戊  辰  の  役  /  殉  難  者

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岐    阜    県

凌霜隊 (郡上八幡城)

凌霜隊(郡上八幡城)

慰霊碑 (凌霜の森/松の丸)

 藩命だったのに、彼らの運命は過酷なものだった。
 しかし会津は、彼らのことを決して忘れはしない。
 共に戦った白虎隊士の眠る飯盛山にも慰霊碑がある。
 凌霜隊については、こちら
凌霜隊の顕彰碑 城内の凌霜隊説明文

矢野原与七 手記 .
(城内)   .

顕彰碑





 山内一豊の妻/千代が郡上八幡城主/遠藤盛数の娘との説から、山麓に2人の像がある。
 一豊は、蘆名氏の家臣/山内氏の庶流 (山内舜通の次男/ 大学助豊政) との説もある。



≪郡上八幡城≫
 永禄2(1559)年、遠藤盛数が築城。
 別名:積翠城、郡城、虞城。
 明治2(1869)年、廃城。
 昭和8(1933)年、模擬天守として再建 (現存する日本最古の木造再建城)。
有料 (郡上市八幡町柳町一の平)


長敬寺

 〜〜〜〜
 慶応四年 (1868) 四月 江戸城開城の折、郡上藩士四五名が「凌霜隊」を編成、佐幕派の中心会津へ救援隊として出発し、会津若松城の「白虎隊」と共に政府軍と戦った。
 九月、会津の降伏により凌霜隊士は郡上へ護送され獄舎に入れられた。 きびしい獄舎の生活に犠牲者の出るのをみた城下寺院の嘆願が聞き入れられ、明治二年 当長敬寺に移された。
長敬寺の説明文  明治三年 釈放されたものの、彼等の一生は苦しいものであった。 隊員の一人、矢野原与七の手記「心苦雑記」があり活字化されている。

▲(郡上市八幡町職人町742 Tel. 0575-65-2440)

市村辰之助 (全昌寺)

市村辰之助の墓

 本名:ユ之助。
 大垣藩士/市村半右衛門の次男。
 新撰組隊士。
 慶応3(1867)年6月以降に、弟/鉄之助と共に入隊。
 鳥羽伏見、甲州の戦い後、江戸に帰還。
 慶応4(1868)年3月、五兵衛新田駐屯地 (東京都足立区綾瀬) から脱走し大垣藩へ帰参する。
全昌寺  明治5(1872)年2月7日、死去。
 「有隣院一官宗徳居士」(側面)。


 ▲(岐阜県大垣市船町2-21 Tel. 0584-78-2983)

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