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小  田  山  散  歩

小田山

 標高372.7メートルの小高い山。
 鶴ヶ城の南東約2kmほどのところにある。
 現在は、「小田山(おだやま)公園」として整備されている。
 明治以降、遺構は壊され消滅しているものの、数々の名残がある。
 鎌倉時代末(14世紀前半)に、標高723.3メートルの青木山と併せた小田山城跡の一部でもある。
 5代領主/蘆名盛宗公から7代領主/蘆名直盛公までが築く。
 円墳の小田山古墳群、会津藩の大窪山墓地、蘆名家の寿山廟、山頂には名家老/田中玄宰がある。
 北側の尾根上には、古墳円墳が3基ある。
 1号墳は直径28メートル 、高さ4メートル弱の大きさ。
 他の古墳は、直径10メートルほどで、石棺の蓋石も見つかっている。
 鶴ヶ城を見下ろせるため、戊辰の役では西軍の砲撃にも利用された。

 ▲(会津若松市門田町黒岩主山丙460-1)
   ・面積  約10ヘクタール

<図をクリックで拡大>    .
  入口  駐車場
案内図   山頂まで、 1,170メートル。
  堀切跡まで、1,390メートル。
  所要時間は、約1時間強。
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蘆名家寿山廟跡(下)

 蘆名家/寿山(じゅざん)廟 (下)

蘆名家寿山廟の位置図

 3代/光盛公(寿山公)から8代/詮盛公までの廟所と伝えられる。
 「葦名盛氏葬送之図」で、宝積寺裏側の山麓に描かれている。


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  案内標 寿山廟(下) これより260m
西軍砲陣跡(展望台) これより435m
恵倫寺への分かれ道 これより360m
丹羽能教・田中玄宰の墓 これより1040m
小田山城址(山頂) これより1060m
W.C これより260m
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観音堂跡

 観音堂跡

観音堂跡の由来
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 蘆名家/寿山(じゅざん)廟 (上)


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 砲陣跡地

 戊辰の役の慶応4(1868)8月26日、極楽寺の僧の内通により西軍が砲台を築き、1.6キロほどの鶴ヶ城に連日、砲火を浴びせた。
 戦後、この裏切りを知った藩士/武田宗三郎は、謹慎所から脱走し僧を惨殺した。

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展望台、砲陣跡地

 展望台、砲陣跡地

展望台、砲陣跡地の説明文

      展望台、砲陣跡地から見る鶴ヶ城

 
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小田山城/冠木門

 小田山城/冠木門(かぶきもん)

冠木門の説明文  平成18(2006)年、有志たちの自費で再建。
 四角の窓は、弓矢を射る穴である。
   《絵図》  《絵図2》
 平成27(2015)年、借地期限が切れ、市側が引き取らなかったので、残念ながら撤去された。
 冠木門は心ある会津美里町に引き取られ、蘆名氏ゆかりの向羽黒山城跡にある向羽黒山城跡整備資料室の入口に移設された。
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 小田山城/曲輪(くるわ)群

曲輪群の説明文  山頂の北側には、三日月形をした12段の曲輪が、馬蹄の形に連続していて、土塁の名残もある。

 承久4(1221)年、蘆名光盛公が築城。
 至徳元(1384)年、蘆名直盛公黒川城を築くまで蘆名氏の居城であった。
 その後も、黒川城>の詰城として使用されている。
 永禄4(1561)年、蘆名盛氏公向羽黒山城を築城すると小田山城は使用されず、天正18(1590)年に蒲生氏郷公が入府するや廃城となる。
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丹羽能教の墓

 家老/丹羽能教 (にわよしのり) の墓

丹羽能教の説明文  頂上の手前にある。
 丹羽家中興の祖。
 北方警備で樺太(唐太)に出陣したり、江戸湾防備で三浦半島に砲台を築くなど活躍している。
後に北海道丹羽村の開拓に功績のあった五郎の曽祖父。

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田中玄宰の墓

 家老/田中玄宰(はるなか)の墓

田中玄宰の説明文  頂上にある。
 名君/松平容頌公に仕え、藩政の改革を行い、幕末までの藩の基盤を築いた名宰相。
 発案した樺太出兵の最中に死去。

鶴ヶ城と日新館の見える場所へとの遺言通り、山頂に建立された。

小田山公園碑

 小田山公園碑

小田山公園碑の説明文
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小田山城址 (山頂)

 小田山城址 (山頂)

小田山城の説明文  田中玄宰の墓の先に、ひっそりとある。
 永禄11(1568)年、16代領主/蘆名盛氏公が向羽黒山城を築くまで本拠としていた。

天正18(1590)年、藩主/蒲生氏郷公により廃城となる。

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  大窪山墓地への分岐
 ここから下った南側の山麓にある。
 寛文4(1664)年10月、保科正之公の命により、
会津藩の武士の墓地として転用された。
 墓の数は、約4千基ほどにも及ぶ。
 今回、大窪山墓地の墓参は除く。
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小田山城/物見櫓跡

 小田山城/物見櫓跡

 小田山城址碑から、更に奥に進んだ所にある。
 名の通り、会津市街が一望できる。
 反対の方向には、磐梯山が眺望。


山頂からの磐梯山 山頂からの会津盆地
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小田山城/堀切跡

 小田山城/堀切跡

堀切跡の説明文

  

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