本堂裏山の、中腹やや上にある。
開城後、五郎少年は年少のため幽閉を免れたたため、焼けた屋敷跡から、自害した祖母・母・妹たちの遺骨を泣きながら拾い集めた。 その姿を見た人々は、長賊らの懲罰すら顧みず1片の遺骨をも見逃すまいと、日暮れまで手伝いを厭わなかったという。
戦後の長賊らが跋扈する世の中にもかかわらず、生き残った兄弟たちは名をはせる活躍をしている。
・柴ツネ | 太一郎の祖母 | 80歳 |
・柴フジ | 同/母 | 50歳 |
・柴トク | 同/妻 | 20歳 |
・柴素衣 | 同/妹 | 19歳 (土屋敬治の妻) |
・柴サツ | 同/妹 | 7歳 |
・柴シヲ | 太助の母 | 46歳 |
・柴ヒサ | 太助の妻 | 19歳 |
・柴ツネ | 太助の妹 | 2歳 |
・柴兵部 | 太助の叔父 | 30歳 |
柴太一郎盛道 柴佐多蔵(榮由道)の長男。 名は盛道、通称は秀次、松島翠庵。 京都に赴任し、軍事奉行添役として鳥羽伏見の戦いに出陣。 慶応4(1868)年9月15日、越後方面で負傷。 戊辰の役では生き残り、斗南藩に移住、下北郡長となる。 後に帰郷し、大沼郡長と南会津郡長を歴任。 大正12(1923)年4月28日没。 85歳。 |
柴五三郎 男子5人女子6人の3男。 京都に赴任し禁門の変では大活躍。 戦後は、飛躍する兄弟を尻目に帰郷し父の面倒をみる。 人間味あふれる「辰のまぼろし」の著者。 |
柴四朗 ペンネーム「東海散士」。 富津の会津藩陣屋 (現/八坂神社) で生まれる。 戦後は、西南戦争に別働隊として参戦している。 米国留学後、小説「佳人之奇遇」を発表、ベストセラーとなる。 明治25(1892)年、福島県選出の衆議院議員となる。 以降8回当選し、農商務次官や外務省参政官などを歴任。 「智性院東海居士」 墓は海蔵寺にもある。 |
柴五郎 戊辰の役では、面川の別荘にいたため家族の自刃から免れる。 日新館が休校になったので、21日から松茸狩りに出かけていた。 斗南に移住後、単身上京して陸軍幼年学校へ入学。 薩長閥の陸軍でも頭角を現し、明治27(1894)年の日清戦争では大本営参謀を務め、大正8(1919)年に陸軍大将となる。 昭和20(1945)年8月15日、太平洋戦争敗戦の詔を聞き、遺品を整理し自決するも、老衰で直ぐには果たせず。 同年12月13日に死去。 83歳。 |
柴清助 太一郎の叔父。 太一郎の家族の自刃に立ち会い、乞われて介錯し家に火を放った。 その後、叔母から松茸狩りに誘われ別邸にいる五郎のもとへ向かい、家族の自刃と五郎の保護養育を委嘱されたことを伝える。 |
現在の墓碑は、昭和42(1967)年6月建立。
小川郷左衛門
白虎寄合二番隊/太田隊小隊頭。
戊辰(1868)年9月14日、垣口で戦死。
44歳。 「義専院眞襌忠秀居士」
小川房次郎 (房次良)
大砲士中一番田中隊。
慶応4(1868)年8月29日、融通寺町で戦死。
17歳。 「赤心院孝山義忠居士」
小川鉱太郎 (O太郎)
郷左衛門の伜。 小姓。
慶応4(1868)年5月19日、越後長岡へ使者に赴く。
その最中に長岡兵と共に奮戦し、6月2日に戦死。
19歳。 「實性院忠山全義居士」
戊辰 八月二十五日
小田 火薬庫破
飛来之石
距離五丁
慶応4(1868)年8月25日、小田山の火薬庫周辺を占領されたため、決死隊2名により火薬庫を爆破した。
「小田山の北麓に火薬庫あり。奥行十二間、間口三間半あり、精製の火薬五百貫を蔵む。 小田山の西軍属々来りて之を奪ふ。城兵之を運ぶこと能はず。 是に於て八月廿五日、決死の足軽二名密かに之に近づき、火を庫内に投じて之を爆破せり。 此声数里の外に達し、激震鳴動、万雷の一時に落ちるが如く、四方の山谷に避難せし市民も、鶴ケ城一時に焼破崩壊せしものと信ぜり。 殊に城中には驚愕憤慨、既に自刃せしものあり。」 「廿五日昼過、弾薬に火移り、地響きと共に恐しき音致し、右に驚き、早まって杉田の家内残らず自刃す。 兵庫母、伯母、妻ゆふ悴勝彦(三歳)即死す。」 |