大同2(807)年、疫病が流行し命を落とす者が多くなったので、民の平癒を祈願して徳一大師が開創。
当時は、小本山の格式を持ち、坊舎300余を誇っていた。
牛伏山、天台宗。 本尊は大日如来坐像 (約50cm)。
明暦3(1657)年、火災により大伽藍すべてが焼失。
本堂には山門が、薬師堂には門柱がある。
左に地獄絵図、右に極楽絵図が描かれている襖絵を所蔵。
本堂前に、寺の建築材を運んでいた2頭の牛が疲れ切って石と化したとの逸話が伝わる大きな石がある。
《大岩観音を管轄》
大同2(807)年、徳一大師が聖観音菩薩を彫刻し、一宇を設けて安置したのが始まり (伝)。
会津三十三観音の第二十七番札所。
▲(会津美里町吉田字村中甲167 Tel. 0242-53-2207)
明治2(1869)年、山上三社「宗像神社・向羽黒神社・稲荷神社」を合祀し、本郷町の総鎮守として創建。
天平年間(729〜749)、東光寺草創の僧/行基菩薩が、羽黒権現を勧進。
神護景雲年間(767〜770)、筑前国/宗像宮司が、宗像神社を勧進
応永21(1414)年、羽黒権現を向羽黒神社とし、一ノ堰の稲荷神社とともに現在地に遷座。
大正5(1916)年、本郷大火で焼失、翌年に再建。
昭和38(1963)年、豪雪により倒壊し、翌年に再建され現在に至る。
▲(会津美里町松岸字北沢田275 Tel. 0242-54-2524)
妙福寺として開山したと伝わるが、詳細不詳。
日用山、天台宗。
本尊は、阿弥陀如来。
慶長10(1605)年、僧/俊亮が再興し、福生寺に改称。
龍興寺の末寺。
≪富岡観音≫
延暦17(798)年、開基。
観音堂は富岡観音と呼ばれており、国指定重要文化財。
現存する建物は室町時代末期/禅宗様式の建物であるが、現存の観音堂には慶長10(1605)年の墨書きがある。
本尊は、京都から持ち帰った運慶の作といわれる大きな十一面観世音菩薩座像。
会津三十三観音の第二十六番札所。
集落の森の近くで、幼稚園の裏にあり、分かりづらい。
▲(会津美里町冨川冨岡27)
草創など詳細不詳だが、若松/実相寺の末寺として開山。
三台山、天台宗。 本尊は阿弥陀如来。
法用寺の末寺。
慶長8(1603)年、僧/妙円が再建。
境内の薬師堂は、宝暦4(1754)年に建立。
本尊の薬師如来像の胎内仏は、行基菩薩作といわれる。
▲(会津美里町八木沢字福泉寺4966 Tel. 0242-54-6090)
創建に関しては不詳。
その後、明神ヶ岳の麓に遷座し隆盛するが、蒲生氏郷公が入府すると社領を認めず没収され衰退する。
万治元(1658)年、山口勝右衛門が小社を造営し再興。
入府した保科正之公が古来からの名社であると知るや庇護し、命により延宝2(1674)年に社殿が竣工。
以降、幕末まで藩主歴代の祈願所の1つとして初穂料などが寄進される。
乳イチョウ (福永のイチョウ) 寛文11(1671)年、保科正之公の命により、三重塔を持つ社殿再築に着手した時、植栽されたと伝わる。 樹齢 : 350年以上、樹高 : 33m、幹周り : 6m。 乳が出なくなり困り果てていると、祭神の化身が夢枕に現れ、イチョウの木の垂れ下がっている瘤を煎じて飲むようにお告げがあり、お告げに従うと良く乳が出るようになった事から「乳イチョウ」と呼ばれるようになった。 昭和58(1983)年2月17日、県指定緑の文化財に登録。 |
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板碑2基 《阿弥陀一尊種子板碑》 南北朝時代(1331〜1392)とされる。 阿弥陀如来が刻まれている。 《阿弥陀三尊種子板碑》 室町時代(1393〜1573)とされる。 阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩が刻印。 |
建治2(1276)年、村主/藤田常胤が開基。
広田山、浄土宗。
本尊は阿弥陀如来 (鎌倉時代) で、両脇侍立像と共に国指定重要文化財。
明応3(1494)年、玉誉上人が開山。
天文年間(1532〜1555)、智鏡が再興し、若松/高厳寺の末寺となる。
本山を芝/増上寺としており須弥壇の扉には葵の紋がある。
大黒堂には、運慶作と伝えられる大黒天が奉祀されている。
栃木南
▲(会津美里町字法憧寺南甲3499-1 Tel. 0242-54-3140)
養老4(720)年、徳道(得道、勝道)上人が草創。
同上人は、この後に日光を開く。
雷電山、天台宗。 本尊は十一面観音 (2躯)。
大同2(807)年に火災で堂宇・仏像もろとも消失。
翌年の大同3(808)年、徳一大師が “仏都会津” を一望できる現在地に再建した。
弘仁2(811)年、観音堂が創建。
慧日寺が隆盛するまでは、大いに栄えたという。
宝永6(1703)年に大雪で崩壊、安永9(1780)年に再建され現在に至る。
十一面観世音菩薩は、雀林観音と呼ばれている。
昭和35(1960)年、木像金剛力士立像2躯・本堂内厨子・仏壇が、国指定重要文化財となる。
戊辰の役で奇蹟的に現存する江戸期建築の三仏閣の1つ。
(飯盛山/さざえ堂・善龍寺/山門)。
会津三十三観音の第二十九番札所。
五穀豊穣を願う珍しい
「へびの御年始」が1月7日に行なわれる。
会津地方唯一の三重の塔は高さ17,3メートルで、塔の内部に四天柱があり、厨子に釈迦三尊像を安置している。
安永9(1780)年に完成したと伝わる。
その傍らに、中野寅吉と石川啄木の2人を記念した2つの歌碑がある。
”弁天石(抱き石)”が、洪水に流されたため、移されて境内にある。
抱きつくと、子宝が授かるといわれる。
「虎の尾桜」が境内にある。
寺の北1キロほどに、「米沢の千歳桜」もある。
子安地蔵堂の脇の敷地が、献上用の氷餅を村民が作った「御氷餅搗阯 (町指定)」。
▲(会津美里町雀林三番山下3554 管轄/福泉寺 Tel. 0242-54-6090)
会津薬師寺、高田薬師如来とも呼ばれる。
宝亀10(779)年、千寿院として草創。
嘉祥元(848)年、円仁 (慈覚大師) が開基。
建久元(1190)年、円鑁
医徳山
十二神将、木彫賓頭虜、如意観音像なども安置。
会津七福神の大黒天。
会津十二薬師の第十二番。
全国で唯一の自動車不動尊も祀っている。
東北三十六不動尊の第三十三番、
御朱印。
殉難者墓あり。
▲(会津美里町橋丸字橋爪94 Tel. 0242-54-4876)
嘉承元(848)年、最澄の弟子であり最後の遣唐使として天台宗を完成させた慈覚大師(円仁)が草創した名刹。
道樹山
「一字蓮台法華経開結共」は、国宝に指定。
応安元/正平23(1368)年、権僧正/恵雲が再興。
聖観世音菩薩は、浮身観音と呼ばれる。
会津三十三観音の番外札所。
会津五色不動尊の離悩不動(赤色)。
蓮池「華芳園」も造られている
徳川時代の初めに権勢を誇った天海大僧正が、得度した寺でもある。
天海大僧正木造坐像が本堂に安置されている (拝観は要予約)。
境内には、天海の両親といわれている墓がある。
近くの公民館敷地には、「護法石」がある。
天海の誕生を記念して、両親が建立されたと伝えられている。
田中月歩
▲(会津美里町字龍興寺北甲2222-7 Tel. 0242-54-2446)
明応年間(1492〜1501)、下野/成寺3世の傑伝禅師が、天台宗の草案があった跡地に創建。
興雲山
天正12(1584)年、船岡館主/松本太郎が蘆名盛高公に反旗を翻し戦った際、堂宇は焼失、後に6世/黙岑昌ァが再建した。
観音像は、京都/清水寺の観音像と同じ木材で作られた姉妹の像で、姉の方の像とのこと。
東尾岐の豪族/長嶺氏が持ち帰ったと伝わる。
蘆名時代には、寺領50石を賜る格式高い11寺の小本山であった。
本堂の大きな2本の円柱は、保科正之公が寄進したもの。
隣りの高橋集落では、毎年「虫送り」という民族行事が行われる。
土用の前後の7月19日、住職による虫供養を行った後に、川に害虫を流して作物を護る。
▲(会津美里町尾岐窪字本屋敷713 Tel. 0242-53-2501)