ネ  ッ  ト  で  参  詣

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中  田  観  音

  ▲中田観音 (会津美里町米田字堂ノ後甲147 Tel.0242-78-2131)

以下の緑色の文は、現地の「説明板」から .
画像クリックで現地の説明板の写真表示も一部あり

右の仁王 左の仁王

 正門はあるものの、解放された境内である。

正門

 正門をくぐった右手に旧/観音堂がある。
 現在は、七福神を祀っている。

現/七福神の堂の説明文 国指定重要文化財   弘安寺旧観音堂厨子 (辧天堂)
 この建物は、もともと十一面観音菩薩像を祀った厨子であった。 寛永十九年 (一六四二) より慶安元年 (一六四六) にかけて観音堂が修復された際、堂外に出して辧天堂と改めたと伝えられる。
 修理については、天保十三年 (一八四二) に塗り替えがあり、昭和八年に土台を入れ、軒を二軒とするとともに屋根も茅葺から本瓦葺に葺き替えられた。 また昭和四十七年十月一日より昭和四十八年六月三十日まで解体移築修理を行い、現在の保管庫内へ移築されたものである。
  昭和三十五年六月九日 重要文化財        会津美里町教育委員会

中田観音の境内 中田観音の境内
 境内・参道には、
 様々なものがコンパクトに配置されている。
中田観音の境内 中田観音の境内


中田観音

国指定重要文化財   銅造十一面観世音 及び 脇侍二体
 文永十一年 (一二七四) 長者江川常俊が娘の菩提を弔うために十一面観世音菩薩立像を鋳造し 愛娘の心が宿るここ中田の里に納めたという。
 次いで 弘安二年 (一二七九) 富塚伊賀守盛勝公が伽藍を造営し 普門山圓通閣と称した。 その後、普門山弘安寺と改名され、観音堂におさめられて現在に至る。
宝物の説明文  十一面観世音菩薩立像
    鋳造物で御身の丈 六尺一寸七分 (一メートル八十七センチ)
     光背に文永十一年 (一二七四) 八月八日の銘文がある

 脇侍 不動明王立像
    同三尺一寸四分 (九十五.一センチ)
 脇侍 地蔵菩薩立像
    同三尺一寸 (九十三.九センチ)
 三体とも、昭和三年四月三日 国宝に指定。  昭和二十五年八月 国指定文化財となる。

                   会津美里町教育委員会

だきつき柱


 「抱きつき柱」は、本堂の中の向かって右手にある。
 堂内は撮影禁止なので、訪れた時のお楽しみ。

 最近、祈祷中で堂内に入れない時や、身体の不自由な人のため、旧/抱きつき柱堂の外に設けられた。




民俗資料館 奥院 案内    .
一、 民俗資料館
 中田観音の西裏二〇〇メートル行った元第二小学校二階を民俗資料館として、昭和四十年七月開館後毎週月〜金一般公開中 (午前九時〜午後四時)
 新鶴村内に残されてきた民俗文化財およそ千五百余点が衣・住・その他各分野ごとに陳列されている。 地域住民生活の推移を知る上で貴重である。
一、 奥 院
 南の道路を西におよそ六八〇メートル行った左側雑木の中にある。
 中田観音鋳造の際の金滓 (くそ) を集めて作ったものと伝えられる。 また、鋳造の場所といわれる。
現/七福神の堂
会津美里町文化財保存会    .
会津美里町教育委員会      .

 近世になって、境内の中に人家が出来たというより、
住宅地の中に、とけ込んでいる雰囲気がある。
 雪国の中では、それなりの大きさなのだが、
"とてつもなく大きい"のでもなく、
とても身近に感じられる本堂である。

 古来より、多くの人達の信仰を集めているのに、
とにかく開放感が、あふれており、
どなたでも、幼き頃のわが町・わが村を感じるだろう。

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