養母/見性院の考えで、将軍/徳川秀忠の4男/幸松丸 (保科正之) が保科正光の養子になる。
築城主・築城年ともに不明。
現在の形状は、武田信玄の家臣/山本勘助が改修。
鶴ヶ城と同じく日本100名城 (30番) の1つ。
高遠頼継、武田氏、京極氏、保科氏、鳥居氏が城主。
明治5(1872)年、廃城。 国の史跡に指定。 ▲(伊那市高遠町東高遠) |
保科正之の「お供寺 (建福寺、大龍寺、善龍寺、浄光寺、大法寺など)」の1つ。
安元2(1167)年、文覚上人が開創とされる。
天正7(1579)年、に京都/妙心寺の末寺として中興。
慶長51600)年、高遠藩を立藩した保科正光が菩提寺と定め、父/正直の戒名「建福寺殿天関透公大居士」と自分の「大宝寺殿信巌道義大居士」から大宝山建福寺と改称。
寛永13(1636)年、藩主/保科正之 (正光の養子) がに山形藩20万石で移封、さらに会津藩23万石へ再び移封の際、5世鉄舟和尚が随行し、新たな建福寺を創建。
本堂への石段に江戸時代の石工/守屋貞治・渋谷藤兵衛作の見事な石仏が建ち並ぶ。
本堂脇に、保科正信 (後の会津藩主/松平正客) が、正直の没後九十年の元禄3(1690)年に再建した墓3基が現存。 ◇ 保科正之の養父/保科正光 ◇ 保科正光の父で初代城主の保科正直 ◇ 武田勝頼の母/湖衣姫 ▲(伊那市高遠町西高遠1824 Tel. 0265-94-2336) |
諏訪神社の総本社で、日本最古の神社の1つ。
会津だけでも、56社 (会津寺社縁起) が勧請。
旧称:諏訪神社。 通称:お諏訪さま、諏訪大明神など。
明治政府が施行した大罪/廃仏毀釈という仏教弾圧により、由緒ある諏訪大社でも数多くの貴重な建造物が取り壊し破棄され、大打撃を受けている。
▲(諏訪市大字中洲神宮寺1
Tel. 0266-52-1919)
▲(茅野市宮川2030
Tel. 0266-72-1606)
▲(下諏訪町大門193
Tel. 0266-27-8316)
▲(下諏訪町上久保5828
Tel. 0266-27-8035)
昭和44(1969)年、建立。
武田信玄は、領主/蘆名盛氏と同盟を結び、天海大僧正に帰依し、次女/見性院は藩主/保科正之の養育母、5女/菊姫が藩主/上杉景勝の正室、6女/信松尼が保科正之の母/於静を庇護するなど数多くのご縁がある。[関連項目と併記]
平成2(1990)年、建立。
冨永直樹の作。
佐久間象山は、藩士/山本覚馬の師 (兵学や朱子学) の1人。
文化8(1811)年2月28日〜元治元(1864)年7月11日 (54歳)
江戸時代後期の兵学者・朱子学者・思想家。
通称:修理。 名:国忠、啓。 字:子迪、子明。
松代藩士/佐久間一学、母/まん (農民)。
開国論を唱え、勝海舟などを育てている。
幕府の命で上洛し、海防を策定するとともに公武合体策を進めていた矢先、国際情勢に疎い攘夷派らによって京都/三条木屋町で暗殺 (遭難之碑) される。
「清光院仁義啓守心居士 (清光院仁啓守心居士)」[関連項目と併記]
▲(長野市小島田町1384-1 Tel. 026-286-5526)
主祭神:佐久間象山。
昭和13(1938)年、旧/佐久間象山宅跡に創建。
入口に平成22(2010)年の生誕二百年大祭を記念して建立の騎馬像と、境内にもユニークな像がある。
≪佐久間象山宅跡≫
佐久間象山の生誕地でもある宅跡に井戸と、昭和56(1981)年に移築された茶室/煙雨亭が残るのみ。
佐久間象山は、藩士/山本覚馬の師 (兵学や朱子学) の1人。
文化8(1811)年2月28日〜元治元(1864)年7月11日 (54歳)
江戸時代後期の兵学者・朱子学者・思想家。
通称:修理。 名:国忠、啓。 字:子迪、子明。
松代藩士/佐久間一学、母/まん (農民)。
開国論を唱え、勝海舟などを育てている。
幕府の命で上洛し、海防を策定するとともに公武合体策を進めていた矢先、国際情勢に疎い攘夷派らによって京都/三条木屋町で暗殺 (遭難之碑) される。
「清光院仁義啓守心居士 (清光院仁啓守心居士)」[関連項目と併記]
▲(長野市松代町松代竹山町1502 Tel. 026-278-2461)
象山記念館 本通りから象山神社への入口にある。 昭和40(1965)年、開館。 ▲有料 (長野市松代町松代1446-6 Tel. 026-278-2915) |
天文23(1554)年、武田信玄が築城。
長享元(1487)年に大井光忠が築城とも。
別称:酔月城、穴城、白鶴城。
廃城年は不詳。
鶴ヶ城と同じく日本100名城 (28番) の1つ。
▲懐古園/有料 (小諸市丁311 Tel. 0267-22-0296)
武田信玄は、領主/蘆名盛氏と同盟を結び、天海大僧正に帰依し、次女/見性院は藩主/保科正之の養育母、5女/菊姫が藩主/上杉景勝の正室、6女/信松尼が保科正之の母/於静を庇護するなど数多くのご縁がある。[関連項目と併記]
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永禄3(1560)年、武田信玄が築城。 別称:海津城、貝津城、茅津城、待城、松城。 慶長3(1598)年、妻(正室)が蒲生氏郷の妹である田丸直昌が城主となる。 元和8(1622)年、真田信之が入城し、松代藩の藩庁として幕末まで真田氏が居城。 正徳元(1711)年、幕命により松代城と改称。 明治5(1872)年、廃城。 |
鶴ヶ城と同じく日本100名城 (29番) の1つ。
永正元(1504)年、 府中小笠原氏が深志城として築城。
別称:烏城。
明治4(1871)年、廃城にされるが、地元の有力者の尽力で買い戻され、解体を免れる。
昭和27(1952)年、改めて国宝に指定。
▲(松本市丸の内4-1 Tel. 0263-32-2902)
鶴ヶ城と同じく日本100名城 (27番) の1つ。
天正11(1583)年、真田昌幸が築城。
尼ヶ淵城とも。
昭和9(1934)年、本丸と二の丸などが国の史跡に指定。
明治7(1874)年、廃城。
▲(上田市二の丸2-12)
「ソースかつ丼」が名物である地域の1つ。
◇ 会津若松市
◇ 桐生市
◇ 福井市
キャベツは少なめだが、厚めの柔らかい豚カツが美味しい。
▲(伊那市一帯)
[青い塔]
大永元(1521)年11月3日〜元亀4(1573)年4月12日 (53歳)
幼名:太郎、勝千代。 通称:太郎。 名:晴信、機山。 出家後:信玄。
父/武田信虎、母/大井の方。
「風林火山」の軍旗を用い、甲斐の虎・甲斐の龍と恐れられた最強の戦国大名。
上杉謙信と国境を接していなかったら、天下を統一したであろうといわれる。
「法性院機山信玄」
当時の住職/北高 (全祝) 和尚は、信玄が幼少の頃から雲洞庵にて直江兼続と共に学んだ師であった。
永禄3(1560)年、龍雲寺へ迎えており、佐久方面に出陣する際、必ず戦勝祈願で立ち寄っていた。
最期の出陣では従軍僧として同行しており、駒場の裏山で火葬して遺灰を持ち帰っている。
昭和6(1931)年、骨壷と短刀、袈裟の象牙の環が発掘され、
「大檀越信玄公 干時天正元年四月十二日於駒場卒 戦時為舎利納管北高和尚頂礼百拝」と記載されていたことから武田信玄の遺骨とされ、信玄公霊廟に副葬品と共に納められた。
遺骨の一部が、この寺に残されたとされる。
▲(佐久市岩村田住吉町415
Tel. 0267-67-3632)
駒場の山中で病死した遺骸を安置した「武田信玄終焉の地」とされる。 家臣/馬場春信らが密かに裏山で火葬し、遺灰を従軍僧/北高 (全祝) 和尚が持ち帰った。
信玄の義理の兄弟/下条家一族と縁のある六世住職/裕教法印が、後に残った遺灰を納めた供養塔が建立したという。
傍らに武田四天王の一人/馬場美濃守の
供養五輪塔がある。
信玄が使用した兜の前立て2点を所蔵しているとのこと。
昭和49(1974)年、400年祭の際に火葬塚より火葬灰を境内に移し、供養塔として十三重塔を建立。
▲(長野県下伊那郡阿智村駒場569
Tel. 0265-43-2967)
武田信玄が火葬されたとされる場所の1つ。
安布知神社の背後の森の上。
▲(阿智村駒場2079辺りの山中)
武田信玄が絶命したと云い伝えられている場所。
信玄の死去の際、軍旗「風林火山」を横にしたので、この地が横旗と呼ばれるようになったという。
「甲陽軍艦/元禄本」に 「歳五十三歳で天正元年酉の四月十二日 三河 美濃 信濃三ヶ国の間 ねばねの上村と申す所にて御他界」、
地元の記録「根羽七宮廻り」にも「大暑なれば死骸こらへず ここに埋めて旗印を立て 〜 十王の辻堂の傍に五輪あり 又其一族の小なる五輪塔多数あり 宝暦の頃、八幡勧請あり 武田信玄の墳墓と称えている」ことから、尼寺の東高山万正寺 (廃寺) に埋葬と伝えられていた。
昭和56(1981)年、信玄塚は村史跡、宝篋印塔は村有形文化財に指定。
昭和59(1984)年、国道改修工事に伴い信玄塚の発掘調査が行われたが、遺物は出土されなかった。
▲(根羽村横旗)
明治30(1897)年、遠祖が武田信玄の重臣/高坂弾正の子孫と信じた地元人/高坂代太郎が建立。
根羽村横畑にある信玄塚の宝篋印塔を見本として、根羽村の石工/石原虎次郎に依頼した。
当時、横畑の塔は塔身が欠落していたのに気づかず、欠落のまま原寸大に建造。
その後、横畑の塔は塔身が発見され復元されている。
▲(阿智村伍和丸山/旧向関村丸山)
信濃国木曾谷の領主/木曾義昌は、武田信玄の3女/真理姫 (眞龍院) を妻に迎え、親子の縁を結んだ。
信玄の死を知り、追弔のため遺品を埋葬し、五輪の塔を建立して供養した。
<由来>
<縁起>
▲(木曽町福島門前5690
Tel. 0264-22-2512)
法華寺
隣接の法華寺は、甲州征伐で織田信長が本陣を置き、明智光秀が信長に武将たちの面前で辱めを受け時の寺でも知られ、後に本能寺の謀反のきっかけになったとされる。
吉良上野介の孫/吉良義周の墓もある。
「室燈院殿岱岳徹宗大居士」
無嗣断絶の米沢藩を救うとの保科正之の英断により、末期養子となった吉良三之助 (上杉綱憲) の次男で、後に吉良家を継ぐも赤穂浪士の討ち入りで諏訪藩預りとなり、当地で21歳の悲運な生涯を終える。
会津との関わりは幾重にも折り重なり、ご縁とは不思議なものである。
▲(諏訪市中州神宮寺856 Tel. 0266-52-3361)
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「甲陽軍鑑」によると、出陣中に死去する間際の遺言により、遺骸を諏訪湖に水葬したとされる。 重臣らの協議により、水葬の遺言だけは実行されなかったという異説もある。 ▲(諏訪市 〜 岡谷市 〜 下諏訪町) |
大正11(1922)年、京都/妙心寺より分葬。
佐久間家の菩提寺であり、父/一学や次男/恪二郎などの墓もある。
妻/じゅんの墓は、蓮永寺。
≪佐久間恪二郎 (三浦啓之助)≫
嘉永元(1848)年11月11日
〜明治10(1877)年2月26日 (31歳)
会津藩配下の新選組/隊士。
▲(長野市松代町松代御安町1142
Tel. 026-278-2685)