戊  辰  の  役  /  殉  難  者

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恵 倫 寺 (ネットで墓参)

▲(会津若松市花見ケ丘3-3-8 Tel. 0242-26-2882)
恵倫寺については、こちら。

柴一族の墓

 本堂裏山の、中腹やや上にある。
 開城後、五郎少年は年少のため幽閉を免れたたため、焼けた屋敷跡から、自害した祖母・母・妹たちの遺骨を泣きながら拾い集めた。 その姿を見た人々は、長賊らの懲罰すら顧みず1片の遺骨をも見逃すまいと、日暮れまで手伝いを厭わなかったという。
 戦後の長賊らが跋扈する世の中にもかかわらず、生き残った兄弟たちは名をはせる活躍をしている。

柴謙助の墓

柴謙助

 太一郎の弟。
 墓碑には、「柴謙介」とある。
 山川大蔵指揮下の大砲士中一番日向隊。
 慶応4(1868)年4月6日、下野/家中村で戦死。
 偵察中、農民に虐殺される。
 25歳。
 墓は、栃木/一乗院にある。

柴氏家属之墓

柴氏家属之墓

 慶応4(1868)年8月23日、自宅にて自刃。

  ・柴ツネ 太一郎の祖母 80歳
  ・柴フジ 同/母 50歳
  ・柴トク 同/妻 20歳
  ・柴素衣 同/妹 19歳   (土屋敬治の妻)
  ・柴サツ 同/妹  7歳

  ・柴シヲ 太助の母 46歳
  ・柴ヒサ 太助の妻 19歳
  ・柴ツネ 太助の妹  2歳
  ・柴兵部 太助の叔父 30歳

  柴太一郎盛道
 柴佐多蔵(榮由道)の長男。
 名は盛道、通称は秀次、松島翠庵。
 京都に赴任し、軍事奉行添役として鳥羽伏見の戦いに出陣。
 慶応4(1868)年9月15日、越後方面で負傷。
 戊辰の役では生き残り、斗南藩に移住、下北郡長となる。
 後に帰郷し、大沼郡長と南会津郡長を歴任。
 大正12(1923)年4月28日没。 85歳。
柴太一郎盛道墓
  柴五三郎
 男子5人女子6人の3男。
 京都に赴任し禁門の変では大活躍。
 戦後は、飛躍する兄弟を尻目に帰郷し父の面倒をみる。
 人間味あふれる「辰のまぼろし」の著者。
柴五三郎墓
  柴四朗
 ペンネーム「東海散士」。
 富津の会津藩陣屋 (現/八坂神社) で生まれる。
 戦後は、西南戦争に別働隊として参戦している。
 米国留学後、小説「佳人之奇遇」を発表、ベストセラーとなる。
 明治25(1892)年、福島県選出の衆議院議員となる。
 以降8回当選し、農商務次官や外務省参政官などを歴任。
 「智性院東海居士」 墓は海蔵寺にもある。
柴四朗墓
  柴五郎
 戊辰の役では、面川の別荘にいたため家族の自刃から免れる。
 日新館が休校になったので、21日から松茸狩りに出かけていた。
 斗南に移住後、単身上京して陸軍幼年学校へ入学。
 薩長閥の陸軍でも頭角を現し、明治27(1894)年の日清戦争では大本営参謀を務め、大正8(1919)年に陸軍大将となる。
 昭和20(1945)年8月15日、太平洋戦争敗戦の詔を聞き、遺品を整理し自決するも、老衰で直ぐには果たせず。
 同年12月13日に死去。 83歳。
柴五郎之墓
  柴清助
 太一郎の叔父。
 太一郎の家族の自刃に立ち会い、乞われて介錯し家に火を放った。
 その後、叔母から松茸狩りに誘われ別邸にいる五郎のもとへ向かい、家族の自刃と五郎の保護養育を委嘱されたことを伝える。

柴清助の墓

小川郷左衛門、鉱太郎、房次郎の墓 .

 現在の墓碑は、昭和42(1967)年6月建立。

小川郷左衛門
   白虎寄合二番隊/太田隊小隊頭。
   戊辰(1868)年9月14日、垣口で戦死。
   44歳。 「義専院眞襌忠秀居士」

小川房次郎 (房次良)
   大砲士中一番田中隊。
   慶応4(1868)年8月29日、融通寺町で戦死。
   17歳。 「赤心院孝山義忠居士」
小川鉱太郎 (O太郎)
   郷左衛門の伜。 小姓。
   慶応4(1868)年5月19日、越後長岡へ使者に赴く。
   その最中に長岡兵と共に奮戦し、6月2日に戦死。
   19歳。 「實性院忠山全義居士」

桃澤弾右衛門 .

 確認できないが、戦死者とのこと。
 墓誌には、8月12日に死去とある。

 桃澤彦五郎惟一なら大窪山墓地だが?
 慶応4(1868)年5月3日、片貝で負傷した大砲教示方の大砲組半隊頭/桃澤克之允(丞)とも。

諏訪伊助の墓

諏訪伊助 .

 家老。 戊辰の役では、日光口や土湯方面で奮戦、
 斗南藩/五戸へ移住、後に会津へ帰り、明治15(1862)年に帝政党を結社。
 明治17(1884)年、北会津郡長を務める。
 明治32年6月9日没。
 妻の墓は、五戸町/高雲寺にある。


 戊辰 八月二十五日
 小田 火薬庫破
    飛来之石
   距離五丁


 慶応4(1868)年8月25日、小田山の火薬庫周辺を占領されたため、決死隊2名により火薬庫を爆破した。
  小田山の北麓に火薬庫あり。奥行十二間、間口三間半あり、精製の火薬五百貫を蔵む。 小田山の西軍属々来りて之を奪ふ。城兵之を運ぶこと能はず。 是に於て八月廿五日、決死の足軽二名密かに之に近づき、火を庫内に投じて之を爆破せり。 此声数里の外に達し、激震鳴動、万雷の一時に落ちるが如く、四方の山谷に避難せし市民も、鶴ケ城一時に焼破崩壊せしものと信ぜり。 殊に城中には驚愕憤慨、既に自刃せしものあり。

廿五日昼過、弾薬に火移り、地響きと共に恐しき音致し、右に驚き、早まって杉田の家内残らず自刃す。 兵庫母、伯母、妻ゆふ悴勝彦(三歳)即死す。
 

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