4月28日
鎌倉出身の武士である父/石堂太郎覚知 (清和の末孫と云われ、後に大塚に館を移し石塚に改称) と、蘆名四郎盛宗公の娘である母/清玉姫との一人っ子として誕生。
仲睦まじい夫婦であったが、なかなか子に恵まれず、一箕山八幡神社に祈願を続けたところ、身ごもることができたと云う。
社殿の裏手側に、産湯に使ったと伝わる「産清水」の碑がある。 産気づいた時に突如として湧き出し、参道石段にて出産したと伝わる。
この年は、日蓮聖人の三十三回忌の年であり、この日の4月28日は建長5(1253)年に房州清澄山頂の旭ヶ森で立教開宗を宣言し、正午に清澄寺持仏堂で初説法を行った聖日でもあった。
幼名を玉千代丸、元服すると権太夫国重
3歳で文字が読め、6歳には四書五経を素読したと云う。
この年に相次いで両親を亡くし、この世の無常に接し出家を決意する。
※ ただし、「葦名家由緒」には清玉姫/元徳元(1329)年没。
比叡山に登り天台宗の慈遍僧正 (吉田兼好の兄) に師事、玄妙
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天台宗の奥義を求めんと、各地の大寺を訪ね廻って高僧に教えを請い、昼夜を惜しんで研鑽を積み、約20年もの間、勉学に励み続ける。
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比叡山の学僧3千人に教えを授ける学頭となり、玄妙能化
能化とは、“立派な先生”との尊称。
文和元/正平7(1352)年、39歳の時とも。
学徒養成を務めるとともに、天台教学での探求し続けるが、日を追うごとに疑問が大きく広がっていく。
蘆名直盛公の招聘で帰郷し、
羽黒山東光寺 (現/羽黒山神社) の住職となり、
多くの弟子を教養する。
全国から300人もの学僧が比叡山随一の学徳を慕って集まり、49の僧坊が建つほどだった。
応安4/建徳2(1371)年とも。
急用で帰国した若い学僧から預かった日蓮聖人の書「開目抄」「如説修行鈔」を拝読すると、今まで20年間の疑念が晴れ感得、真理を悟る道標と確信する。
天台宗から日蓮宗に改宗することを決め、名を日什に改め、東光寺を出る。
このことで暗殺されそうになるが、弟子の善如坊 (日仁上人) から知らされ機転により、山中の岩窟「お隠れの釜岩」に潜み、難を逃れたと伝わる。
3月23日
春を待って会津を出て、日蓮聖人の書が最も多く所蔵しているという日蓮宗の下総真間/弘法寺に帰伏し、真間能化と称する。
すでに天台宗の高僧として著名だった玄妙能化 (日什大正師) が改宗するはずなどないと疑る弘法寺に対して、証の「帰伏状」と「起請文」を書き記している。
弘法寺や下総中山/本妙寺 (現/法華経寺) に籠り、寝食を忘れて教義の拝読に没頭する。
日蓮聖人の遺命「帝都弘通 (京都での布教)」を行うことを決意し、4月に上洛する。
6月23日
初めて後円融天皇・関白/二条 (藤原) 良基に、立正安国 (正しい仏法を弘め、国を安らかにして人々を安穏に導くとの日蓮聖人の根本精神) を奏聞する。
7月 7日
高徳に心打たれた関白の計らいで、京都での布教を許可する「洛中弘法の綸旨」を賜り、「二位僧都」の官位に任ぜられる。
翌日、下総真間/弘法寺へ向かう。
時の権力者/第2代鎌倉公方の足利氏満にも宗義を直訴し、諫め諭す (武家諫暁)。
鎌倉の埋橋に飯田/本興寺の2世住持となり、山号を法華山に改称 (事実上の開山)し、11月8日に本門の戒壇を建立する。
品川/本光寺を創建。
上洛し、第2回目の奏聞をする。
上洛し、第3回目の奏聞をする。
後に妙満寺となる庵と、玄妙寺となる庵を草創。
遠州府中に見附/玄妙寺を開山。
吉美/妙立寺を創建。
日蓮聖人の生誕地である安房/清澄山へ赴く途中で、船目/本立寺を創建する。 その時の逸話「逆さ杖の榧」が伝わっている。
最愛の弟子で玄妙寺一世/日妙上人が入滅。
非常に落胆した姿は、周りの僧たちの涙を誘ったと云う。
当時の日蓮宗の宗風は、宗祖の入滅から100年も過ぎており廃れていた。
8月21日
弟子/日妙上人の一周忌を修する。
その折りに、「諷誦章」や自筆の法華経絵曼荼羅を著す。
8月25日
弘法寺への「帰伏状」と「起請文」を破棄。
宗旨「経巻相承」「直受法水」を立てて門流を独立、顕本法華宗を興す。
「直チニ日什ハ仰イデ日蓮大聖人二帰スル処ナリ」
8月22日とも。
京都室町六条坊門の庵を改めて妙満寺を開山、日什門流という一派を興し、帝都弘通の拠点とする。
その末寺として、松野/妙松寺を開山。
3月 7日
室町幕府第3代将軍/足利義満に宗義を説き、諫め諭す。
故事「天下を三度諌めて用いずんば山林に交わるべし」にならった日蓮聖人に従い、妙満寺を弟子に託すと決意。
余命を悟ったから、とも伝わる。
10月 9日
会津に帰郷。
1月21日
「一旨三通」の置文を著し、会津の地と玄妙寺、妙満寺に残し置くよう遺言する。
後に、◇ 会津/妙法寺 涅槃ノ寺 (入滅の寺)
◇ 京都/妙満寺 転法輪ノ寺 (布教の寺)
◇ 見附/玄妙寺 得道ノ寺 (教えを深めた寺)
の「什門ノ三本山」とされている。
1月20日とも。
2月28日
三聖 (釈迦牟尼・日蓮聖人・日什大正師) と仰ぎ尊ばれた玄妙阿闍梨日什大正師は、生れ故郷で法悦に満ちた生涯を終えた。
法臘61年の間に、弟子/日仁・日義・日金・日全・日運・日実・日穆・日妙などの名僧も育っていた。
遺体は、弟子の日仁上人によって荼毘に付された。
応永元(1394)年
顕本法華宗開祖の養育の地に、日仁上人によって霊場として妙国寺が開山され、廟所が建立された。
◇ 明徳2(1391)年、「日什上人自伝」。
◇ 元禄4(1691)年、「開山日什上人名相記 (石井記)」医師/石井玄隆 (檀家)。
◇ 元文5(1740)年、「日什聖人伝」京都/寂光院の日達。
◇ 明和9(1772)年、「日什上人実伝」「別本日什上人御一代記」妙満寺122世/日台。
◇ 天明4(1784)年、「日什上人御伝記」智泉、または智円の書を智泉が写す。
◇ 「日蓮宗宗学全書」
・ 永徳元(1381)年、「日什御奏聞記録 (日穆記
・ 応永 3(1396)年、「日什門徒建立由緒」宗尊 (会津六老僧)。
・ 応永10(1403)年、「日什名相本地之口決」妙法寺4世/日叡。
・ 応永32(1425)年、「門徒古事 (日運記)」日運 (直弟子)。
・ 宝徳元(1449)年、「日什聖人朝夕勤行掟之事」妙法寺5世/日満。
・ 年月不詳 「日什御一期間記」妙法寺6世/日戒。
・ 文明19(1487)年、「日什聖人御由来之事朝夕勤行掟之事」日戒の書写。