会  津  の  著  名  人

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 新妻 藤伍  にいづま とうご、明和2(1765)年〜天保6(1835)年1月7日 (71歳)
 名:胤継。 号:閉山。
 渥美元左衛門の養子となる。
 寛政2(1790)年、新妻氏の家督を継ぐ。
 寛政10(1798)年、町蔵奉行を経て、代官に就く。
 享和2(1802)年、家老/田中玄宰が推進した寛政の改革で、田地平均策を行なうなど数多くの功績を上げ、藩主から裃を下賜される。
 文化3(1806)年、郡奉行に就く。
 文化14(1817)年、大野ヶ原の追鳥狩場の普請を完成させる。
 文化・文政年間 (1804〜1829) の「会津藩郡政一貫」に新妻存寄書を記載し、風俗教化・年貢率・人口の増減・手余地問題・産子養育・社倉囲物などについて的確な具申をした極めて有能な藩士であった。

 日什大正師については、こちら

 新国氏  にっくにし、 蘆名氏の家臣。
 栗村氏より出たとされる。
 延文3(1358)年、萱本村(河沼郡笈川村とも)を領し、太子寺を創建。
 応仁2(1468)年、北東の田村氏の侵攻に備えるため、長沼から新国信濃守が城主として移る。
 永禄4(1561)年、安積郡中地城 (中路村) に移る。
 永禄9(1566)年、蘆名盛氏公が岩瀬郡須賀川城主/二階堂盛義を攻め、支配下となった長沼城 (岩瀬郡長沼) は仙道攻略の拠点として新国貞道 (上総介) が再び城主となる。
 天正17(1589)年、蘆名氏が伊達政宗公に敗れると政宗公に仕える。
 豊臣秀吉の奥羽仕置で本領を失ったため、大半の一族は河沼郡桧目村 (会津美里町鶴野辺) などで農民となる。
 背炙峠から会津入りする秀吉の饗導したのが新国貞道である。
 二瓶 直中  にへい なおなか、天明8(1788)年〜明治6(1873)年11月10日 (85歳)
 通称:忠五郎、五郎右衛門。
 鶴ヶ城下の大町で誕生。
 国学者/澤田名垂に師事し和歌・国学を学ぶ。
 通暁すると全国各地の様々な大家を歴訪し、研究に没頭。
 天保9(1838)年、京にて歌人の芝山持豊千種有功慈光寺実仲らに知遇を得て、歌道を学ぶ。
 その後、私塾を開き、和歌・国学を教える。
 明治6(1873)年、教部省から少講義に補される。
 しかし、同年に死去。
 著書「都のつと」など。
 如蔵尼
 (滝夜叉姫)
 にょぞうに、生没年未詳 (80余歳)
 平将門の3女。 名:滝夜叉姫。
 天慶3(940)年、父/将門が捕えられ処刑されたため、類の及ぶのを避けるため逃れ来て、慧日寺の境内に庵を結んだ。
 父/将門は筑波山/中禅寺などから、慧日寺を開いた徳一大師に帰依しており、山門を寄進したとされている。
 死去し冥府に赴くが、地蔵菩薩に「生前に罪はないから現世に戻られよ」と復活、出家して如蔵尼を名乗ったとの伝説が伝わっている。
  
 様々な説話もある。
  ◇ 今昔物語/本朝仏法部第17巻第29話
    「陸奥国の女人 地蔵の助けにより活りを得る話
  ◇ 元亨釈書(巻第18願雑3)
  ◇ 地蔵菩薩三国霊験記  など
 山東京伝の読本「善知安方忠義伝」にも妖怪/滝夜叉姫として登場するが、会津に伝わる説話とは まったく異なる。
 墓は、近くの雑木林の中。
如蔵尼 (滝夜叉姫) の墓

如蔵尼 (滝夜叉姫) の墓


如蔵尼 (滝夜叉姫) の墓
如蔵尼の碑
 慧日寺/金堂の入口前にも、享和2(1802)年に建立の慰霊墓がある。

如蔵尼の碑


如蔵尼の碑
 丹羽 能教  にわ よしのり、明和3(1766)年12月〜天保14(1843)年12月1日 (78歳)
 通称:織之丞。 字:子質。 号:蒙斎。
 父/勘解由(かげゆ)能衡と母/諏訪氏の嫡男。
 5歳で母・10歳で父/を亡くし、祖母/西郷氏の家で育つ。
 安永 4(1775)年、家督を継ぐ (10歳)。
 天明 8(1788)年、番頭組頭に就任。
 寛政 2(1790)年、私財を投じて新潟/打越村・富永村から移住させ、猪苗代の荒野を開拓し藩に祭田 (土津神社) として献じる。
 寛政 9(1797)年、家老組頭に就任。
 文化 2(1805)年、用人頭取/兼軍事奉行に就任。
 文化 3(1806)年、先任軍事奉行に就任。
 文化 5(1808)年、北方警備のため軍監として樺太出兵の任に就く。
丹羽能教の墓  文化 7(1810)年、江戸湾防備の任で観音崎に陣屋を築き監督する。
 文化10(1813)年、若年寄に就任。
 文政 2(1819)年、家老に就任。
攬勝亭  文政12(1829)年、ようやく辞任の願い出が許され、攬勝亭にて隠居する。

 墓は小田山/山頂近く
 「退素(のきしろ)零社」
 鳥居忠政の家臣/三宅重直は、鳥居家が改易となり保科正之公に仕え、会津/三宅家の祖となる。
 通し名/丹羽勘解由として、藩の重職を務める。
 歴代家老1名を輩出。

西岡直方          

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 新島八重については、こちら

 日清  にっせい、天保3(1832)年〜明治4(1871)年7月10日 (40歳)
 名:坂井義清。 僧侶名:日清。
 藩士/坂井惣八の5男として片柳町で誕生。
 生まれながらにして病弱で、8歳の時に大法寺の徒弟となる。
 戊辰の役ごろには、大法寺の住職に就任。
 慶応4(1868)年8月23日、鶴ヶ城が包囲されるや、累代の恩を報ずるべく法具を整えて入城する。
 砲撃が始まるや、標的になった天守閣最上階に祭壇を設け、日蓮真筆の曼荼羅を掲げて連日「武運長久怨敵退散」を大声で祈祷する。
 故/容敬公の室2名も加わった。 「城中二老尼あり、誠真・民了といふ、或は妙心・妙見とも称す。容敬歿後剃髪して佛に事ふ。孤城包囲を受くるに至り連日連夜齋戒して読経をなせり
 連日連夜、激烈な砲弾を浴びる中、硝煙をものともせず、朗々として絶える事がない読経に、城内はもとより場外で奮戦する藩士たちの士気は大いにあがった。
 おどろおどろしい読経に、も恐怖に怯えたという。
 時刻を知らせる鐘撞堂では、狙撃による犠牲者が続出したにもかかわらず、仏のご加護なのか、かすり傷ひとつ負わなかった。
 戦火の中、名刹の堂宇など全てが略奪・焼き払われたため、開城後は潜伏して復興に奔走する。
 明治4(1871)年、見つかり追跡され、川原町の路上で斬殺される。
  「守義院悌順日清聖人」
 東京に幽閉された藩士たちに従って上京し、東京で死去との説も。
 丹羽 五郎
[肖像]
 にわ ごろう、嘉永5(1852)年3月14日〜昭和3(1928)年9月6日 (77歳)
 幼名:三子松。 通称:三子之助、右近。 羅卒時代:田村五郎。
 丹羽族の嫡男として鶴ヶ城下の南郭外花畑にて誕生。
 文久3(1863)年、松平容保の京都守護職就任に従い上洛していた宗家/丹羽寛次郎が病死、跡取りがいなかったため宗家の隠居/丹羽喜四郎の厳命により丹羽宗家を相続。
 戊辰の役では、藩主/松平喜徳公の御使番として戦況視察などに随行し、籠城戦を戦い抜くが、一族で40名以上を失っている。
 野尻代官の父/族が自刃したとの報では、夜を徹して急行し、父の遺体を駕籠に乗せ若松に連れ帰り大龍寺に葬った。
 開城後は、東京で幽閉 (謹慎)
 放免後に東京に残り勉学の道を選び苦学する。
 明治5(1872)年、困窮の生活から「田村五郎」と名乗り、芝高輪東禅寺/屯所の邏卒 (警察官) に就く (20歳)。
 明治10(1877)年、西南戦争に出征し、田原坂で植木口警視第一番隊長/内村直義が戦死すると、抜刀隊小隊長 (植木口警視隊一番小隊長) に任命され、積年の恨みを晴らすかのように奮戦、陸軍少尉に昇進し新撰旅団本営の参謀部附になる。
 明治15(1882)年、「田村五郎」から本名の「丹羽五郎」に戻る。
 明治18(1885)年、警官練習所の授業生 (准教員) に就く。
 明治21(1888)年、神田和泉橋警察署長に就任。
 が跋扈する世情に嫌気がさし、曽祖父/丹羽能教が私財を投じて猪苗代の荒野開拓し藩に祭田として献納に倣い、理想郷建設のため北海道開拓を決意する。 開拓資金獲得として「漢英対照いろは辞典」「和漢雅俗いろは辞典」の2冊を出版し相当の利益を得る。
 明治22(1889)年、夏休み休暇を利用して、北海道開拓地を視察。
 明治23(1890)年、北海道瀬棚郡瀬棚村/利別原野を開拓地と決め、趣意書を提出し貸与許可を申請。
 明治24(1891)年、神田和泉橋警察署長を辞任し、北海道へ渡る。
 貸与許可を得ると、曾祖父/能教が開墾した猪苗代/南土田村から開拓移民12戸を募集。
 明治26(1893)年、猪苗代/千里村 (南土田村)から12戸 (49人) 移住。
 明治27(1894)年、猪苗代/千里村から8戸、翌年に10戸移住。
 明治28(1895)年、東京在住の家族を呼び寄せる。
 明治30(1897)年、玉川尋常小学校を創立 (生徒44名)。
 明治35(1902)年、郵便局を開設。
 明治41(1908)年、有限責任/丹羽信用販売購入組合を設立。
 明治43(1910)年、第3期村会議員に当選、その後は第10期を除き12期 (昭和3年)まで務める。
 明治44(1911)年、207戸 (1,126人) にまで増加。
 大正 6(1917)年、丹羽村養蚕組合を設立。
 大正10(1921)年、丹羽村に拓殖医設置。
 大正13(1924)年、高利の負債であえぐ村民を見かねて、私財を担保に日本勧業銀行から3万円を借りて解消させる。
 同年、村の中心に「会津白虎隊玉川遥拝所」を建立。
 藩に命を捧げた白虎隊/隊士と同し年であったが、後の藩主/喜徳公の御使番であったため入隊できず、従兄弟/有賀織之助永瀬雄次も自刃しており、片時も忘れなかったという (会津白虎隊玉川遥拝所)。
 昭和3(1928)年、理想郷の建設に生涯を捧げた人生に幕を閉じた。
 村民のみならず、地元紙も「農民の理想郷」「隠れたるユートピア」と功績を讃え、死を惜しんだ。
 墓は丹羽村共同墓地 (能教寺)。
 [史料]
 瀬棚に拓いた村は、今でも通称「丹羽村 (北檜山町丹羽地区)」と呼ばれており、丹羽小学校と猪苗代千里小学校が交流している。
 昭和16(1941)年8月28日、丹羽村建村五十年祭を記念して「丹羽五郎翁頌徳碑」が建立・除幕。
 昭和35(1961)年9月6日、丹羽村開基七十周年の際に徳を讃え「丹羽五郎翁胸像」が建立・除幕。
 丹羽 族  にわ やから、文化12(1815)年〜慶応4(1868)年8月7日 (54歳)
 名:能由。 家老/丹羽能教の5男。
 慶応4(1868)年7月29日、越後/長岡城が落城し1千6百人を超える大量の兵が、若松を目指し八十里越えて会津領に入る。
 加えて戦火から逃れる避難農民も殺到し、総勢が数千人に達した。
 野尻代官/兼兵糧総督として赴任しており、難民の救助と食糧の補給を命じられ、その手配に追われる。
 食糧事情の悪い山間の僻地であり、戦雲漂う中、将来の不安におびえる農民らが出し渋るのも当然であり、昼夜を問わず急増する避難民への食糧調達は、ままならなかった。
 疲労のあまり泣くことも忘れた子供たち、裸足で足の裏が血だらけの婦女子、人の肩につかまりながら1歩1歩よろけながら進む負傷兵らが飢えに苦しむ姿を目の前にして、職責を果たせない無念さに、遺書を残し自刃する。  [写真]
 「断然身を殺して数千の将卒を救はんと決し 公務の合間合間に遺書を認め 深更に至りその日の業務終るを待ち 予て用意の酒肴を命じ 属僚以下を会し莞爾として酒杯を挙げ 談笑の間に奉公の至誠を説きて一同を犒ひ 或は之を慰め 上下歓談時を移して宴を徹せしが 族再び自室に入りて遺書を認め 翌午前二時頃に至りて筆をおき 従容として腹を屠り喉を掻き切りて死す
 代官の責任を取っての自害を聞き驚き感じ入った農民らは、率先して食糧の供出に応じ、避難民は何とか若松へ逃げ延びることができた。
 「属僚之を見て驚愕為す所を知らず 遺書を翻読再三して 其忠魂義魄に感激し 各村の代表者を会して之を伝へければ、一同感激措く能はず。各々家を空にして米穀を搬送しければ 給養頓に潤沢となり 漸く大衆を救ふを得たりといふ (會津戊辰戦争/平石弁蔵)」
 仮安置は徳林寺。 墓は大龍寺 (墓地整理により無縁墓域)。

《殉難者》 新妻豊記 新国英之助 西川勝太郎 西村久之助章敬
二瓶寅三郎 蜷川友次郎 蜷川文次郎 丹羽新吾
丹羽宗源

《 に 》 幕 末 よ り 後

 新井田 傳  にいだ つたえ、昭和(1944)年5月〜
 新井田司の末っ子として会津若松市にて誕生。
幸楽苑の元祖/味よし食堂  昭和29(1954)年、父/司が電力会社を55歳で定年退職したが、まだ傳が小学3年生で隠居はできず、大衆食堂「味よし食堂」を開店する。
 素人が始めた店に客など来ないと判断、深夜営業を開始した。 ▲(会津若松市栄町1-17)
 雪の降る中、膝まで積もった雪を踏みしめながら売り歩く父母の姿を忘れられないという。
 昭和37(1962)年、店を継ぐとの決意から、上京し1年半、必死で修業する。 修業先の1つであった「幸楽飯店 (四谷)」から後に「幸楽苑」と命名することになる。
 昭和41(1966)年、「味よし食堂」を「幸楽苑」へ改称。
 昭和45(1970)年、株式会社幸楽苑に改組。
 昭和50(1975)年、チェーン展開を開始。
 昭和55(1980)年、フランチャイズ事業を開始。
 昭和56(1981)年、全国展開をすべく、東北自動車道の近くの郡山市に麺工場を移転。
 平成 9(1997)年、社団法人日本証券業協会 (ジャスダック) に上場。
 平成14(2002)年、東京証券取引所市場二部に上場。
 平成15(2003)年、東京証券取引所市場第一部に上場。
 平成24(2012)年、初の海外進出としてタイに開店。
 「半ちゃんラーメン」の商標登録 (商標登録第1523776号) を持つが、半分の量のチャーハンとラーメンのセットではない。
 新妻 駒五郎  にいづま こまごろう、
 安政2(1855)年10月〜昭和12(1937)年8月12日 (83歳)
 藩士/新妻一郎の長男として鶴ヶ城下にて誕生。
 戊辰の役では開城後に上京し、警視庁の邏卒 (警察官) となる。
 明治10(1877)年、西南戦争が起こるや、積年の恨みを晴らすべく志願し、抜刀隊士として活躍する。
 明治13(1880)年、警部補へ昇進。
 三重の典獄、岡山・広島・新潟・千葉・宮城・兵庫・大阪の警部長、警務長、警察部長を歴任。
 明治33(1900)年には義和団の乱で功績を挙げ、フランス国と清国より叙勲を受ける。
 大正6(1917)年1月17日、第18代/大分県知事に就任 (62歳)。
 大正10(1921)年5月27日、大分県知事を退任。
 選奨土木遺産「明正井路一号幹線一号橋」橋銘板に名がある。
 大正10(1921)年7月18日、第7代/小倉市長に就任。
 大正14(1925)年7月17日、小倉市長を辞任。
 公職に就いた48年間、1日の欠勤もなかった。
 京都守護職時代に京で死去した藩士たちの眠る黒谷会津墓地の整備にも、寄付金募集の発起人の1人となるなど尽力している。
 墓は、遺言により故郷/猪苗代見禰山に葬られたとのこと。
 西 忠義  にし ただよし、安政3(1856)年〜昭和9(1934)年 (79歳)
 初名:香川留吉。 号:成堂。
 藩士の3男として鶴ヶ城下にて誕生。
 慶応4(1868)年、戊辰の役で兄たちを亡くし、家督を継ぐ。
 明治 3(1870)年、斗南藩の若松出張所書記に就く、16歳。
 明治 8(1875)年、藩の消滅し、若松県職員 (津川支庁) に就く。
 明治 9(1876)年、県統合により福島県職員となり、妻/久子と結婚。
 やがて県庁の中枢で力量を発揮し、会津中学校の設立にも尽力。
 明治21(1888)年、磐梯山噴火の迅速で的確な現地調査報告の功により、警視庁に抜擢。
 栃木県足利郡長の時には、足利学校遺跡保存に尽力。
 明治31(1898)年、樺山郡長を経て、檜山支庁長に就任。
 明治34(1901)年、北海道/浦河支庁長に就任。
 日高開発のために全力を傾注、日高地方の教育・土木・衛生など施設の整備、農林水産業の発展のための諸施策や、地元民への啓蒙に尽力し、日高の物質面・精神文化面に並並ならぬ貢献をした。
 特に、日高種馬牧場の開設・育成は最大の業績である。
 着任の翌年には日高管内の実業家をまとめ日高実業協会を創設、農商務大臣へ国営種馬牧場の浦河設置を上請、種馬の陸路整備を開始。
 折しも日露戦争の風雲漂う国費大緊縮の中、逆に軍馬の必要性を説き伏せ、遂に巨額な国費を獲得し日高種馬牧場の基礎を築く。
 明治42(1909)年、小樽支庁長に就任。
 大正5(1916)年、臨時帝室編集局嘱託に就任し、「明治天皇紀」のの編集に携わる。
 昭和 7(1932)年、「至誠一貫の人」と讃え慕う日高の人々によって、生存中にもかかわらず忠義を生祠する西霊社 (後に西神社に改称、更に西舎神社に遷座) が創建。
 浦河役場荻伏支所前に銅像が、潮見ヶ丘に忠義翁頒徳碑が建立。
 西 義一  にし よしかず、
 明治11(1878)年1月1日〜 昭和16(1941)年4月15日 (64歳)
 日高開発の恩人として西舎神社に合祀の旧藩士/西忠義の長男。
 明治31(1898)年、陸軍士官学校 (10期) を卒業。
 明治32(1899)年、砲兵少尉に就く。
 明治35(1902)年、陸軍砲工学校高等科を卒業、陸士生徒隊付に就く。
 第七師団弾薬大隊付などを歴任。
 明治37(1904)年、第2師団後備野砲中隊長として日露戦争に出征。
 明治42(1909)年、陸軍大学校 (21期) を卒業。
 陸軍野戦砲兵射撃学校教官、野砲第十一連隊大隊長、東宮武官、侍従武官、野戦砲兵射撃学校教育部長、欧州出張などを歴任。
 大正12(1923)年、陸軍少将に昇進し、野戦重砲兵第三旅団長に就任。
 昭和 3(1928)年、陸軍中将に昇進し、陸軍技術本部総務部長に就任。
 陸軍野戦砲兵学校長を歴任。
 昭和 6(1931)年、第八師団長に就任。
 昭和 7(1932)年、満州に赴任。
 東京警備司令官を歴任。
 昭和 9(1934)年、陸軍大将に昇進し、東部防衛司令官を兼務。
 昭和11(1936)年、軍事参議官の時に二・二六事件が勃発し反乱軍の説得にあたる。
 第17代/教育総監に就任するが、病のため退官 (予備役に編入)。
 墓は多磨霊園
 西川 鉄次郎  にしかわ てつじろう、
 嘉永6(1854)年12月24日〜昭和7(1932)年6月1日 (享年80、満78歳)
 藩士/西川俊治の子として鶴ヶ城下にて誕生。
 戊辰の役では、白虎寄合二番隊として越後方面で奮戦 (16歳)。
 開城後は、兄/彦太郎とともに 東京で幽閉(謹慎) される。
 明治 3(1870)年、斗南藩/田名部村に移住したが、同年に徳川家が移封された静岡藩沼津兵学校附属小学校に留学する。
 明治11(1878)年、東京大学法学部を首席で卒業 (最初の卒業生・法学部6名・総16名)、外務省に入り大使館書記生として英国に赴任。
 明治14(1881)年、帰国し、内務省に就く。
 明治18(1885)年、文部省書記官の任に就きながら、18人の若手法律家と「英吉利法律学校 (中央大学)」を創設、保険法の講義を担当する。
 明治19(1886)年、裁判官に転じ、東京始審裁判所判事に就任。
 水戸地方裁判所長、横浜地方裁判所長、函館控訴院長、長崎控訴院長などを歴任。
 明治31(1898)年、大審院 (最高裁判所) の判事に就任。
 大審院判事の時に「大審院判決摘要類纂」の校閲に関わっている。
 明治39(1906)年、長崎控訴院長に就任。
 昭和 7(1932)年、神奈川県小田原市にて死去。
 墓は、青山霊園立山地区 (葬儀は小田原/興徳寺)
 西川 満  にしかわ みつる、明治41(1908)年2月12日〜平成11(1999)年2月24日
 会津若松市にて誕生。
 父の仕事の関係で、3歳の時に台湾へ渡る。
 台北一中を卒業し、早稲田大学仏文科へ入学し、フランス文学者/吉江喬松に師事。
 昭和 8(1933)年、同大学 (卒論/アルチュール・ランボー) を卒業し台湾日日新報に入社、「城隍爺祭」で第1回文藝懸賞創作の選外佳作。
 昭和10(1935)年、処女作の詩「媽祖祭」でデビュー。
 昭和12(1937)年、「亜片」で第4回文芸汎論詩集賞・詩業功労賞。
 昭和14(1939)年、「台湾風土記」「華麗島」を創刊。
 昭和15(1940)年、「文芸台湾」を創刊。
 昭和16(1941)年、「赤嵌記」で第3回文藝推薦の候補、「元宵記」で第14回芥川龍之介賞の予選候補。
 昭和17(1942)年、「朱氏記」で第15回芥川龍之介賞の予選候補、「赤嵌記」で台湾文化賞。
 昭和21(1946)年、太平洋戦争終結で、台湾/真理大学に蔵書2万冊余りを寄贈し、日本へ引き揚げる。
 昭和22(1947)年、「会真記」で第1回夏目漱石賞の佳作。
 昭和24(1949)年、「地獄の谷底」で第22回芥川龍之介賞の候補。
 昭和57(1982)年、全集「西川満全詩集」刊行。
 経済学者/西川潤は長男。
 仁科 熊彦  にしな くまひこ、
 明治29(1896)年1月1日〜昭和62(1987)年4月10日 (91歳)
 軍人の父 (藩士の子孫) の赴任地/熊本市新屋敷町にて誕生。
 大正 5(1916)年、会津中学校 (県立会津高等学校) を卒業、早稲田大学を目指し上京して予備校に通う。
 映画に目覚めてしまい学業を放棄、天然色活動写真巣鴨撮影所に入社し、撮影助手に就く。
 大正 8(1919)年、同撮影所が国際活映の経営に移る。
 大正12(1923)年、関東大震災により国際活映の経営が悪化したため小西六の現像所に入社。
 大正13(192)年、東亜キネマ甲陽撮影所 (監督部) に入社すると、程なく監督を命じられ、映画監督の道を歩むことになる。
 同年、「或る兄弟と城主」を監督。
 大正14(1925)年、東亜とマキノが分割されたため、東亜に残る。
 昭和 4(1929)年、女優の岡島艶子と結婚 (33歳)。
 昭和 6(1931)年、嵐寛寿郎が独立し「嵐寛寿郎プロダクション」を立ち上がるや山中貞雄と移籍し、引き続き「右門シリーズ」を撮る。
 昭和62(1987年、京都市右京区竜安寺の自宅で死去。
 新田 祐大  にった ゆうだい、昭和61(1986)年1月25日〜
 会津若松市にて誕生。
 平成15(2003)年、県立白河高等学校在学中に、全国高等学校総合体育大会自転車競技大会 (インターハイ、佐世保競輪場) の1kmタイムトライアルで優勝。
 平成16(2004)年、高校卒業後に、アジア自転車競技選手権大会ジュニア部門スプリント (四日市競輪場) で2位入賞。
 平成17(2005)年、全日本自転車競技選手権大会の1kmタイムトライアルで優勝し、平成19(2007)年・平成20(2008)年・平成22(2010)年の同大会同種目でも優勝している。
 同年、前年に技能免除で入学 (第90期生) した日本競輪学校を卒業し、デビューの函館競輪場で初勝利を挙げ、プロでの活躍を開始した。
 丹羽 七郎  にわ しちろう、
 明治18(1885)年3月31日〜昭和10(1935)年7月7日 (満50歳)
 藩士/丹羽五郎の5男として若松 (会津若松市) にて誕生。
 明治36(1903)年、会津中学校 (県立会津高等学校) を卒業 (中9回)し、検定試験を経て、東北帝国大学農科大学に入学。
 明治43(1910)年、東北帝国大学を卒業し、京都帝国大学法科大学政治科へ入学。
 大正 2(1913)年、大学在学中に文官高等試験に合格 (180名中次席)。
 大正 3(1914)年、京都帝大法科大学政治学科を卒業 (優等で銀時計授与)、内務省に入り東京府属/内務部庶務課に就く。
丹羽七郎の墓  東京府理事官、内務省警保局事務官、内務書記官、土木局河港課長、同港湾課長、明治神宮造営局書記官、神社局第二課長兼造神宮主事、内務事務官兼内務書記官、鉄道書記官、復興局書記官などを歴任。
 昭和 4(1929)年、第16代/岩手県知事に就任。
 昭和 5(1930)年、第26代/埼玉県知事に就任。
 昭和 6(1931)年、内務省土木局長を経て、社会局長官に就任。
 昭和 9(1934)年、岡田内閣の内務次官に就任。
 昭和10(1935)年、辞任すると間もなく死去。 墓は多磨霊園

仁科熊彦          

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