国道291号から朝日山への入口にある。
墓参りした季節の墓前は、青々としたコケのジュータンに覆われていた。
ここでも、戦いが終った後も、会津藩士の遺体に手を触れることを禁じた。
すでに仏になっている遺体は、野ざらしのまま朽ち果てた。
埋葬当時、会津藩士と分った6名には、福王寺の和尚が戒名を付けたという。
1基を除き、その他の遺骸は東軍戦死者となっているが、全員が埋葬を許されなかった会津藩士と言い伝えられている (7基が会津藩士との伝承も)。
昭和28(1953)年になって、浦柄の人たちによって21基の石碑が建立されたが、誰の遺体なのか同定できたものではない。
見張り役をしていた源之丞は、敵兵が進入するのを見つけ、寝入っていた英之助を起こす間もなく、報告のため山頂の陣に走った。
迅速な報告により長賊らの奇襲を失敗させることはできたが、残された英之助は無念にも虐殺された。
一緒に戦い生き延びた父の源之丞は、20数年間もかけて息子の遺骸を探し出し、この地に墓を建立した。
慶応4(168)年5月13日、白虎隊としての出陣ではなく、萱野隊甲士として父に従軍し 16歳(享年17歳)での戦死だった。
なお、戦死したなかに、会津藩白虎隊新国英之助 (十六歳)がいる。 この墓標は、戦後二十数年を経て、父がその遺体を探しあてて建立したものである。
小千谷市教育委員会
毎年、墓参りをして冥福を祈っていたが、三十三回忌が済んでからは、老いたこともあって浦柄の村人に託したという。
現在、墓碑は、浦柄神社に移されている。
墓碑列の向かって左端/入口の1番目に、並んで安置されている。
朝日山殉難者墓碑 <ツールチップで戒名を表示>
神社の拝殿から朝日山殉難者墓碑に至る途中に、「戊辰戦死神霊」なる碑があるが、詳細は知らない。 墓群の後ろには、「鶴ヶ城吉野」が植栽されていた。 若木なので、最近 (墓参時) に植えられたようである。 |
≪須貝佐蔵≫
朱雀寄合二番土屋隊。
慶応4(168)年5月3日、片貝で戦死。 24歳。
≪斎藤清左衛門≫
朱雀寄合二番土屋隊小隊頭。
慶応4(168)年5月3日、片貝で戦死。 28歳。
≪熊沢平助≫
朱雀寄合二番土屋隊。
慶応4(168)年5月3日、片貝で戦死。 26歳。
県道10号沿いにあるが、松の樹に隠れて見つけにくい。
山屋町の町外れの一軒家の軒先にある。
▲(小千谷市片貝山屋町周辺)
慶応4(1868)年閏4月26日、越後で初の本格的な戦闘が勃発した。
会津藩兵と幕府陸軍/古屋佐久左衛門が率いる衝鋒隊など約200名が、雪峠の高台地形を利用した要害を築き、布陣していた。
長賊ら約1,500名が芋坂集落に進軍、近づいてきた斥候を銃撃すると同時に砲撃を開始した。
地の利を得た東軍は破裂弾を浴びせ続け、7倍を超える長賊軍をものともしなかった。 夕方になると、寝返っていた越後高田藩の手引きにより側面からの攻撃を受け、撤退を余儀なくされた。
県道49号沿いにあり、現在は平地になっている。
「昔戦場 今農場 (碑の側面)」
▲(小千谷市大字池中新田周辺)
北越戦争の古戦場である。
慶応4(1868)年5月10日、朝日山近くの榎峠で戦いが始まった。
13日早朝、戦いは朝日山に移りる。
濃霧の中、激しい戦いが繰り広げられた。
そして19日に、死闘の末、2倍をも超える敵兵を撃退した。
≪第一砲塁の地≫ |
≪塹壕跡≫ |
≪野営場跡≫ |
記念館
展望所を兼ねた休憩所。
資料展示室には、北越戦争の関連品が展示されている。
「河井継之助が母に宛てた手紙」「新國英之介の甥の書簡」などなど。
▲(小千谷市浦柄)