市営駐車場に、車を停める。
当然、無料。
駐車場内には、親切な観光案内所もある。
駐車場を出て、信号を渡れば、飯盛山の入口。
信号の角に、[絵本]白虎隊の歴史がある。 必見。
参道入口の両側には土産物店が軒を並べ、修学旅行の生徒・学生好みの土産品が揃っている。
土産物店の先が、そびえるような石段。
石段の手前に、案内板がある ( 図をクリックで拡大 ⇒ )。
ここに記載されている矢印は、183段の石段を上るのを避け、裏手の坂から回るコースとなっている。
石段に挑戦するもよし、動く坂道「スロープコンベア (有料)」で上るのもよし。
ゴムの動く歩道の感触は他では経験できないので、記念のためスロープコンベアがお勧め。
数分で上り切り、白虎隊の霊場に辿り着く。
今回は、スロープコンベアに乗り、参拝するルートを辿る。
以降は、丸い番号の付いた標識があり、効率良く回れ、迷うこともない。
白虎隊のことを再確認するためにも、まず、白虎隊記念館に立ち寄ろう。
館内には、史料1万2千点が所狭しと展示されている (有料)。
「会津藩は勤皇なり」 の意味も理解できよう。
第2次世界大戦で、奈良・京都と共に、なぜ会津への空爆をアメリカ軍が避けたのかも納得できるであろう。
まず、隊士と犬の銅像が目に入る。
白虎隊士/酒井峰治は、戸ノ口で戦うが皆とはぐれてしまい、ひとり山中を彷徨い自刃を考えたその時、出迎えた愛犬「クマ」と飯盛山麓で遭遇し、生き抜くことになった。
「その名を呼べば、とどまりて余の面を仰ぎみる、疾駆し来たりて飛び付き、歓喜にたえざるの状あり。余もまた帳然として涙なきにあたわず (戊辰戦戰争實歴談)」
その時をイメージした銅像である。
2人の隊士像、戸ノ口十六橋の石材、水戸藩諸生党鎮魂碑なども入口辺りに設置されている。
白虎隊の母校である日新館にあった石橋に使われていた石もある。
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基本的な知識が整理できたら、スロープコンベアで頂上に向かう。
1つ目のスロープコンベアを上り切ると、「まことばし」。 石段の中ほどに位置する。
ほとんどの人は気付かず通り過ぎてしまうが、2号機に乗る前に立ち寄る。
手塚治虫の「スリル博士/第4話」に題材の1つとして、巨木が倒れてくるシーンに描かれている大木は、今なお現存している。
正面の墓は、明治元年 (一八六八) の戊辰戦争において飯盛山で自刃した十九士の墓です。
八月二十三日 (新暦十月八日) 自刃した隊士の遺骸は、西軍により手をつけることを禁じられていました。 約三ヶ月後村人により、密かにこの近くの妙國寺に運ばれ仮埋葬され、後この自刃地に改葬されました。
現在の形に一九士の墓が建てられたのは明治二十三年で、二度にわたり墓域が拡張されました。
春と秋の年二回、墓前で
剣舞が奉納
される。
白虎隊の歌詞については、こちら。
右側の墓は、各地で戦死した白虎隊士31名の墓。
白虎隊については、こちら。
「白虎士中二番隊」の個別の墓は、こちら。
「各地で散った白虎隊士」の個別の墓は、こちら。
左側の碑は、
白虎隊以外で戦死した少年武士たちの慰霊碑。
Grave of the Byakkotai
忘れ去られたかのように、隊士墓の右奥の草むらの中にある。
武川信臣は、主席家老/梶原平馬の実弟ということで、過酷な拷問の上、斬首された。
すでに会津では終戦しており、大赦令が出る予定の3日前でもあり 明らかに見せしめの処刑で、惨殺という犯罪行為であった。
直談判しに行った広沢安任なども捕えられ投獄、同獄で歌会を催した。 同じく投獄されていた山内香渓が纏めた漢詩の碑が、大正6(1917)年に建立された。
明治17(1884)年、墓前祭の時に松平容保が詠んだ弔歌。
幾人の 涙は石に そそぐとも
その名は世々に 朽じとぞ思う
少年團結白虎隊 國歩艱難戍堡塞
大軍突如風雨來 殺氣慘憺白日晦
鼙鼓喧闐震百雷 巨砲連發僵屍堆
殊死衝陣怒髪竪 縱奮撃一面開
時不利兮戰且卻 身裹瘡痍口含藥
腹背皆敵將安之 杖劍闕s攀丘岳
南望鶴城烟焔颺 痛哭呑涙且彷徨
社稷亡矣可以止 十有九人屠腹僵
俯仰此事十七年 画之文之世稍傳
忠烈赫〃如前日 圧倒田横麾下賢
昭和10(1935)年、白虎隊の精神を称賛した一人のドイツ大使館外交官から贈られた。
[補足]
「会津の若き騎士たちへ 一人のドイツ人より 1935年」
そして、破壊・消滅の危機を救った「ミヨセ婆さん」の功績も忘れてはならない。
[補足]
西軍は戦死者の埋葬を禁止した。
少年たちの遺体も例外ではなかった。
見かねた肝煎/吉田伊惣次 (治) は、夜陰に紛れて埋葬した。
しかし、吉田伊惣次は捕えられ、少年たちの骸は元の場所に打ち捨てれた。
墓は、近くの飯盛山墓地。
白虎隊の精神に感動したローマ市は、ポンペイ廃墟から発掘した宮殿の古柱に賛美の言葉を刻み寄贈。
「文明の母たるローマは白虎隊有志の遺烈に、不朽の敬意を捧げんが為め、古代ローマの権威を表すファシスタ党章の鉞を飾り永遠偉大の証たる千年の古石柱を贈る」
[補足]
郡上藩凌霜隊は、会津藩と運命を共にした。
戦後は、故郷すら、彼らに冷たかった。
同様の慰霊碑は、形は違うものの出身地の郡上八幡城にもある。
郡上藩凌霜隊については、こちら。
「道ハ一筋ナリ」とは、副長/速水小三郎の日記の一節による。
「抑道ハ一筋ナリ 君ニ忠ナルハ親ニ孝ナリ 皇国ノ御為ナリ 真ノ勤王ナリ 是ニ反セルハ
不忠ナリ 不義ナリ 不孝也 国賊也 禽獣也 予子孫タル者熱ク是理ヲ弁知スベキ也」
“勝敗は時の運”、敗者にも正義があることを忘れてはなるまい。
碑の上部に松平容保の歌が刻まれている。
紀州藩邸に幽閉中、自刃の絵を見て詠んだ。
千代までと そだてし親のこころさへ
推しはかられて ぬるる袖かな
昭和32(1957)年9月、戊辰戦役九十年祭に建立。
遺髪と歯が埋葬されている。
自刃した白虎隊士中二番隊で唯一の蘇生者/飯沼貞吉 (後に貞雄と改名) により、自刃の様子が後世に伝わる。
戦後は全国各地で功績を残すが、故郷の会津に戻ることはなかった。
歌碑 「日の御子の 御影 仰ぎて 若桜 散りての のちも 春を知るらむ」
生前、頭髪と抜けた歯を小箱に納めて、「もし会津に墓を建てることになったら渡すように」 と次男に遺言していたと云う。
本墓は仙台/輪王寺にあり、終焉の地に碑「飯沼貞吉終焉之地」がある。
飯沼翁の先を下った行き止まりの平地が、自刃の地である。
途中に、 「白虎隊武士道に憧れ、この山に眠るドイツ人ハイゼ父子夫妻の墓」 との案内板も。
ただし、観光の墓参は遠慮すべき。
[補足]
少年たちは、昨夜の台風の中、城に向かっていた。
昨夜から何も食べておらず、空腹とも戦っていた。
城下を見渡せる高台に辿り着くと、鶴ヶ城は黒煙と炎に包まれていた。 帰城の願いは断たれた。
当然、藩主は自刃なさるはず、黄泉の国へ馳せ参じようと自刃することが決まった。
決して、炎上する城に絶望し自刃したのではない。 炎上する城に戻って自刃しようとの意見もあったが、途中で敵に生きて捕まる恥は曝せない、との決断に到ったのである。
鶴ヶ城の天守閣を、遥かに望む。
さらなる彼方に、会津朝日岳、燧ケ岳なども。
運命とはいえ、もう少し時の流れが緩やかだったら、少年たちには
いま参拝した道を白虎隊士の霊場まで戻る。
土産屋/食堂の飯盛分店には、
ちっちゃい資料館
がある。
石段と飯盛分店の間を抜け、さざえ堂へ向かう。
こちら下山道 階段なしで約5分
さざえ堂・洞穴を経て駐車場へ
の看板が目印。
見過ごしそなほど、小さな祠がある。
小さくても、霊験あらたかだと信じられている。
受験シーズンには、合格祈願を祈請する参拝者で賑わう。
この車を廻せば悲痛な音を発し、これが冥土にとどいて白虎隊の霊魂を慰めるものです。 また石の台は中国伝説の獏といい夢を喰うので、その頭にのぼれば悪夢消滅の願いをかなおると言はれます。
心静かにお廻し下さい
寛政8(1796)年、建立。
戊辰の役の破壊を奇蹟的に免れ、現存する江戸期建築の三仏閣の1つ。
(善龍寺/山門 ・ 法用寺/三重塔)
≪さざえ堂の特色≫
1.上りも下りも階段がない
1.1度通った所は2度通らない
●土足のまま2〜3分で見られます。
●ご希望の方はお見逃しないよう、
案内人にお申し出ください。
途中に清水が湧き出ている。
白虎隊士が城下へ戻る時に喉を潤した水で、そのことから名付けられた。
今では、霊を弔う慈母子育観音が祀られた祠が建立されている。
「白虎清水観音」と呼ばれている。
小ぶりながらも歴史が感じられる。
[北会津郡誌]
永徳/弘和年間 (1381〜1383年)、多数の童女を従えて現れた美しい霊妃のお告げにより、豪族の石部・堂家・石塚の3家が社殿を建立、正宗寺の別当「宗像神社 (弁財天)」が創建された。
社殿の建築中にも童女たちが現れ、人夫たちに小豆飯を振舞ったが、いくら食べても減らなかったことから「飯盛」の地名ができたという。
元禄13(1700)年、藩主/松平正容公が仁王門や青銅の大仏
を建立した。
明治政府の大罪/神仏分離令で大仏は阿弥陀寺へ移され、主祭神の市杵島姫命が弁才天と習合していたことから「厳島神社」と改称された。
自然景観指定緑地の1つ (第8号)。
▲(会津若松市一箕町八幡字辨天下甲1405 <旧/滝沢村>
)
今から約400年前 元和年間 猪苗代湖の水を会津地方に引くため 郷士八田氏が起工し、元禄年間まで工事が続けられ 後 天保3年 会津藩士佐藤豊助が藩命により 飯盛山の山腹約150mを人工的に穴をあけ、水田2500ヘクタールの灌漑に供し使役人夫5万5千人と3ヶ年の歳月を費して遂に完成した。
白虎隊士中二番隊は戸ノ口原に布陣している味方軍応援のため派遣されたが、戦い利あらず、お城の安否を確かめようと帰城の途中 隊士20名が通過した洞穴である。
元和9(1623)年、原野の開墾を目的に猪苗代湖からの水路を、郷士/八田氏が起工した。
元禄6(1693)年、70年間にも亘る工事の末、鶴ヶ城下までの引水が完成する。
その後、山の斜面崩落などの災害にあい、飯盛山を掘り抜くルートが決まり、藩士/佐藤豊助が藩命を受け完成させる。 豊助の菩提寺は蓮華寺。
猪苗代湖からは、今なお止まることなく湖水が流れ出ており、農業や工業用水に使われている。
「子育地蔵尊」を左手に見て、参道を下る。
まもなく、右手に「霊牛神堂」、左手に最初に見学した「白虎隊記念館」を過ぎる。
会津戦争資料館。
大通りに出る左手前にある。
土方歳三と篠田儀三郎が、お出迎え。
大通りに出て左折し、信号を渡れば駐車場に戻る。
しかし、右折して140メートルほどに「滝沢本陣」がある。
訪れた際には、ぜひ立ち寄りたい。
霊山/飯盛山には、星暁邨の「彰恩碑」、佐藤忠八の「佐藤先生遺徳碑」、安部井帽山と高津平蔵との「双徳碑」、佐原盛純の「佐原先生碑」、馬島瑞園の碑「白虎隊殉難詩」、荘田胆斎の「招魂碑銘」など無数の碑が建立されている。
桜の季節ならば、謂れのある太夫桜を愛でるもよし。
時間の許す限り、探索を楽しまれたし。