會津 三井伴野右○
會津 冷光○○
無縁仏の中に、まだ会津藩士の墓2〜5基はあるとのことだが、火山灰の中に半分埋没し、積み重ねられ、調べようがない。
桐ヶ谷寺は、平成2(1990)年頃、冨士霊園内に墓苑を新たに設け、門良院墓地にあった会津藩士墓を この地に移した。
▲(小山町大御神888-2 Tel. 0550-78-0311)
※ 桐ヶ谷寺 (東京都品川区小山1-4-8)
本名:柴四朗。
房州沿岸警備で赴任の藩士/柴佐多蔵の4男として、千葉県富津 (会津藩領) で生まれる。
小説「佳人之奇遇」を著す。
大正11(1922)年9月25日没。
70歳。
海蔵寺墓域の左奥の山頂にある。
墓は、恵倫寺にある。
本堂の脇上に、坪内逍遙の墓「逍遥坪内雄蔵夫妻墓」があり、多くの参拝者で賑わっていた。
▲(熱海市水口町17-24 Tel. 0557-81-3409)
本名:山口昌隆、号:磐山。 勇三とも名乗っている。
旧/藩士。 鳥羽伏見の戦いから開城まで奮戦。
戦後は、開拓使会/育英校で漢学の教員を務めた。
明治10(1877)年、同校が廃校となり函南小学校に移り教鞭をとっていたが、岩科学校の初代校長に就任した。 58歳。
明治13(1880)年、校舎の竣工に伴ない、同じ旧/会津藩士の林繁樹・墨田直水を教員として呼び寄せた。
天然寺で、慎独塾も開いている。
明治16(1883)年、病没。 64歳。
明治25(1892)年、教え子たちが師を追慕して碑「磐山山口先生之墓」を建立。 撰文は旧/仙台藩士の岡千仞。
天然寺は岩科学校に向かって右隣にあり、墓は本堂左手を入ってすぐの山口家墓域にある。
▲(松崎町岩科北側502 Tel. 0558-42-0376)
旧名:上田元四郎。
安政元(1854)年10月11日の生まれ。
墓碑銘は、「大嶋家奥津城」。
旧/藩士、斗南士族。
戊辰の役では14歳だったため、白虎隊より年少者で編成された非戦闘員の中軍護衛隊に所属。
開城後は、東京で謹慎。
明治6(1873)年7月13日、私塾/大沢学舎に招聘され赴任。
明治16(1883)年3月9日、江南黌に招聘され赴任。
松崎で教育に尽力した旧/会津藩士5名 (西郷頼母、林繁樹、山口昌隆、墨田直水、大嶋篤忠) の1人。 会津藩の教育レベルは全国的にも高く、松崎の向学熱と相まって招聘された。
▲(松崎町江奈44 Tel. 0558-42-0765)
元会津藩士/林源太の倅/源輔 (源治) が大野原で戦死したため、弟の三郎惟純が家督を継ぐ。
麹渓塾の塾頭で、戦後は静岡藩に仕官した。
恭順派のため著名でないが、秋月悌次郎や手代木勝任などとともに傑物の1人。 墓は東京/佛心寺にもある。
長男/奇男〜3男が夭逝し4男/義人は養子となり5男/良材が家を継ぐ。
奥の一段高い静岡藩/士族墓域の中に4基ある。
林源輔 (源治) 敢死隊指図役。 慶応4(1868)8月23日、大野原で戦死。 享年40歳。 林 源太 妻 由り子 男 源治 妻 な保子 林 惟純墓 . 室 忠子墓 . |
松平みの子 林朝比古 中川とき子 中川直温 |
長女 かね子 . 林 次郎 . 次女 古う子 . |
士族の墓域には、下記などがある。
・勝海舟の母/信子と妹/じゅん (佐久間象山の妻) の墓碑
・徳川家康の側室/お万 (水戸光圀の祖母) の供養塔
▲(静岡市葵区沓谷2-7-1 Tel. 054-245-1536)
通称:半助。 家老/神保内蔵助の次男。
母の実家/北原光吉の養子となる。
藩主の戦線離脱の責で切腹した神保修理は実兄。
戦後は、戦争の責任を取って切腹した家老/萱野権兵衛に立ち会い、兄の眠る興禅寺に遺骸を埋葬した。
坂本龍馬が「会津には思いがけぬ人物にてありたり」と評したほどの逸材。
明治22(1889)年6月8日、初代長崎市長となる。
明治31(1898)年8月、東京市下谷区長になる。
明治37(1904)年4月、孝明天皇から絶大な信頼を受けていた証明の御宸翰を明らかにした著書「七年史」を発表するや、真実が明らかになることを恐れた長賊らは不敬罪の濡れ衣を着せ拘留した。
大正2(1913)年7月24日、引退後に移り住んだ浜松にて死去。
71歳。 墓碑には小さく「妻 いと」とある。
辞世の句
「人の世を 離れてすめる 月影に さそわれて行く 西の山の端」
築山御前が眠っている月窟廟の左斜めの前方向にある。
時代は異なっているが、築山御前(瀬名姫)も運命に翻弄された殉難者であろう。
▲(浜松市中区広沢2-10-1 Tel. 053-452-7584)
[逸話]
初名:峯吉。 中島又吉の長男。 新撰組隊士。
元治元(1864)年に新撰組に入隊し隠密活動をしていたとも。
正式に入隊したのは、慶応3(1867)年。
鳥羽伏見、宇都宮を経て、母成峠で奮戦。
その後、蝦夷に渡る。
著書「戦友絵姿」「中島登覚書」。
明治20(1887)年4月2日、死去。 享年50歳。
「陸慶院孝庵義忠居士」。
筆頭に刻まれており、墓誌も建立されている。
▲(浜松市中区下池川町27-1 Tel., 053-471-6226)
吉村助右衛門とも。 富山藩士/吉村万兵衛の次男。
新撰組隊士。 慶応2(1866)年、新撰組に入隊。
鳥羽伏見の戦いの後、江戸を経て会津に入る。
大砲差図役として、猪苗代湖南の三代に駐屯。
母成峠の戦いの後、仙台で降伏し吉村助右衛門を名乗る。
大正6(1917)年2月23日、死去。 享年79歳。
「壽法長榮上座」。
墓誌には、「一策」とある。
▲(藤枝市岡部町桂島964 Tel. 054-667-0863)
墓碑銘は、「南一郎之墓」。 新撰組隊士。
山門を入った左側の無縁墓群にある。
目立つ案内板があり、すぐわかる。
鳥羽伏見の戦いの後に江戸へ帰還したが、すぐに脱走し彰義隊に入る。
戦後は、沼津に移住。
明治4(1871)年1月8日、この地で死去。
28歳。
▲(沼津市千本緑町1-5 Tel. 055-963-1831)