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慶応四年 (1868) 四月 江戸城開城の折、郡上藩士四五名が「凌霜隊」を編成、佐幕派の中心会津へ救援隊として出発し、会津若松城の「白虎隊」と共に政府軍と戦った。
九月、会津の降伏により凌霜隊士は郡上へ護送され獄舎に入れられた。 きびしい獄舎の生活に犠牲者の出るのをみた城下寺院の嘆願が聞き入れられ、明治二年 当長敬寺に移された。
明治三年 釈放されたものの、彼等の一生は苦しいものであった。 隊員の一人、矢野原与七の手記「心苦雑記」があり活字化されている。
▲(郡上市八幡町職人町742 Tel. 0575-65-2440)
本名:ユ之助。
大垣藩士/市村半右衛門の次男。
新撰組隊士。
慶応3(1867)年6月以降に、弟/鉄之助と共に入隊。
鳥羽伏見、甲州の戦い後、江戸に帰還。
慶応4(1868)年3月、五兵衛新田駐屯地 (東京都足立区綾瀬) から脱走し大垣藩へ帰参する。
明治5(1872)年2月7日、死去。
「有隣院一官宗徳居士」(側面)。
▲(岐阜県大垣市船町2-21 Tel. 0584-78-2983)