画像クリックで現地の説明板の写真表示も一部あり .
会津藩兵10数名の墓である。
明治13(1880)年に建立された。
裏面には「戊辰戦死者十三年忌供養」とある。
林道の一般車の通行禁止の地点まで林道を走り、徒歩40〜60分ほどで旧/三斗小屋宿の共同墓地があり、その北側にある。
その先の視界が広がる場所が、宿場町であった三斗小屋宿跡。
≪青龍足軽四番隊/有賀隊≫
慶応4(1868)年8月23日、三斗小屋で戦死。
・鈴木徳治 | 42歳 |
・鈴木亀吉 | 42歳 |
・酒井清吾 | 39歳 |
・杉村亀吉 | 44歳 |
・日川清吾 | |
・三浦三郎 | 37歳 |
・水野量(雄)之助 | 44歳 (雄之助とも) |
・鈴木広治 | |
・佐藤亀次郎 | |
・田崎八代太郎 | 15歳 |
・横山久吉 | 22歳 |
・清水伝蔵 | 39歳 |
三斗小屋宿 (黒羽藩領)
元禄8(1695)年、会津藩は氏家を結ぶ松川街道を新たに開削したが、藩境の大峠は険しくお互いの登り口に宿を設ける必要があった。 黒羽藩は小藩のため費用の用立てができず、会津藩が宿駅を整備した。 設置前は人里離れた山深い草木の生い茂る地であったが、街道の開通で湯治客や、山岳信仰の霊場/白湯山へ詣でる人々なども往来し始めた。 元禄8(1695)年以降、藩主/松平正容公の参勤交代などに利用した。 参勤交代での利用は2回で終ったが、江戸への近道のため、越後からの利用者とも相まって大いに、栄えた。 戊辰の役の時には、会津との関係が深く親しみを持っていたため、心情的に会津寄りだったため、一人残らず会津側に付いた。 黒羽藩兵が撤退する際と再び占領するや、民家から金目の物を略奪し焼き払い、残虐な強姦・無差別的な虐殺を行った。 肝煎/月井源右衛門は、皮を剥がれ、股の肉を切り取られて口に押込められ、自分の肉を食えと残虐な殺され方をした。 「黒羽藩士等ノ蒙昧野蛮ノ惨酷ナル行動ニ驚カザルモノアランヤ 〜〜〜 野蛮的行為ノ仕跡見ルモ聞クモ実ニ痛恨極リナシ (田代音吉/三斗小屋誌)」 「那須の戊辰戦争」には黒羽藩兵が犯した蛮行の真実が記載されているが、「黒磯市史」は当時の小役人が長賊らに媚びへつらい幕軍の犯行に書き換えた。 明治政府も、会幕軍の仕業と改ざんを図ったが、誰一人従わず、周辺の地でも信じる者などいなかったという。 戊辰の役の後、会津の消滅を謀る極悪人/三島通庸が、凄まじい搾取に則って、敢えて宿場町を通らない新道建設を強行したため、集落は衰退してしまう。 昭和32(1957)年、最後の1戸が去り、再び無人の地に戻った。 |
慶応4(1868)年閏4月22日、この地で激しい戦闘が起こった。
まず阿久戸で始まり、午後には板室本村まで広がる。
穴沢村から油井村など家屋はに焼き払われた。
圧倒的な敵兵に善戦するも、東軍は20名を超える戦死者を出し、夕方前に後退する。 供養塔の北側で幕軍歩兵指図頭取/小笠原新太郎が戦死したとされ、「小笠原畑」と呼ばれている。
東軍に協力したと見なされた地元民は、取り調べもなく捕えられ、肉を削がれ口に押し込まれ、自らの肉を食うように強要された。
その家の者も、全員が惨殺された。
旧道沿いにあるが雑木林の中で判りづらく、白い木柱が頼り。
明治27(1894)年4月22日の27回忌に、放置され白骨化した東軍/遺骸17体を祀った供養塔が、地元民により建立された。
あまりに酷い仕打ちの記憶が残っていたからか、再度の仕打ちを恐れ道標として届けている。
「左 いたむろ (板室) 、右 ろくとち (六斗地)」
「明治廿七年四月廿二日拾七名二十七回忌」
供養塔の東側300メートル辺りに戦死者を埋葬した「歩兵塚」跡があったが今では確認できない。
▲(那須塩原市板室3527辺り)
塩原温泉/妙雲寺に 「沖 長三郎」 の墓があるとのことで訪ねたが、立入禁止区域にあるとのことで、けんもほろろ墓参りをさせてもらえなかった。
この姓名の会津藩士はいないし、「幕末維新全殉難者名鑑」にも記載されていない。
閏4月23日に戦死とのことだが、それらしき記載は他の古文書にも記されていない。
関谷で戦死した幕兵/草風隊士が正しいようだ。
鳥羽伏見の戦いでは、別選組/佐川隊として奮戦。
その後、柳田理記と改名し、衝鋒隊軍監として幕軍/古屋作左衛門隊に参加。
慶応4(1868)年3月7日、上州/梁田で負傷し、9日に自刃した。
34歳。
墓域の中央にある大きな墓碑、小さいながらも門柱まであり、ひときわ目立つ。
大正14(1925)年、胴体が埋葬された場所に、ご子孫が墓碑を建立。
首は、北会津の柳田家菩提寺 (大竜寺) に葬られた。
<家族に遺した歌>
「そよと吹く 風のたよりを 聞くならば 花はみやこに 散るとこそ知れ」
▲(足利市久保田町1582)
慶応4(1868)年4月23日、宇都宮での東軍戦死者が埋葬されている。
ここでも埋葬は禁止され、明治7(1874)年に建立できた。
旧宇都宮藩士14名と会津藩士12名など29名が埋葬されている。
その後の道路整備により、墓域の大半が消滅。
▲(宇都宮市西原1-5付近)
伊与田留蔵 (巨海源八郎) | 大砲士中一番日向隊 | 36歳 |
武田庫郎 | 大砲寄合一番日向隊 | 23歳 |
神山盛蔵 | 大砲士中一番日向隊 | 22歳 |
五十嵐関四郎 | 大砲一番日向隊寄合組 | 24歳 |
齋藤庄馬 | 大砲士中一番日向隊 | 22歳 |
桜井直太郎 | 大砲士中一番日向隊 | 28歳 |
横山定五郎 | 大砲士中一番日向隊 | 28歳 |
井関喜一郎 | 砲兵一番日向隊 | |
野崎友之進 | 足軽 | 30歳 |
相馬孫市 (孫一とも) | 日向隊付き諸生組頭 | 28歳 |
◆矢島七之助 | 大砲士中一番日向隊 4月6日に下野/家中村で戦死 | 29歳 |
◆柿沢勇記 | 伝習第二大隊参謀 4月23日で負傷、25日に日光で死去 | 36歳 |
旧幕府軍の遺棄された17柱が、「合の畑墓地」に葬られた。
幕軍として戦った片岡範三郎 (4月22日に安塚で戦死) の1柱も含まれている。 辞世の句を懐にしていたため判明できた。
「親に貰うた腕脛を 御国の為に尽す此時 會津若松藩士 片岡範三郎 年十七才」。
墓碑は、明治13(1880)年になって建立された。
風化しているが、
「戦士死十七名霊」
「明治元年 自四月廿一日 至廿二日」
と読める。
宇都宮城を奪取した旧幕軍は、余勢を駆って新政府軍を追撃し、の増援部隊と激戦となった。
激戦だった壬生町安塚の戊辰役戦死之碑とは、900メートル強しか離れていない。
▲(宇都宮市幕田町669 辺り)
安塚の戦いで戦死した東軍兵とのことだが、詳細不詳。
幕軍として戦った会津藩士とも云われる。
▲(宇都宮市西川田本町1-9-34
Tel. 028-658-4649)
明治5(1872)年、旧桑名藩士2名 (陸軍幹部) が建立。
山門を入り、本堂途中の左側にある。
向かい合って建っているの墓の中には、桑名藩を脱藩しとして戦死した三崎二郎(南合直道)の名がある。
同一藩士たちが、敵味方として戦った。
墓碑には、幕府軍/新士官隊として戦死した7名の名が刻まれている。
・笹田銀次郎 | 慶応4(1868)年4月19日、宇都宮で戦死 | 27歳 |
・岩崎弥五郎 | 慶応4(1868)年4月15日、宇都宮付近で戦死 | 23歳 |
・神山金次郎 | 慶応4(1868)年4月19日、下野安塚で戦死 | 23歳 |
・不破弾蔵 | 慶応4(1868)年4月15日、宇都宮付近で戦死 | 25歳 |
・岡正三郎 | 慶応4(1868)年4月19日、宇都宮で戦死 | 23歳 |
・高見民蔵 | 慶応4(1868)年4月15日、宇都宮付近で戦死 | 26歳 |
・小林権六郎 | 慶応4(1868)年4月16日、宇都宮付近で戦死 |
「旧会津藩士 柴健介 江花七之助之墓」
旧墓 「健満○(雨冠に神)魂之碑 四月五日」
新墓 「健満霊位 四月六日」
慶応4(1868)年4月6日、偵察中に下野/家中村で農民によって殺害される。
[伝聞]
≪柴謙助≫ 太一郎の弟、五郎の兄。
大砲士中一番日向隊。 25歳。
恵倫寺にも墓碑がある。
≪石川七之助≫
江花、伊藤とも。
大砲士中一番隊柴謙助探偵付属。 23歳。
▲(栃木市大町27-31 Tel. 0282-22-2052)
「会津藩歩兵指図役 野出政之進蔵主」(墓碑の側面)。
土屋八左衛門の倅、歩兵差図役。
慶応4(1868)年3月10日、下野/大田原で戦死。
「幕末維新全殉難者名鑑」には、大田原城を攻撃した「5月2日戦死」とある。 26歳。
▲(大田原市新富町3-12-6
Tel. 0287-22-2803)
大田原藩の動向を探りに来た野出は、すでにに与する決定をしていた大田原藩士と口論になり斬り付けた。 数日後の3月10日(3月1日とも)、恨みに思った大田原藩士は数人の仲間を引き連れ野出の宿屋に出向き、和解と称して誘い出し闇討ちにした。
"死ねば仏"と不退寺の住職が、当寺の墓域に葬った。
埋葬を知った大田原藩士は、激怒した。
さすがに、住職を斬り付けることは出来なかった。
鬱憤を墓石にぶつけて、刀で何度も斬り付けた。
上面に4カ所、左右側に各1ヵ所の6ヵ所が、確認できる。
[逸話]
事の経緯には、諸説がある。
密偵として城下の様子を探っていたが見つかり、切り合いとなって3名を切り伏せたが討ち取られたとの説。
藩兵200余名を率いて帰国のため白河藩との境である越堀宿に至ったが、忘れ物をしたらしく大田原へ引き返し、大田原の代官たちと斬り合いになって負傷し逃走したが、追討され死去したとの説。
いずれにしても、墓へ切りつけるほどの恨みを与えているので、斬り殺したか負傷させたのは1〜2人ではないようだ。
戒名「辧阿義頓居士」には、葬った辧海和尚の一字が付いている。
明治3〜5(1870〜1872)年頃、幕府軍34柱が埋葬された。
幕軍として戦った米澤昌平 (伝習第一大隊/参謀、4月22日に安塚で戦死、29歳) たち会津兵の数柱があったと伝えられる。
明治には入っても東軍の埋葬は禁止されていたので、「東軍・西軍の区別ができない34体を合葬」と届けての埋葬だった。
明治13(1880)年、やっと安昌寺住職を導師として改葬し、墓碑も建立された。
宇都宮城を奪取した旧幕軍は、余勢を駆って新政府軍を追撃した。
緒戦は優勢に戦ったが、に続々と増援部隊が到着するに及び、戦死者60〜70名を出し、旧幕軍/伝習隊初めての敗戦となった。
▲(壬生町安塚 辺りの道路沿い)