平成16(2004)年、ハンセン病院である神山復生病院の足跡を後世に伝えるため開設。
記念館の建物は、平成14(2002)年まで本館事務所として使われていたとのこと。
ハンセン病と誤診された井深八重が3年間 隔離入院し、誤診と判明してからも止まり、患者の介護に生涯を尽した病院。
神山複生病院の敷地の真ん中ほどにある。
樹木に囲まれた静寂な処。
明治30(1897)年創建、奇しくも八重の生まれた年である。
平成18(2006)年、国の登録有形文化財に指定。
1つだけのガラスケースに納められた八重の遺品は、かえって慎ましい人柄に良く似合う。
カバンや針箱、表彰状、受賞の際の衣装・写真などもある。
館内は撮影禁止なので、ご紹介できないのが残念。
[逸話]
▲(御殿場市神山109 Tel. 0550-87-3509)
▲現/神山複生病院 (御殿場市神山109 Tel. 0550-87-0004)
ハンセン病患者の介護に生涯を尽くした神山複生病院の近くにある神山地区共同墓地で眠っている。 墓域の奥の方にある。
墓碑銘 「一粒の麦」 は、八重の直筆。
いつ訪れても、花が手向けられている。
清掃も行き届いており、雨の日でも心は晴れ晴れとなる。
井深八重については、こちら。
[逸話]
▲(御殿場市神山平)
永徳3/弘和3(1383)年、日什大正師が小庵を結ぶ。
元中2年/至徳2(1385)年、日什大正師が開山。
本立山。 日蓮宗由緒寺院。
本尊は、釈迦牟尼仏。
妙国寺・妙法寺と同じ日什門流八別格本山の一つ。
妙国寺と同じ什門ノ四本山の一つ。
什門ノ三本山の1つ (「得道ノ寺」、妙法寺「涅槃ノ寺」、京都/妙満寺「転法輪ノ寺」)。
▲(磐田市見付2440−1 Tel. 0538-32-4226)
至徳3/元中3(1386)年、佐原常慶と内藤金平に招かれて、日什大正師が古見の地に開山。
日蓮宗由緒寺院。 延兼山。
本尊は釈迦牟尼仏。
妙国寺・妙法寺と 同じ日什門流八別格本山の一つ。
妙国寺と同じ什門ノ四本山の一つ。
永享6(1434)年、川尻の地に移転。
永禄10(1567)年、現在地に移転。
その後、今川氏や徳川氏から祈願寺として庇護され、大いに栄える。
▲(湖西市吉美2745
Tel. 053-576-0527)
康応元/元中6(1389)年、松野の国人/荻次郎左衛門尉氏誉の熱心な招きに応じ、日什大正師が開山。
明徳2/元中8(1391)年とも。
嘉慶2/元中5(1388)年に開山を願い出たが、同じ法華宗でも宗派が違うと断られたため、帰依の証として子/宮松を弟子入りさせ承諾を得たという。
法王山。 顕本法華宗。 京都/妙満寺の末寺。
弘治元(1555)年、現在地に移転。
文政12(1829)年、火災で焼失。
天保年間(1830〜1843)、本堂などを再建。
▲(富士市北松野1184
Tel.0545-85-1050)
元和2(1616)年、遺言により家康の遺体を埋葬。
翌年、天海大僧正の計画・指導により東照社が創建され、その後の各地東照宮へとつながる。
天海大僧正自らが鋤鍬をとって家康を日光東照社(東照宮)へ改葬した。
家康は、保科正之の祖父でもある。
推古天皇年間(592〜628)、久能忠仁が久能寺を建立。
永禄11(1568)年、武田信玄が久能城を築くが滅亡で家康の所領。
表参道は、久能山下から石段が1159段続き20〜30分を要する。
日本平山頂より、ロープウェイ(5分)が便利。
▲(静岡市駿河区市根古屋390 Tel. 054-237-2438 )
元和3(1617)年3月16日〜17日、天海大僧正が導いて保科正之の祖父/家康の遺骸を日光遷座の途中に2泊した有力な説の本陣があった。 一の本陣とも呼ばれていた。
生前の家康が三島宿に宿泊の際には利用していたこと、逗留していたこと、側室の養珠院/於万 (おきく) と出会い・見初めた場所であること、などから有力な場所だが、家光の御殿御茶屋に宿泊との説もある。
養珠院/於万は、紀州徳川家初代藩主/頼宣と、水戸徳川家初代藩主/頼房の生母。
▲(三島市本町12-3辺り)
世古本陣の門は、近くの長円寺の山門 (赤門) として移設され、現存している。
▲長円寺 (三島市芝本町7-7 Tel. 055-975-1586)
元和3(1617)年3月15日、天海大僧正が導いて保科正之の祖父/家康の遺骸を日光遷座の途中で1泊した御殿御茶屋があった。 善徳寺村にあった善徳寺の跡地 (現/善徳寺公園) に建立されたと云う。
今は町会名「御殿」として残るだけで、御殿跡の遺構は残っていない。
隣りの原田地区にあったとの説も。
▲ (富士市今泉5丁目14番地辺り一帯)
明治5(1972)年3月、西郷頼母を塾長として、船寄神社の西側高台にあった旧/江奈陣屋跡に、郷学校として開校。
頼母は保科頼母と姓を変え、静岡学問所の旧藩士/林三郎宅に身を寄せていた。
塾長を2年間務め、里人たちに漢学などを教えた。
後の北海道開拓の功労者/依田勉三や、遠洋漁業の功労者/石田房吉たちが輩出しており、伊豆地方での自由民権運動の先進地とも称されるようになる。
西郷頼母の墓は、善龍寺にある。
江奈陣屋とは、安永元((1772)年に掛川藩/太田氏の陣屋として設置され、幕末まで使用されていた所。
▲船寄神社 (松崎町江奈3番 禅海寺の近く)
明治6(1873)年、大沢村の依田自邸内に建築。
学長は、元会津藩家老/西郷頼母。
明治22(1889)年、中川村役場の庁舎に転用される。
昭和30(1955)年、町村合併により廃止。
平成5(1993)年、現在の地/道の駅「花の三聖苑」に移築復元された。
▲道の駅「花の三聖苑」内
(松崎町大沢20-1)
明治13(1880)年9月、伊豆地域では初めての小学校として岩科村に竣工。
旧会津藩士/山口昌隆を招聘して、初代校長に迎えた。
謹申学舎の活動から、地元の名主などの有力者が子弟教育の必要性を悟り、謹申学舎の隣接地に設立した。
総工費の4割ほどは、住民の寄付で集めている。
同じ藩士/林繁樹・墨田直水を教員として呼び寄せる。
内部については、こちら。
その後、西伊豆一帯に学校が次々と開校している。
昭和50(1975)年、国の重要文化財に校舎が指定された。
▲有
料 (松崎町岩科北側442 Tel. 0558-42-2675)
教鞭をとっていた藩士/山口昌隆が教鞭をとっていた。
岩科学校の創立に際して招聘され 初代校長に就任するため退官。
明治6(1873)年、開校。
明治8(1875)年、現在地に移転。
▲(函南町仁田148)
松平容保の孫/勢津子妃と秩父宮雍仁親王が共に過ごした元/別邸。
箱根外輪山の麓の標高5百メートルの場所に位置し、1万8千坪の敷地面積がある。
勢津子妃の遺言により、御殿場市へ寄贈。
平成15(2003)年、公園としてオープン。
▲(御殿場市東田中1507-7 Tel. 0550-82-5110)
保科正之の祖父/徳川家康の居城の1つ。
別名 : 府中城、静岡城、隠居城。
天正13(1585)年、家康が築き浜松城から居城を移す。
その後、秀忠に将軍職を渡し隠居しても実権を握り続け、二元政治で大いに栄えた。
天海大僧正も家康に招かれ、度々 訪れている。
明治2(1869)年、廃城。
鶴ヶ城と同じく日本100名城 (41番) の1つ。
▲(静岡市葵区駿府城公園1-1 Tel. 054-251-0016)
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鶴ヶ城と同じく日本100名城 (40番) の1つ。 永禄年間(1558〜1570)年、北条氏康が小田原城の支城の1つとして築城。 天正18(1590)年、豊臣秀吉の養子/秀次率いる7万の軍勢が、小田原征伐で陥落、その後に廃城となった。 箱根十城の1つ。 昭和5(1930)年、国の史跡に指定。 |
鶴ヶ城と同じく日本100名城 (42番) の1つ。
文明年間(1469〜1487)年、朝比奈泰煕が築城。
土佐/高知城へ移る前に城主となった山内一豊が、現在の原型を造ったとされる。
明治4(1871)年、廃城。
昭和55(1980)年、国の重要文化財に指定。
▲(掛川市掛川1138-24 Tel. 0537-22-1146)
佐原義連の正室の父。
墓は信光が開基した山梨県北杜市/信光寺 (斑山麓にあった金剛院) とされ、位牌は所蔵とのこと。 「月照信光大居士」
暦仁2(1239)年、出家し小庵/方広庵を結び、伊豆入道光蓮と称した。
後に、信光の名から信光寺と称する。
▲(伊豆の国市寺家90
Tel. 055-949-1487)
≪武田信光≫
応保2(1162)年3月5日〜宝治2(1248)年12月5日 (87歳)
名:武田五郎信光入道光蓮、通称:石和五郎。
武田信義の子。
甲斐武田氏の5代当主で、子孫が武田信玄。
鎌倉幕府、弓馬四天王の1人。
〜 京都本能寺の変にて討死した織田信長の首を、囲碁の名人と言われた本因坊日海の指示により原志摩守宗安が信長と共に自刃した父胤重と兄孫八郎清安の首と共に炎上する本能寺より持ち出し信長の首を、ここ駿河の当山に納め首塚を築き柊を植えた 〜 (現地の説明文より)
柊
の樹齢が450〜500年と推定され、年代的にも符合するとのこと。
本堂脇の境内に、「馬防柵」が再現されていた。
▲(富士宮市西山671 Tel, 0544-65-0242)
墓は飯岡墓地・満福寺、慰霊墓は大乗寺などにある。
▲(静岡市清水区興津井上町234-1 Tel. 054-369-0780)
天野家墓地内にあり、一般的な小さめの墓石。
以前は案内板があったが、今は見当たらない。
∴
穴山梅雪
妻が武田信玄の次女で、後に藩主/保科正之の養母となる見性院。
天文10(1541)年〜天正10(1582)年6月2日 (42歳)
父:穴山信友 (下山城主)、母:南松院(信虎の娘・信玄の姉)
幼名:勝千代。 名:信良、信君、梅雪。 通称:彦六郎。
甲斐武田氏の家臣で御一門衆の1人、後に武田二十四将の筆頭。
長篠の戦いの責で切腹を求められたり、主君/武田勝頼の娘と嫡男の許嫁を反故にされたことから、織田側に降り徳川家康の与力となる。
堺に滞在中、明智光秀の謀反を知り本領を目指すが、光秀の追討命を受けた一揆勢によって討たれる (自刃とも)。[関連項目と併記]
ここの戒名は「天正院殿穴山入道梅雪居士」。
墓は、飯岡墓地・霊泉寺・満福寺にある。
臨済宗、妙心寺派。
▲(静岡市清水区草ヶ谷114 Tel. 054-366-0009)
藩士/一ノ瀬大蔵たちの師 (江川塾で西洋流の砲術を学ぶ) の1人。
享和元年5(1801)月13日〜安政2(1855)年1月16日 (55歳/満53歳)
幼名:芳次郎。 名:芳次郎、邦次郎、英龍。
通し名:太郎左衛門。 号:坦庵。
父/江川英毅 (伊豆韮山代官)、母/久子。
長崎へ遊学し近代砲術を学び、韮山に反射炉を築き、銃砲製作も行う。
死後は、3男/英敏、5男/英武が家督を継承。
本堂裏の高台にある。
墓は、本法寺にもある。
参道の途中、石像がお出迎え。
「江川太郎左衛門英龍(坦庵)公像」
▲(伊豆の国市韮山金谷268-1
Tel, 055-949-2656)
室町時代(1336〜1573)頃、建築。
江戸時代初期(1600前後)頃、増築。
昭和33(1958)年、国の重要文化財に指定。
▲有料 (伊豆の国市韮山韮山1
Tel, 055-940-2200)